ji3の昔話

 



1958年(昭和33年)ji3が中学生の頃、初めて手にしたヤシカ6×6ボックス形カメラで写した写真の一枚に、生家の前の国道を昭和天皇の車列が通った時のものがあります。この時からji3は自動車に興味を持ちました。御料車はメルセデスベンツ 770で、1930年から1943年まで製造されたメルセデスベンツの最高級車です。「グロッサ―(巨大な)メルセデス」とも呼ばれ、各国の王族・元首の公用車として用いられました。日本の皇室でも、1932年から1935年にかけて7台のW07型を輸入、使用してきました。



フローリアンは、いすゞ自動車が、同社のベレットの上級車種として、イタリアのカロッツェリア、ギアにデザインを依頼したものです。ショーモデルとして制作された117スポルトに対する117セダンとして発表され、1年後にフローリアン1600として販売されました。販売は低迷するが、なぜか15年間に渡って継続販売されました。



117クーペは、120馬力DOHCエンジンを搭載したファストバックの高速ツーリングカーで、エレガントなスタイルでありながらスポーツマインドを存分に感じさせる117クーペは、高級パーソナルカーの代名詞となりました。1966年のジュネーブショーで発表され、数々の賞を受賞しました。車名の“117”は開発コードが由来となっていて、117サルーンとして開発されていたいすゞ・フローリアンと共通のプラットフォームをベースとしています。



ジェミニはベレットの後継車として、1971年に提携したGM社の初のワールドカー構想「T-Car」によって共同開発した小型乗用車です。ジェミニはGMグループのドイツのアダム・オペル社の基本設計をもとに、日本の市場に適合させ、いすゞ独自の技術を加えた車で、ボディタイプはセダンとクーペの2種類がありました。オーストラリアやアメリカなどにも輸出され、ノックダウン輸出先のGMホールデン社のジェミニは、1975年度のオーストラリアにおける「Car of the Year」を受賞するなど高い評価を受けました。



ベレットは1963年から販売されていたいすゞの乗用車です。4ドアセダンを基本に2ドアセダン、そして2ドアクーペのGT系が用意され、特にハイスペックなGT系は流線型フォルムと合わせて若者から絶大な支持を集めました。日本初のグランツーリスモ「ベレット1600GT」は、レース技術をフ ィードバックした走りの性能を持つ本格的GTカーで、高速、ロングドライブに最適なGTというジャンルを拓(ひら)いた車です。



いすゞがRVを除く乗用車生産から撤退したのは1993年です。そこからさかのぼること30余年、 61年10月に発表され、翌62年4月に発売されたいすゞ初のオリジナル乗用車が「ベレル」です。ベレル(Bellel)という車名は、いすゞ(五十鈴)の「鈴」を意味する“bell”と「五十」を意味する“el”を組み合わせた造語であり、「いすゞベレル」とはすなわち「いすゞ・いすゞ」と名乗っていたことになります。



20世紀半ば、個人が興した自動車会社の中に「オオタ自動車」という自動車メーカーが存在していました。生産台数は「ダットサン」の1割にも満たない生産台数でしたが、常に「ダットサン」をライバル視した車造りを行い、「ダットサン」に勝るとも劣らない自動車を販売していました。1953年、小型ボンネットトラック「K系」シリーズがモデルチェンジされて発売されたのが「KC型トラック」です。



これは日本車を代表するトヨタの「クラウン」にも言えることなのですが、キャデラックは誕生から長らくアメリカ国内のターゲットに絞ったマーケティング戦略を取ってきました。海外へは、日本や台湾・カナダそれにフィリピンなど旧西側陣営かつ、よりアメリカと親密でGMの影響が大きいマーケットに限り正規輸出されていました。東西の垣根を無視すれば、アラブの王国など親米であり比較的豊かな国だけが、キャデラックを手にすることができたのです。それ以外の国、たとえば英国やドイツなどでは、キャデラックを手に入れる手段は並行輸入しかありませんでした。



昭和21年(1946)年7月に三輪トラック・くろがね号の生産開始した日本内燃機(株)は1957年6月オオタ自動車を吸収合併1959年6月に東急くろがね工業(株)社名変更しています。最初に三輪に直列4気筒エンジンを搭載するなど先進的な技術を誇っていましたが1962年1月に会社更生法を申請して生産を中止しています。



コニーグッピーは、軽自動車規格に沿った軽トラックや軽ライトバンを生産していた愛知機械工業が当時の軽自動車よりも小型で廉価な自動車として発売しました。ミッションにトルクコンバータを採用していたのでギアチェンジが不要になり、変速は前後の切り替えのみでした。「スーパー」は、開閉式三角窓やフロントバンパーにメッキモールを装備した豪華仕様車でした。



ヂャイアント・コニー360とは、日産自動車系列の自動車部品メーカーである愛知機械工業株式会社が、完成車メーカーであった当時の1959年(昭和34年)から1962年(昭和37年)まで製造販売していた軽商用自動車(ライトバン及びピックアップトラック)です。同社は、昭和20~30年代にかけて「ヂャイアント」のブランドでオート三輪を製造、「コニー」の名は1959年(昭和34年)3月に発売した軽三輪車・「ヂャイアント・コニー」AA27型に初めて与えられたものでした。



初代「アルト」は1979年5月にスズキから発売され、優れた運転性能、使い勝手、経済性を兼ね備えている自動車として大ヒットしました。全国統一価格(車両輸送費用を含む)で、47万円という衝撃的な低価格設定は、女性をメインに受け入れられ、セカンドカーというカテゴリを開拓していきました。初代「アルト」が誕生した背景には物品税の存在がありました。当時、自動車の工場出荷価格に対して、 小型車(2000ccまでの5ナンバー)には18.5%、軽自動車には15.5%の物品税が課税されていました。販売価格が物品税によって高くなってしまう状況になっており、スズキはこの物品税が非課税の貨客兼用車(ボンネットバン)に目をつけました。スズキはコストダウンなどを重ね、この貨物兼用車の枠に入る初代「アルト」を誕生させました。



