【古絵図に記された町と小路】
昭和37年(1962)に「住居表示に関する法律」が公布され、市街地にある建物に順序よく号をふり、分かりやすく住所を表示する「新住居表示」の実施が進みました。酒田市では、昭和40~42年(1965~67)に市街地の新住居表示が実施され、町名ががらりと変わりました。本町、船場町など残っている町名もありますが、町の区画が変更されたため、古い町名がそのまま使われている所はほとんどなくなりました。市内中心部の町並が350年以上前からほぼ変わっておらず、旧町名の多くがそのころから使われ続けていたこと、酒田湊の発展とともに町が北へと拡大し、新しい町ができていることが分かります。
【酒田の創始 徳尼公の伝説】
酒田の町は、古くは「向う酒田」と呼ばれる最上川南岸の袖の浦(宮野浦)にありました。12世紀の末、藤原氏が源頼朝に滅ぼされた時、藤原秀衡の妹・徳の前、あるいは後室・泉の方ともいわれる女性が、36人の遺臣とともに袖の浦に落ち延びてきたのが、その始まりといわれています。この地で藤原一門の冥福を祈りながら余生を送った女性は、今からちょうど800年前の建保5年(1217)、静かにこの世を去りました。戒名は「洞永院殿泉流庵徳尼公」です。その後、36人の遺臣は地侍として船問屋を営み、地元民の先に立って湊の繁栄を支えました。また、長人(おとな)あるいは36人衆と称して、湊町の町政を担ったと云われています。徳尼公(上図像)は、現在も泉流寺(酒田市中央西町)内の徳尼公廟にまつられ、毎年4月15日には36人衆ゆかりの人々が集まり、供養を行っています。
【商人町の酒田町組、城下分の内町組・米屋町組】
江戸時代までの酒田は、亀ヶ畸城分といわれた「内町組」「米屋町組」、向う酒田から移り住んだ36人衆たちが開拓した商人町である「酒田町組」の3地区に分かれていました。内町組・米屋町組は、文明10年(1478)ころに5丁野(現在の四ツ興屋辺り)から新井田川東岸に移転したといわれる東禅寺城(後の亀ヶ崎城)の城下町として形成されました(明治9年(1876)には鵜渡川原村となり、昭和4年(1929)に酒田町と合併しました。)。上杉家支配の慶長4年(1599)ころ、東禅寺城の外郭を新井田川西岸まで広げましたが、最上家の支配を経て、元和8年(1622)に酒井家が入部すると、武家屋敷を引き揚げて町屋敷となりました。その後、内町組・米屋町組と酒田町組との交通の便をよくするために、内町と本町1丁目の間を通した道「突抜(つきぬき)」を設け、同じころに外堀も埋めたといわれています。
【亀ヶ崎城下の鵜渡川原】
元禄99(1696)の亀ヶ崎城下大絵図には、城下町だった鵜渡川原(現在の亀ケ崎地区)の町が描かれています。鵜渡川原の歴史は古く、和銅7年(714)に尾張国愛智郡の農民200戸が開拓したと伝えられています。東禅寺城が五丁野にあった時代には、四ツ興屋の南から鵜渡川原の東端までが「東禅寺」の地名で呼ばれ、城が新井田川東岸に移ると、その外郭となりました。慶長6年(1601)に城主となった志村伊豆守は、最上地方から連れてきた家臣たちを鵜渡川原に住まわせました。戸沢町、長泥町、最上町などの町名は、家臣の故郷からとったといわれています。明治9年(1876)には鵜渡川原村となり、昭和4年(1929)に酒田町と合併しました。
【最上町】
