幕末会津で繰り広げられた戦いでは、数々のドラマが現在に伝えられています。一つは白虎隊であり、一つはNHKの大河ドラマ「八重の桜」になった新島八重(『八重の桜』は、2013年に放送された第52回NHK大河ドラマ(主演:綾瀬はるか)。幕末の会津藩で砲術に秀でた女性・新島八重が、戊辰戦争での死闘や兄・覚馬の導きによる京都移住を経て、同志社設立者の妻として時代を切り拓いた「ハンサムウーマン」の激動の人生を描いた作品)であり、もう一つは今回取り上げる会津の女侍「中野竹子」です。

 

先ず、会津戦争に付いてお話しておきます。会津戦争(1868年)は、明治維新の「戊辰戦争」の局面の一つで、新政府軍が旧幕府軍の重鎮である会津藩(福島県)を討伐した戦いです。京都守護職を勤めた会津藩主・松平容保を敵視した薩摩・長州藩主導の政府軍が侵攻し、1ヶ月に及ぶ籠城戦の末に会津藩が降伏、白虎隊の悲劇や城下の壊滅的被害が知られます。この戦いは単なる軍事衝突を超え、会津藩の誇りと忠義、そして敗北後の苛烈な処分によって、歴史上、特に悲劇的な戦いとして現在も語り継がれています。



戊辰戦争(1868〜1869年)は、江戸幕府を中心とする旧体制と、明治新政府を樹立しようとする勢力との間で起きた内戦です。大政奉還によって幕府が形式上は政権を返上した後も、政治の主導権をめぐる対立は解消されず、武力衝突へと発展しました。戦いは京都の鳥羽・伏見から始まり、東日本、そして北へと広がっていきます。戊辰戦争は単なる「新旧の争い」ではなく、日本が近代国家へ移行する過程で生じた混乱と緊張が、一気に噴き出した出来事でした。



会津藩は、江戸幕府における北陸・東北の要として重要な役割を担っていました。藩主松平容保は、京都守護職として幕府の秩序維持にも関わり、藩全体が幕府への忠義を最優先にしていました。しかし、新政府軍の進撃によって会津藩は孤立し、戦略的・心理的に困難な状況に置かれます。会津の人々は、幕府への忠義と藩の存続の間で厳しい選択を迫られました。戊辰戦争は、1868年1月に鳥羽・伏見の戦いから始まりました。その後、東海道・北陸・東北各地で旧幕府軍と新政府軍が激突します。会津藩は北陸方面から進撃する新政府軍の前線を支援しつつ、藩兵を動員して戦場へ向かいました。特に会津戦では、鶴ヶ城を中心に藩兵が奮闘し、籠城戦を展開しました。



曹洞宗・法界寺の一角に「小竹女子之墓」と刻まれた墓あります。そこに眠るのは、中野竹子という女性です。戊辰戦争の折、新政府軍と勇ましく戦い、散った娘子隊(じょうしたい)の一人です。江戸詰勘定役会津藩士・中野平内の長女として江戸の会津藩藩邸で生まれ、江戸で育った中野竹子は、五歳で百人一首をすべて暗唱するなど、幼い頃よりその聡明さを見せていました。また、幼少より薙刀(なぎなた)や書道を習い、のちに、薙刀では道場の師範代を、書道では祐筆(ゆうひつ・武家の秘書役、事務官僚)を務めるほどの実力を身につけるだけでなく、小竹の雅号で和歌も嗜むなど、その才は様々な面で発揮されていました。



抜きんでた才能をもつ彼女は、十七の時に薙刀の師である赤岡大助に望まれ、彼の養子に入りました。しかし十九歳で彼の甥との縁談があがったとき、竹子は会津藩が不穏な状況下にある最中に婚姻を結ぶことをよしとせず、自ら養子縁組を破談、実家へと戻ってしまいました。そして慶応四(1868)年一月の「鳥羽・伏見の戦い」後、江戸城への登城禁止となった会津藩主・松平容保(かたもり)公が会津に引き上げるのに伴い、竹子含む中野一家も、江戸から、時代の奔流に呑み込まれつつある会津の地へと戻っていきました。