レジャーブームが到来しようとしていた1960年代後半に、当時の鈴木修常務が「もっと軽の特長が生かせるユニークな車を」と考えたことが始まり。ホープ自動車が開発した軽規格の「ホープスターON型4WD」の製造権を買い取った後、同車をベースに設計・開発を進めた。初代「ジムニー」は、1970年4月に当時の軽自動車としては唯一の四輪駆動車(2サイクル0.36ℓ)として発売され、悪路走破性とコンパクトな車体による取り回しの良さから、様々な作業現場や山間部、積雪地での巡回活動や、重要な交通手段として活躍してきました。



フロンテは開拓者精神を意味する「フロンティアスピリット」の略であるとともに、FF方式を意味しました。ただし2代目から4代目はRR方式を採用しました。1963年に発売したスズライトフロンテFEAでは、鈴鹿サーキットで開催された「第1回日本グランプリ自動車レース」に挑んだ。四輪レース初出場でありながらも軽四輪部門で1・2・4位を独占しました。やがて本格的なモータリゼーション時代を迎えて、より軽く、より速く、スポーティーな軽乗用車が求められるようになったため、軽自動車初の2サイクル3気筒エンジンを搭載するフロンテLC10を開発しました。



スズライトは、ドイツ車ロイトをベースにした試作エンジンをさらに改造して作られたスズキ初の軽4輪車用空冷2サイクル2気筒360ccエンジン車です。1954年3月から試作図の製作が開始され、1995年10月発売のスズライトシリーズに搭載されました。日本の激しい軽自動車競争の中で小型軽量化と低コスト化の技術が養われ、他の追随を許さないレベルになっていたからです。スズキには、半世紀にわたって小さなクルマをつくり続けてきた歴史があります。原点は、1955年に発売した「スズライト」でした。



スバル 360は、機械遺産に認定された昭和の名車です。スバルブランドの起源となった自動車であり、丸みを帯びた外装から「てんとう虫」と呼ばれています。360は車両重量が385kgと、コンパクトサイズであることが特徴です。このスバル 360の登場から、スバル車は現在も進化を続けています。随所に創意工夫をこらした「スバル360」は、4人乗りで最高速度83km/hを発揮しました。 しかも走行安定性、乗り心地、高速時の操縦安定性などは小型4輪車と比べても技術的には何等遜色はなく、自動車関係者および報道関係者は「世界水準をいくミニカー」と、こぞって絶賛したものです。



スバル1000は、SUBARU初の量産小型車で、自動車市場の拡大や道路網の高速化が進んでいた1966年に誕生しましました。あらゆる速度域で安全かつ軽快に走れる走行性能と、優れた快適性・居住性の実現という乗用車の理想を追求し、水平対向エンジンを縦置きにした左右対称のFF方式を採用しました。コンパクトで低重心の水平対向エンジン、インボードタイプのフロントブレーキ、デュアルラジエター方式、4輪独立懸架サスペンションなど、当時としては画期的なメカニズムを満載して、スバル1000は登場しました。



FFを活かした車内の広さや雪道走破性の高さなど、理想を追求するクルマづくりで熱烈なファンが多かったスバル1000/ff-1。しかし本格マイカー時代の到来は自動車メーカーに、より多くのユーザーや海外市場にも対応する多様性を要求されます。とくに若年層へのアピールは重要です。そして登場した初代レオーネは、セリカやギャランGTOなど当時人気だったクーペを先行デビューさせ、順次車種を拡大していく戦略をとりました。一方FF、縦置き水平対向エンジンというスバルの特徴は4WD化が容易です。電力会社の要求をきっかけに世界初の乗用型4WDも誕生しました。



三輪/四輪商用車メーカーとして基盤を築いたダイハツは、1963(昭和38年)年5月、コンパーノワゴンで乗用車市場への参入を果しました。とはいえ乗用車=贅沢品だった時代、主力を商用バンに置いたのは、ミゼット(オート三輪)やベスタ(小型トラック)で成功を収めてきたダイハツらしい戦略でした。デザインをカロッツェリア・ヴィニヤーレに依頼したコンパーノ バン/ワゴンは、ミニアメ車的デザインの多かった国産車の中では異色の存在で、派手さはないもののイタリアンルックでまとめたディテールの美しさは群を抜いていました。乗用車市場への本格参入を目指すダイハツは、これをベースに自社デザイナーの手でボディ後半部をノッチバックセダンに改良した「コンパーノ ベルリーナ」を開発しました。



欧米に比べ四輪車の普及が遅かった日本では、戦前から、昭和30年代にかけて、小回りが利き、狭い場所への出し入れの容易さや、四輪車の3分の1程度の低価格というメリットなどからオート三輪車の全盛期を迎えていました。SA-6型は1930年からオート三輪車の生産を開始し、戦前オート三輪車のトップメーカーであった発動機製造(株)[現ダイハツ工業(株)]が、1937年に製造した当時の人気モデルです。



ダイハツ・ミゼットは、日本のクルマの原点ともいえます。「midget=超小型のもの」という車名の通り、2540mmの全長に1200mmの全幅というコンパクトな車体です。249ccの空冷単気筒エンジンを積み、初期型はドアがなく、ハンドルは円形でなくバーでした。 三輪の大きな荷台があるオートバイという感じです。いわゆるオート三輪は、戦後復興期の立役者でした。1940年代から50年代中頃まで、自転車やオートバイでは積めない荷物を運べることで物流の一翼を担っていました。特に50年から53年にかけては、オート三輪は多くのメーカーから発売され普及したのです。



1947年、トヨタ自動車は最初の小型エンジンS型(SV、955cc、27HP)を開発し、小型の乗用車やトラック(トヨエースの初期モデルSKB型)に搭載しました。高速化、高出力化を目指したエンジンR型(OHV、1453cc、48HP)が、1953年に開発され、生産が減少したS型エンジンの有効利用を図ることが検討されました。歴史と発展 トヨエースは、1954年に初代モデルが登場して以来、長い歴史を持つ商用車シリーズです。初代モデルは、荷物運搬や人員輸送などの商用目的に特化した設計であり、その堅牢な作りと経済性から多くのビジネスオーナーや事業者に支持されました。その後もトヨエースは、進化を続けながら商用車市場での存在感を高めてきました。



トヨタ2000GTは、1967年から1970年にかけて生産された車種です。1968年8月にはマイナーチェンジが行われ、それ以前の型を前期モデル、以降の型を後期モデルと呼びます。後期モデルでは座席にヘッドレストが付けられ、クーラーが採用されるなど仕様の変更が見られました。世界中のスーパーカーファンの間で有名な「トヨタ2000GT」は1967年に発表された車種です。その後、1970年までの約3年間のみ販売され、337台のみの生産台数のため『幻の名車』と呼ばれています。トヨタとヤマハ発電機の協力開発のもと当時の日本初技術を多数採用し、欧州のスーパーカーに並ぶ性能を誇りました。



トヨタスポーツ800は、1962年のモーターショウで発表されたプロトタイプであるパブリカスポーツを祖として、1965年4月に登場しました。空気力学を重視した機能的スタイルをそのままに、パブリカのコンポーネンツを用いてコストダウンを考えた大衆のためのスポーツカーでした。デタッチャブルトップの開放感と、わずか790ccの空冷水平対向2気筒から得られる時速155キロの最高速度はドライブの楽しさを一般的なものにしたのです。



AE86(エーイーハチロク)とは、1983年(昭和58年)にトヨタ自動車が発売した4代目カローラレビン/スプリンタートレノの共通車両型式番号です。俗にハチロクという通称で知られています。設計と生産は関東自動車工業が担当しました。1970〜80年にかけてムーブメントを巻き起こしたスポーツカーです。各自動車メーカーから多くのスポーツカーが発表され、ファンを虜にしてきました。トヨタがリリースした「AE86 スプリンタートレノ」は現在でも人気のスポーツカーの一つです。最も有名な逸話としては、有名漫画「頭文字D」の主人公である藤原拓海が使用していたことが挙げれられます。



昭和30年代に活躍した日本のパトカーに採用されていた中にトヨタのクラウンがありました。クラウンはトヨタの販売会社であるトヨペットの取り扱いであったため『トヨペット・クラウン』という名前で呼ばれていました。しかしこのクラウンの姿をしたパトカーは、実はクラウンではありません。当時のクラウンは、R型4気筒1453cc/48馬力エンジンが搭載されていました(RS20系)が、このパトカーには当時のランドクルーザーと同じF型⒍気筒3878cc/110馬力が搭載されシャシも専用設計された”別物”でした。一般的な乗用車が360ccや、せいぜい1000ccな当時は『化け物級』だと思われました。



国民車構想が発表される1年以上前から、トヨタは700cc級の大衆車の試作を始めていました。この時代、車検や税金、免許の点で有利だった360cc枠にこだわらなかったのは、来るべきハイウェイ時代を見据えていたためです。1.5L級に近い最高速度と軽自動車並みの販売価格を目指し、その研究開発には6年以上という長い歳月が費やされました。また発売後も毎年のように改良が加えられ、その大衆車造りのノウハウは、世界的ベストセラーカー「カローラ」へと引き継がれていきました。



トヨタミニエースは、パブリカのコンポーネンツを流用したトヨタ最小のキャブオーバートラックとして、1967年にデビューしました。トラック、バンの他に、乗用登録のコーチも1968年末から販売されました。1960年代のキャブオーバーバンらしく、愛くるしいスタイリングが魅力的でした。いささかプリミティブなイメージを与えがちな空冷水平対向2気筒エンジンを搭載しながら、トヨタ自慢の販売力を生かして、イメージ上有利な4気筒エンジンを搭載するマツダ・ボンゴ、三菱デリカなどのライバルと互角以上の販売成績をあげました。



初代ランドクルーザーは、米軍と警察予備隊(現陸上自衛隊)の要請で『トヨタジープ(BJ)』という名称で開発を進めていました。BJという名称の由来は、水冷直列6気筒3,400ccのB型ガソリンエンジンで、SB型トラックシャーシを改良したJ型シャーシを採用していたためです。 その後、警察予備隊は三菱ジープを正式採用したため、1953年にトヨタジープは民生用として量産を開始します。翌年の1954年には、「ジープ」の商標を保有していたウィリス オーバーランド社から指摘されたため名称変更することになり、「ランドクルーザー」が誕生しました。ランドクルーザーは、「陸(Land)」+「クルーザー(Cruiser)」で、「陸の巡洋艦」がコンセプトです。