薙刀の名手で書も得意、また妹の優子とともに美人姉妹としての評判も高かった竹子ですが、会津の自宅で湯あみをする姿を覗きに来た男を、薙刀を振り回して追い払ったという逸話が残っているように、随分と男勝りな性格をしていたようです。これぞまさに、文武両道にして容姿端麗です。薙刀を手に男衆と戦った彼女は、銃で戦に臨んだ八重と比較されることの多い人物でした。彼女が薙刀を使ったことはよく知られています。会津戦争において、彼女は自主的に会津軍からは独立した娘子隊(じょうしたい)を結成しました。中野竹子は、幕末の日本において、女性の戦士として歴史に名を刻んだ伝説の人物です。彼女は1868年、会津戦争の激戦の中で、男性に劣らぬ勇気と戦闘能力を示し、その名を後世に残しました。



竹子は江戸詰勘定役会津藩士、中野平内の長女として江戸に生まれました。母は足利藩戸田家の家臣、生沼喜内の娘、孝子(こうこ)。 竹子には弟豊記(とよき)と妹優子(まさこ)がいました。竹子は武家という特権階級の家に生まれ、容姿端麗で聡明であったと言われています。竹子は1847年、江戸時代末期に生まれました。彼女の育った時代は、女性が戦闘に参加することはほぼ考えられていない時代でした。



しかし、竹子は早くから武道に興味を持ち、養父である赤岡大輔に師事して武芸を学びました。赤岡は竹子の並外れた才能を見抜き、彼女に武道の修行を施しました。竹子は特に薙刀(なぎなた)という武器の使い手として知られ、強さ、正確さ、そして優雅さを兼ね備えた技術を習得しました。彼女は若干十代で、すでに大人の男性と戦っても引けを取らないほどの腕前を誇り、その名は周囲の武士たちにも広まりました。



慶応四(1868)年八月二十三日、会津藩若松城下に新政府軍の接近を知らせる早鐘の音が鳴り響きました。十六橋、戸ノ口と次々と要衝を突破していった敵軍が、ついに会津の要に攻め入ってきたのです。会津軍に加わらないようにという会津の家老たちの意向にもかかわらず、竹子らは前線に出陣しました。彼女の部隊は後に「娘子隊」と呼ばれるようになりました。自刃を選んだ者や避難をする者、そして戦う意思とともに城へと向かう者がいるなか、竹子もまた、薙刀を手にして母・こう子、妹・優子とともに若松城に急ぎました。



しかし、予想よりも敵軍の素早い侵攻に、城は早々に門を閉じてしまっており、入ることは叶いませんでした。その時、竹子たちは同じ道場の薙刀の稽古仲間である、依田まき子・菊子姉妹、岡村すま子の三人と出会いました。先に死んでいった家族や仲間のため、戦う意思の衰えぬ彼女たちは後世に娘子隊(あるいは婦女隊)と呼ばれる、いわば女性たちによる義勇軍を作りました。神保雪など、後から加わった婦女子も合わせると、その人数は総勢20名以上にのぼったといいます。



中野竹子ら娘子隊は、容保の義姉・照姫が坂下(ばんげ)駅に避難された、という情報を聞き、彼女の護衛に当たるため坂下へ向かいました。しかしそれは誤報で、坂下に照姫の姿はありませんでした。娘子隊は法界寺で一泊し、翌日、照姫が会津若松城に居ることを知り、再度若松城へ向かいました。その途中、宿駅に駐留していた会津藩の家老・萱野権兵衛に竹子らは従軍を願い出ました。初めは「婦女子まで駆り出したかと笑われては会津藩士の名折れ」と拒否されてしまいましたが、竹子は「戦に加えてくれなければ、この場で自決します」と決死の覚悟を見せました。その覚悟に折れたのだろうか、ついに家老から従軍の許しを得た娘子隊は、衝鋒隊に加わり、若松城へと戻っていきました。 この時、娘子隊の全員が、来るべき戦闘にむけて髪を短く切り、男装をした姿であったといいます。