海外の協力を得ながら車の生産をおこなっていた当時の日本。その中でトヨタは純国産方式を選択し、独自開発により初代クラウンである「トヨペット クラウン」を開発し、1955年1月7日に発売しました。名前の由来は、一般公募の「トヨペット」と、英語で王冠の意味の「クラウン」から決定されました。「軽快・堅牢なシャシー、広くて快適な車室」がキャッチコピーの初代クラウンは、当時の先進技術が採用され、すべてのバランスがとれた車として話題になりました。乗用車専用のシャシーを取り入れ、エンジンは4気筒OHV1.5リッター48馬力のR型。トランスミッションは3速MTでコラムシフトで、サスペンションは前輪はダブルウィッシュボーン/コイルスプリングの独立式を、快適な乗り心地を得るために採用しました。



トヨペット・コロナST10型は、関東自動車工業が設計・製造したもので、トヨタ車としては初めて単体構造ボデーを採用しました。車両型式のST10は、「S」がS型エンジン搭載を、「T」がコロナ用T型ボデーを、「10」が1番目モデルの標準型セダンを表しています。つまり、「S型エンジン搭載初代コロナの標準型セダン」です。なお、この車両型式の設定方法は、1955年11月発売の初代「マスターライン・ピックアップ」(RR16型)、同ライトバン(RR17型)から導入されました。ST10型は、4人乗り小型自動車で、すぐに入手可能な既存の部品を使用して設計したことが特徴です。上のST10は、上司の車です。良く借りて走り回りましたが、良く壊れました。エンジンの水ポンプの軸がbagでなく、ブッシュ式なのでファンが飛んでラジエータが壊れ、レッカー車に吊られて帰った思い出があります。



急増する小型車市場で苦戦を強いられたコロナPT10型の陰で着々と開発が進められたPT20型(ニューコロナ)は、オーナーカーとしての自信作でした。カンチレバーの後輪懸架がもたらす乗り心地のよさやティーザーキャンペーンを、わが国で初めて展開するなど話題を呼びました。PT20型コロナのP型エンジン(997cc、45馬力)をR型エンジン(1,453cc、60馬力)に載せ替えた対米輸出専用車トヨペット・ティアラ(RT20L型)を国内向け仕様に変更し、1961年3月にトヨペット・コロナ1500(RT20-B型)として発売しました。この発売後まもなく、PT20型の生産は打ち切りました。



「このクルマは、1964年式のトヨペット・コロナ デラックスです。『RT20型』という、トヨペット・コロナ(以下、コロナ)としては2代目にあたるクルマです。発売当初には1000cc「P型」エンジンを搭載するモデルのみでしたが、翌年に、60PSを発揮する1453ccエンジンを搭載する「コロナ 1500」、「コロナ 1500デラックス」がラインナップに加わりました。また女性ドライバーからの支持を得るため、2速ATの「トヨグライド」装着車、自動クラッチの「サキソマット」装着車の2モデルを追加し、イージードライブに力を入れられています。



RT20型で初期の苦しい立場から脱したコロナは着実に生産を伸ばし、1964年5月には総力をあげて新型RT40型を送り出しました。4灯式ヘッドの新しいスタイルを持ち、最高速度も140キロに向上、同時に開通したての名神高速での10万キロ連続走行公開テストなどハイウェイ時代をイメージする積極的な販売戦略を展開したのです。その結果、国内、輸出の両面で大成功を収めトヨタの主力になったばかりか、技術レベルを一気に国際水準まで引き上げることになりました。



60年代の後半になると、クラウンとコロナは3代目に発展しました。66年には初代カローラも登場して、トヨタは品ぞろえを充実させる段階に入っていました。特に当時はモータリゼーションの真っ只中。今とは逆に大きなクルマに代替えするユーザーが多く、コロナとクラウンの間に位置する車種が求められていました。クラウンは、法人向けのセンチュリーを除けば実質的にトヨタの最上級セダン。勤務する会社で重役が愛用していることも多く、敷居が高かったです。コロナのユーザーとしては、中間的な車種を求めたのは自然な流れだったのでしょう。そこで「コロナ」の車名を冠した上で、マークⅡが投入されました。



戦後間もない1947年、トヨタはSA型小型乗用車用に開発したS型エンジンを搭載した、トヨペット・トラックSB型を発売しました。1t積のボンネットトラックで、戦後のトヨタの主力車種の1つとなりました。その後、ホイールベースを延長して荷台とキャブを拡大したSG型トラックを1952年に発売しました。1953年にはマイナーチェンジ版のSK型トラックと、1.25t積でR型エンジンを搭載したRK型トラックも発売されました。この頃には、標準ボディの他にライトバンや、5人が乗車できるピックアップ、医療現場向けの救急車、家畜などの運送に使い勝手のいいステーキカー、ライトバンを改良した郵便車、あおりの高い深ボディトラック、キャブオーバー型のボディを架装したルートバン、その発展形である宣伝車など、既に多彩なボディバリエーションをラインナップしていました。



まだ戦後間もない1947年(昭和22年)4月に生産・販売が開始されたトヨペットSB型トラックは梯子型フレームに前後固定車軸・リーフスプリングにS型エンジン搭載という構成でキャブ部分と荷台が完全に分離した設計となっていました。このSBシャシーはダブルキャブ等のバリエーションが製造されました。SB型は1950年代初頭には他車にもよく見られたヘッドライトがフェンダーから独立したスタイルが外観的な特徴でした。SB型は約5年間の製造期間にSA型乗用車の215台とは桁違いの約1万3000台が生産されました。上右の写真は、勤めていた山形市成沢の車屋さんで、お客様の路上故障のため蔵王温泉に出かけたのですが、出力不足のため第1速で登れず、後退(バックギヤ)で上った思い出があります。



RR型乗用車の開発責任者は主査室の薮田東三主査が務めましたが、ボデーの設計は関東自動車工業がそれまでどおり担当しました。RS型乗用車は完成車販売とする方針であったことから、関東自動車工業が行っていたRHK型乗用車の架装事業が消滅するため、急遽その後継車としてRR型乗用車を開発することになったのです。RR型乗用車のシャシーは、トヨタ自工の挙母工場で製造され、そこからボデー架装のため、神奈川県横須賀市の関東自動車工業へ送られました。1954年3月にはRR型試作車の第1号が完成し、同年9月から量産を開始しました。



1962年に登場した二代目トヨペット・クラウンにはライトバンおよびワゴンボディが設定され、商用車登録のバンはマスターライン、乗用車扱いのワゴンはクラウンカスタムと車名も区別されました。大きな変更としては1965年には6気筒エンジン搭載を前提にフロント部分を延長する変更がありました。翌年秋にも外観の小変更を受け、1967年には世代交代とともにマスターラインの名も消滅しました。



プリンス自動車工業から初代のグロリア(BLSI 型)が誕生したのは1959(昭和34)年と日産セドリックより古く、当時のスカイライン(ALSI型)を母体とした派生車でした。1962(昭和37)年9月デビューの2代目・S40系はプリンスなりの「日本の高級車の理想形」を提示した意欲作で、斬新なフラットデッキスタイルと、路面追従性に優れたド・ディオン式リアサスペンション、アルミドラムブレーキなど、当時の最新技術の採用も特徴でした。このスーパー6(S41型)は1963年に追加されたトップグレードで、2ℓクラスでは当時日本初となる直列6気筒SOHC「G7型」エンジンを搭載。この優秀な6気筒エンジンがのちに「スカイラインGT(S54型)」に転用されて活躍したエピソードは有名です。



今から約70年前の1957年4月24日、日本最古のスポーツセダンが誕生しました。その名は「プリンス スカイライン」です。日産自動車に吸収合併される前のプリンス自動車時代の名車です。その源流は、後の3代目C10型・ハコスカGT-Rの誕生(1969年2月21日発売)へと繋がっていく事になります。初代スカイラインは航空機メーカーを母体とする富士精密工業(後のプリンス自動車)が、プリンス セダン(AMSH型)の後継モデル、プリンス スカイライン(ALSI型)として世に送り出しました。国内自動車メーカーとして後発であった富士精密工業が揚げた開発理念は、世界に通用する性能を持ち、高速でも安全かつ快適に走行できる主力モデルというものです。また、当時の悪い道路事情でもタクシー用としても耐えうるという、高い目標も掲げられました。



スーパーカーの定義に沿ってその原点を探せば戦後現れたひとつの名車に行き当たるはずです。それがメルセデスベンツ300SLです。スーパーカー界における形而下の原点がフォードGT40だとすれば、形而上的にはM・ベンツ300SLが原点、というわけなのです。レーシングカー直系の性能。それを可能とする、最新のエンジン技術とシャシー/ボディ構造。そして、その結果としての素晴らしいガルウィングスタイル。機能的だが豪華さも散りばめられたインテリア。織り重なった数々のヒストリー…。300SLがスーパーカーの元祖であることを説明するには、もうこれくらいで十分でしょう。



今から50年前、Hondaからはじめての軽乗用車が生まれました。名前はN360。Nシリーズの原点です。N360はその愛らしい見た目と当時の軽の常識を覆す広さとパワーで一躍ベストセラーカーに。その人気は瞬く間に若者にも広がり、クルマにあわせて服をコーディネートしてドライブを楽しむ、そんな新しいライフスタイルの先駆けとなりました。N360はちいさくて丸いその見た目から、「Nっころ」の愛称で親しまれ、多くの人に愛されました。



日本の量産車で、最初にDOHCを採用した車はなにかご存知でしょうか?実はT360という軽トラックだったのです。1962年の東京モーターショーで、まだバイクメーカーだったホンダは、スポーツカーのS360、S500、軽トラックのT360を展示し、4輪車市場進出を図りました。このうちS360は「軽自動車でスポーツカーは望ましくない」と、結局中止となり、エンジンだけが軽トラックへと受け継がれました。本当はトラック専用のエンジンを開発する予定もあったのですが、国がこれ以降新規自動車メーカーを認めないという方針を打ち出していたので、急いで4輪車を市販し、4輪メーカーの仲間入りをする必要があったようです。



ホンダのアコードは、アメリカナイズされた存在感のあるスタイリング、掛け心地の良いシートを備える質感の高いインテリア、パワフルなエンジンを搭載した優れた走行性能を持つ、名実ともにホンダを代表する長い歴史を持つFF駆動3ドアハッチバックセダンとして1976年5月に発売されました。初代モデルはホンダ独自の低公害エンジンCVCCとして名高い1.6L直列4気筒OHCエンジンおよび1.8L直列4気筒OHCエンジンを搭載し、ロングストロークエンジンの持ち味である低速トルクの厚い、フレキシブルでドライバビリティの高い走行性能と環境性能を両立し、初代モデルにおいては世界90ヶ国で販売され、生産累計台数150万台を誇る人気車種となりました。



初代シビックには、FF・横置きエンジン、ハッチバックスタイル、ストラット方式四輪独立懸架サスペンションなどの様々な先進技術を導入しました。経済性・機能性・合理性の総合バランスに優れたベイシック・カーとして、当時の小型車市場に新風を巻き起こしました。以来、シビックは常に次の時代を予測し、その時代のベイシックカーとなるべく進化を重ね、日本の小型車マーケットに絶えず新しいFF車の流れをつくってきました。初代シビックが「モーターファン」誌主催の「カー・オブ・ザ・イヤー」に3年連続で第1位に選ばれたのをはじめとして、米国「Car & Driver」誌主催の「テン・ベストカー」の3年連続受賞や、ドイツ(旧西独)「ゴールデンステアリング賞」など、国内・外で様々な賞に輝くと同時に、米国環境保護庁の燃費テストにおいて4年連続第1位となるなど、世界で認められた小型車としての地位を確立してきました。