悪天候に見舞われ、雨とみぞれの中、女たちは出陣しました。会津軍衝鋒隊隊長の古屋佐久左衛門は、前日娘子隊の隊長として彼女を指名しました。その日の早朝、福島県西端の柳橋で、大垣藩の兵に遭遇し、中野は突撃を命じた。戊辰戦争で新政府軍が着用していた赤熊(しゃぐま)を被り銃器を携えた隊長が指揮を執っていました。敵の隊長が敵軍に婦女子がいることを知り、「女だ、殺すな!」と叫びました。この一瞬が娘子隊に攻撃の隙を与え、娘子隊は砲撃が再開される前に何人かの大垣兵を倒しました。



会津の女性兵士たちは、予想外の強さで敵を圧倒しました。中野竹子は薙刀を持って、幾人かの敵を倒しましたが、胸に銃撃を食らいました。竹子は敵に首を捕られないよう、妹の優子に介錯を頼のみました。優子はこれに同意し、農兵である上野吉三郎の助けを借りて介錯しました。戦闘中神保雪子に助けられた養妹の平田小蝶は、竹子亡き後城を守るため隊長を引き継ぎ、山本八重が副隊長となりました。戦いの後、孝子も優子も鶴ヶ城に入り、山本八重と合流しました。



竹子は、会津戦争の激闘の中で、その驚異的な戦闘力を発揮しました。彼女は戦いの中で、剣術や薙刀を駆使し、数々の戦闘で敵を打ち倒しました。特に、女性武士たちを指導し、戦場でのリーダーシップを発揮したことで、後の世に名を残すこととなります。竹子の戦いぶりは、ただの武士にとどまらず、忠義と誇りを体現するものでした。彼女は家族や故郷を守るために戦い、女性であっても決して負けることのない強い意志を示しました。中野竹子の首級は、妹の手によって近くの法界寺(現在の福島県会津坂下町)に運ばれ、松の木の根元に住職の手によって安置されました。彼女の薙刀は寺に寄贈されました。



竹子は出陣の際、携えた薙刀の柄に次の一句を書いた短冊を括り付けていました。"もののふの 猛き心にくらぶれば 数にも入らぬ 我が身ながらも“”鉄砲の前では非力な薙刀でも、それまでの戦いで死んでいった会津の同志を想うと戦わずにはいられなかったのでしょうか。女性とはいえ、兵たちに負けず劣らずの覚悟を決めた竹子の遺志が伝わってくるようです。今でも多くの人の胸を震わすこの辞世の句は、その雄々しかった魂を象徴するかのように、彼女の遺蹟に刻まれています。この戦闘の後、娘子隊は兵たちの看護のため、若松城に戻ることとなりました。



無事入城した竹子の母・こう子は、そこで出会った新島八重に次のようなことを尋ねたといわれています。「あなたはなぜ、娘子隊に入らなかったのですか―」娘が死に、その一方で、同じ年頃で、かつ薙刀を学んでいた八重が隊に加わらなかったことに思うところもあったのでしょう。その疑問に、八重はこう答えたと云います。「私は、鉄砲で戦う考えでおりました」新政府軍との戦では、すでに刀ではなく、銃でないと通用しない。八重はそのことがよくわかっていたのです。中野竹子の命を奪ったのも、一発の銃弾でした。そのためだろうか、後日の戦闘では、八重とともに銃を構える、こう子や優子の姿が見られたといいます。



現在、激しく戦い散った彼女の戦死地、柳橋のたもとには「中野竹子殉節の碑」と、薙刀を構える竹子の白い像が建てられています。その像が見据える先、柳橋の下を流れる、今も昔も変わらぬ川の涼やかなせせらぎに、訪れた人々は何を想うのでしょうか。



明治維新を経て、1868年(明治元年)に天皇親政となり、武士階級が廃止された。中野竹子は歴史上最後の武士の一人として記録されています。竹子の最期は、戦いの中で命を落とすというものでした。戦場での活躍を終えた彼女は、敵の兵士に倒されるものの、その死後も女性武士としての精神は語り継がれ、今日に至るまで多くの人々に感動を与えています。彼女の物語は、ただの戦争のエピソードではありません。性別に関わらず、武士道精神を貫いた女性として、後世に大きな影響を与え続けています。竹子の勇敢な戦いとその誇り高い精神は、女性の強さを象徴するものとして、今なお語り継がれています。