ライフは、ホンダ初の4ドア軽自動車であり、「広い生活空間を持ったまろやかなフィーリングファミリーカー」を開発テーマに掲げ、1971年6月に誕生しました。8000回転で最高出力を発揮する水冷並列2気筒4サイクルエンジンを横置きに配置、ボディの4隅にタイヤを配置し、スペース効率に優れるFF 駆動を採用することで、数値以上の広々とした室内空間と高い走行性能から、発売と同時に高い人気を博しました。初代モデルでは、時代を先取りした軽トールワゴンとも言える、セミキャブオーバー型の「ライフステップバン」、ライフステップバンの後席部分を取り払ったピックアップトラックモデルの「ライフピックアップ」などユニークな派生車が発売されました。



1960年5月28日、マツダ初の乗用車「R360クーペ」が全国一斉に発売されました。所得水準の向上やライフスタイルの変化に伴い、人々のマイカーの購買意欲がまさに高まり始めたころです。自動車業界においても、1954年に開催された第1回全日本自動車ショウの盛況、1955年に通産省が打ち出した国民車構想、目前に迫った貿易自由化などに刺激され、乗用車生産拡大の機運そのものが熟してきていました。とはいえ、当時のクルマはたとえ軽乗用車であっても一般大衆には高価で、手の届きにくい存在でした。人々のマイカーへの夢を叶えたい。マツダのその情熱から、当時の常識を打ち破る軽乗用車、R360クーペは生まれたのです。



オート三輪は長い歴史を持っていますが、街中で見かけなくなってもう長い時間が経ちます。マツダは1974年まで製造していました。三輪トラックの歴史は古いく、マツダ(当時は東洋工業)でいえば1931年に「マツダ号DA型」という三輪トラックを発売しています。半分は自動車で、半分はオートバイ。そんな存在が日本の経済を支えてきたのです。マツダにとって記念すべきモデルとなったのは、このとき初めて「マツダ」の名前が使われ、それが後に社名になったためです。いまでは、世界一美しいクルマを作るメーカーと称されるなど、世界中で評価の高いマツダですが、その原点は三輪トラックです。太平洋戦争後、三輪トラックを作るメーカーは多く、よく売れました。1953年の日本では、トラック生産台数の72パーセントが三輪トラックだったそうです。



キャロルは、R360で乗用車に進出したマツダが、その2年後に出した軽自動車です。ルーフ後方を大胆に切り落としたクリフカットと呼ばれるスタイルに特徴があり、それによって4人の居住空間を確保し、ファミリーカーとして使用された。また、当時として破格の水冷4気筒エンジンを搭載しました。この車は翌年に作られた4ドアで、1970年まで265000台生産され、マツダの基礎を築いた1台となりました。世界最小の水冷4気筒エンジンを搭載して発売された軽自動車です。この時代にダイハツフェローやホンダN360も誕生しました。人々にとってマイカーが現実のものとなってきたのです。



所得分布は低所得者ほど幅広いという独自のピラミッドビジョンに則り、R360クーペ〜キャロル〜キャロル600と乗用車のバリエーションを下から拡大してきたマツダが、次のステップとして800ccクラスにファミリアを投入したのは1963年(昭和38年)9月でした。市場の動向を探るため商用車(バン)からスタートしたのは、ダイハツ同様、商用車製造で力をつけてきたマツダらしい選択でした。そして1年後の第11回東京モーターショーで待望の2ドアセダンがお披露目されました。しかも参考出品ではなく開催期間中の10月1日に発売されました。



1946年、中日本重工業水島製作所(新三菱重工業)が三菱系の大資本をバックに空冷式単気筒エンジンを搭載した小型3輪自動車の製造販売を始めました。生産直後の初期モデルは、太平洋戦争の戦時中にストックされた高品質の鋼板や非鉄金属を転用して製造したため、材料が高品質で耐久性に優れていました。1952年には排気量の大きいエンジンを載せ、最大積載量を1000kgに拡大した「TM4E型」に発展しました。



三菱360とは、三菱自動車が1961年にLT20型として発表した軽貨物自動車のことです。乗用車モデルである初代ミニカLA20型は、このLT20型をベースに1962年にデビューしました。従って、三菱360はミニカではありません。正式名称が三菱360なのです。トランスミッションは、4速コラムシフトで、最初はそのパターンに慣れが必要です。貨物車なので、空荷の時は、2速発進で十分なのですが、2速に入れているつもりが、4速に入っていることもあり、発進時にエンストしてしまうことも、まだあります。2速に入れて走り出すと、非常に滑らかな加速で、走ります。4速での最高速度は70km/hほどで、カタログ上の85km/hまで出すのは、ちょっと辛いかもしれません。



1952年に軽自動車免許が新設され、16歳から取得できるようになりました。これを受け、三輪各社は続々と軽市場に進出しました。三菱は最後発で、漫画家の手塚治虫の作品にちなんで命名されました「三菱 3輪ペット レオ」が1959年に発売されました。スチール製の小鳥の顔を思わせる全天候型キャビンや水平に寝かして搭載した単気筒エンジンなどが特徴です。現存する車両は数台しかないと言われ、大変貴重な車両です。ホープスター、ダイハツ ミゼット、マツダ K360、に続いて最後に発売されたのが三菱 ペット レオでした。しかし1962年に新三菱重工業は全ての三輪トラックの生産を停止したため生産を終了しています。



ウエッジシェイプを基調としたシャープなスタイリングで1969年(昭和44年)12月から登場したコルト・ギャランシリーズは、「従来のドロくさい三菱車のイメージを一変させた軽快なセダン」として好評を博しましたが、そのギャラン人気に拍車をかけたのがほぼ1年後の1970年10月に発表され、11月から発売されたスペシャリティカー、ギャランGTOシリーズででした。ファストバックにダックテールのこのヒップアップクーペは、69年10月の東京モーターショーに出品されました「ギャランGTX-1」の市販化モデルで、車名もギャランGTOと改めての颯爽としたデビューとなりました。



「ジープ」はかつて軍事用車両として、第2次世界大戦中にアメリカで開発されました。そして、戦後は日本のメーカーによって2000年代まで販売されていたクルマでもあります。ジープは、1940年から生産が始まり、第2次世界大戦中には約64万8000台が製造されたともいわれています。初めての国産ジープは、現在の三菱重工株式会社にあたる「中日本重工業」によって作られました。当時は、ジープを製造していたアメリカの企業「ウィリス・オーバーランド」と、「倉敷レイヨン」との共同出資によって設立された、「倉敷フレーザーモータース」によって販売され、主な顧客は日本にいるアメリカ軍や、軍人、警察予備隊だったとされています。しかし、最初の国産ジープはアメリカから部品を輸入し、組み立てを日本でおこなう「ノックダウン生産」方式だったため、車体やエンジンなどはすべて外国製で、「組立式輸入車」といえるものでした。



初代三菱パジェロは、1982年に三菱自動車から登場した本格SUVです。ノックダウン方式で生産されていたジープに代わるモデルとして開発されました。初代パジェロは、それまで一部の愛好家向けだったクロスカントリー4WDを一気に民主化し、現在のSUVブームの火付け役となりました。人気が高く、60万台を超える販売台数を記録しました。パジェロという名前は、アルゼンチンのパタゴニア地方に生息する野生の猫が由来です。パジェロ(PAJERO)は、三菱自動車工業が1982年(昭和57年)から2021年(令和3年)まで生産・販売していたSUVです。日本およびイギリス市場から撤退した2019年(令和元年)以降は海外専売車種として世界各国で販売されていました。



ダットサンの名は、ある世代にとっては特別な響きを持っています。戦前の銀座あたりでは「ライカ(=ドイツのカメラ)、手風琴(てふうきん=アコーデオン)、ダットサン」の3つのアイテムをスマートに使いこなすことが、モテる紳士の条件などとも言われました。黎明期を迎えたわが国のモータリゼーションをリードし、戦後は荒廃の中いち早く乗用車の生産を再開。1960年代以降は本格的に海外進出を果たしました、「DATSUN Z」(ダッツン・ズィー/初代フェアレディZ)は北米を中心に大ヒット。「DATSUN 510」(ブルーバード)やZはその耐久性とスピードを武器に、サファリをはじめとするラリーの分野で大活躍……と、ダットサンはわが国を代表する自動車ブランドでした。



日産車に「ブルーバード」の愛称が生まれたのは、1959年(昭和34年)8月です。記念すべき初代モデルは310型の型式で、正式名称は「ダットサン・ブルーバード」でした。エンジンは34馬力の1000ccと43馬力の1200ccがあり、どちらも直列4気筒OHVです。造形課(現在のデザイン本部)初代課長だった佐藤章蔵が手掛けた、すっきりとしたスタイリングは好評を得、独特のテールランプの形状から「柿の種」とも呼ばれて、親しまれています。さらに、前輪独立懸架による快適な乗り心地も評判になりました。ボディバリエーションは、初期からの4ドアセダンと1960年(昭和35年)7月に追加された日本初の「エステートワゴン」の2タイプです。このクルマは、1200ccエンジンを搭載した初期モデルです。



1963 年(昭和38 年)9 月に登場した2 代目ダットサンブルーバード(410 型)に、翌年3 月スポーツモデルの1200SS(スポーツ・セダン)が追加されます。1200SS は、のちにブルーバードの代名詞になった「SS」や「SSS」などのスポーツモデルの草分けです。ツインキャブレターを搭載した1200cc の「E 型」エンジンは65 馬力と必要十分なパワーでしたが、1964(昭和39)年に2 ドアを追加した後、1965(昭和40)年5 月のマイナーチェンジで411 型へ進化。72 馬力のJ 型エンジンを搭載した「1300SS」の最高速は150km/h に達しました。この1300SS は、 1966(昭和41)年東アフリカ・サファリラリーでのクラス優勝を始めとする華々しい戦績で、日産のスポーツイメージを引き上げる役割を演じました。なお、1966 年4 月のマイナーチェンジでグリルやリヤエンドデザインが変わり、エクステリアのイメージが初期型から大きく変わっています。



ダットサン ブルーバード 510は、1967年8月に発売された日産の3代目ブルーバードの型式名です。三角窓のないシャープなスタイリングや、OHCエンジン、4輪独立懸架など高度なメカニズムが特徴で、高い基本性能と実用性が評価されました。グローバル販売累計台数は150万台以上を記録する大ヒットとなりました。ボディバリエーションは、2ドア・4ドアセダン、エステートワゴン、バンで、1968年には2ドアクーペも追加されました。高性能グレードの「SSS」は「スーパー・スポーツ・セダン」の略で、先代となる410の時代に初お目見えしました。



1961(昭和36)年秋の第8回東京モーターショーで話題をさらったダットサンフェアレディ1500(SP310型)は、1962年10月に国産初の本格的スポーツカーとして発売されました。ダットサン310型(初代ブルーバード)のシャシーとセドリック30型のエンジンをベースにしたもので、当時のMGやトライアンフ等の欧州のスポーツカーに近いフォルムをまとっています。搭載された1,488ccのG型OHVエンジンは初期のスペックで最高出力71馬力、最大トルク11.5kg-mを発生し、1963年以降は、輸出仕様と同様にSUツインキャブレターを採用し80馬力にパワーアップされました。このクルマは、フレームやボディを含めフルレストアされ、ターンシグナルやアンテナ等を含めオリジナルに近い状態を取り戻しました。



日産は戦後大きく遅れをとった乗用車生産技術を習得するため1952年(昭和27年)からオースチンA40をノックダウン生産。1956年にはA50の完全国産化を実現しましたが、1960年3月に英BMC社との契約が終了するため、日産独自の1.5Lクラス乗用車開発が急務となっていました。1960年(昭和35年)4月に発売されたセドリックは、Aピラーを前傾させたパノラミック(フロント)ウインドーやメッキパーツの多用などアメリカ車の影響を強く受けたスタイリングに、ワイド感を強調する縦目丸4灯という独自の個性をプラス。前後ベンチシートの室内も3人並んで座れる幅を持っており、前:ダブルウイッシュボーン/コイル、後:3枚リーフ/リジッドサスペンションはそれぞれ280mm/180mmのストロークを確保してソフトな乗り心地を実現していました。



戦後、乗用車の生産が全面的に解除されたのは1949年(昭和24年)10月のことでした。時間的にはわずか4年の中断とはいえ、日本の自動車産業にとっては大きな痛手となりました。そこで、政府は将来を見据えて海外メーカーとの技術提携を結び、生産や設備に関する技術やノウハウを吸収することを奨励しました。日産は、1952(昭和27)年に英国のオースチン社と技術提携し、年間 2000台分の乗用車部品を輸入して日本での組立を開始します。1953(昭和28)年のA40型組立開始当初の国産部品はガラス・バッテリー・タイヤなどわずかでしたが、徐々に国産化が進み、1955(昭和30)年から生産を行ったA50型では初期から国内調達部品が200点以上を数え、ついに翌年8月には全部品が日本製となりました。搭載される 直列4気筒OHVエンジンの最高出力は57馬力で、最高速度130km /h をマークしました。このクルマは、提携で習得した技術の集大成で、1959(昭和34)年12月28日に製造された最終オフライン車です。



日本の自動車技術発展の大きなイベントとして戦後外国自動車メーカーとの技術提携によるノックダウン~国産化が挙げられ日野がルノー、日産がオースチン、いすゞがヒルマンと技術提携しました。日野は1953年2月にルノーと調印、同年4月にノックダウン組立車発売以降国産化割合を増やし1958年8月に完全国産化、1963年生産打ち切り迄に約3.5万台生産しました。年発売当初万円と高価だったがコップ一杯のガソリンで4キロメートルの経済性、オーナードライバー向けの手頃なサイズ等から売れ行きは非常に良く、その後爆発的モータリゼーションの引き金の一つになったと言える一方、技術面ではこの提携を通じて高周波焼き入れ、プレス技術、塗装技術等々の技術収穫が得られたと言えます。



日野自動車が、かつて乗用車の製造・販売を手掛けていたことを知っているのは、ある程度、年を重ねた人たちではないだろうか。しかも、美しいフォルムを身に纏ったクルマが確かに存在していたのです。このクルマは1965年式日野・コンテッサ1300 クーペです。コンテッサ クーペのボディサイズは全長×全幅×全高:4150x1530x1340mm。SUツインキャブを装置した「GR100型」と呼ばれる1251cc 直列4気筒OHVエンジンの最大出力は65馬力。セダンは3速MTでしたが、クーペには4速MTが搭載された。そして、何より特徴的なのはエンジンの搭載位置です。一見するとフロントエンジンかと思いきや、このクルマはリアに搭載されているのです。つまり、コンテッサ クーペの駆動方式は、RRとなります。ポルシェ・911やフォルクスワーゲン・ビートルなどと同じなのです。



「日野・ルノー」としてのライセンス生産を経て、初の独自開発四輪乗用車として1961年に登場した「日野 コンテッサ」。同年にそのピックアップトラックとして販売されたのが「日野 ブリスカ」です。1960年代はボンネットを備え、キャビン後方に荷台を持つ、ピックアップトラックが流行していた。その中でも圧倒的な人気を誇っていたのが「日産 ダットサントラック」でした。1965年、日野はこれに対抗するべく、「ブリスカ」に大幅なモデルチェンジを施すことになります。エンジンはよりパワフルな1300ccにアップグレードされ、ラインナップもシングルキャブ一本に統一し、積載量はダットサントラックに並ぶ1tに増量されました。フロント部分にはコンテッサのデザインを採用し、高い実用性と愛着を兼ね備えたモデルとなりました。



写真の側車付自動二輪車は、「陸王」です。ji3が若かった1960年(昭和35年)頃、東京都立川市にあった「トヨタ学園」の教習所で自動二輪の免許を取得しました。この陸王とても運転が難しいです。エンジンの始動はキックです。エンジンの回転を調節するのは、右ハンドルにあるアクセルレバーと、左ハンドルにある点火時期レバーをタイミング良く操作します。クラッチは左足で踏み込むと繋がりみます。ギヤチェンジは燃料タンクの左側にあり左手で操作します。二輪車なのにバックギヤも付いています。右足はブレーキです。陸王は、陸軍の要請に応えて製作された国産初の大型オートバイです。アメリカのハーレー・ダビッドソン社の協力のもと、昭和10年に誕生しました。不整地走行性能を向上させるために側車車輪も駆動できる世界初の二輪駆動式サイドカー付きオートバイです。