松原小学校西側のイオンに向かう幹線道路に標柱があります。酒田市の旧最上町とは、江戸時代に最上氏の浪人や家臣が住んだことに由来する地名で、元は「最上町」と呼ばれ、後に「左沢町」とも呼ばれた歴史的区域で、酒田市が合併・住居表示を実施するまで使われていた本町通り周辺の城下町の一部を指します。特に、最上氏転封後に浪人(足軽)が住み着き、「最上町」の名が生まれ、その後左沢から移住してきた足軽により「左沢町」とも呼ばれるようになった経緯があります。元和8年(1618年)の最上氏改易後、主人を失った浪人(足軽)が酒井氏に抱えられ、彼らが住んだ町が「最上町」と名付けられました。鵜渡川原の旧城下町の一部で、酒田町組(本町など)と区別され、東禅寺城の外堀の内側に位置していました。現在は住居表示で「最上町」という町名は消滅しましたが、その歴史的背景から、本町通り周辺の、かつて最上町と呼ばれた地域(例:千日堂前、本町など)を指す言葉として使われることがあります。
【立町】
千石町二丁目豊受神社の近くに標柱があります。酒田市の旧立町は、かつて酒田の湊町として栄えた時期に存在した「酒田町」「内町」「米屋町」といった旧来の町名の一つで、特に商人町として発展した地域の中心部(本町通り周辺)を指し、新住居表示実施に伴い現在の町名に再編されるまで使われていた地名です。これらの旧町名は、最上川と新井田川に挟まれた中洲に形成され、酒田の繁栄を物語る歴史的な小路や地名が今も残されています。最上川と新井田川の合流点付近に位置し、河岸八丁(新井田川沿いの町々)や本町通り(大町など)は、酒田の商業・海運の要衝として栄えました。つまり、「旧立町」とは、酒田の古い町名が使われていた時代(昭和30年代まで)の、特に湊町の中心部を指す言葉であり、現在の酒田市の街並みの歴史的なルーツを示しています。
【長泥町】
亀ヶ崎墓地管理事務所の近くに標柱があります。酒田市の旧長泥町は、現在の亀ヶ崎三丁目・四丁目周辺にあたる、江戸時代に形成された酒田の城下町の一部で、最上地方から連れてきた家臣団が住んだことに由来する地名とされ、明治期には「鵜渡川原村」の一部でしたが、後に酒田町に合併し、現在の町名に変わりましたが、その歴史的な地名が残っています。長泥町は、元禄期の城下町図にも描かれる亀ヶ崎城下の町の一つでした。最上地方から来た家臣たちが、故郷(長泥)にちなんで名付けたと言われています。明治9年(1876年)には鵜渡川原村となり、昭和4年(1929年)に酒田町と合併しました。つまり、旧長泥町は、現在の亀ヶ崎地区の一部に存在した歴史的な町名で、酒田の発展と共に歩んできた地名の一つです。
【袋町
】亀ヶ崎三丁目の該当地域をこまなく歩き回りましたが、標柱は見当たりませんでした。酒田市の旧袋町は、かつて酒田湊の繁栄を支えた江戸時代からの歴史ある町名の一つで、現在の「本町」周辺の地域に存在した町名であり、住居表示の変更により「酒田市本町」などに含まれることになった懐かしい湊町の面影を残す地名です。かつては商人町として栄え、「本町通り」を基点に発展した酒田の町の一部を構成していました。最上川の舟運で栄えた酒田の町は、この旧袋町を含む一帯に広がり、商業の中心地として賑わいました。具体的な由来は文献によって異なりますが、商人や職人、商家が集まる地域であり、町の発展とともに形成された地名です。
【横町
】亀ヶ崎保育園の近くに標柱があります。城下町は内町組と米屋町組に分かれ、酒田町組と区別されていました。上杉氏支配の時に土塁や堀を築き、東禅寺分と呼びました。最上氏になり志村伊豆守は家臣を鵜渡川原村に住まわせました。出身地から町名をつけた、武家のたたずまいが残る町並が残ります。横町は、最上町、長泥町、袋町に対し横にあったので付いた名です。酒田市亀ヶ崎城は、山形県酒田市にあった平山城で、元は東禅寺城と呼ばれ、武藤氏(大宝寺氏)が築いた中世の拠点です。最上氏の時代に亀ヶ崎城と改名され、庄内藩の支城として幕末まで存続しましたが、現在は酒田東高校の敷地となり、土塁の一部が残るのみです。庄内藩にとって重要な拠点であり、酒田湊の支配にも関わりました。
【戸沢町】
亀城小学校の正面(西側)に標柱があります。酒田市の「旧戸沢町」とは、かつて存在した酒田市内の地名で、現在の亀ヶ崎地区の一部(亀ヶ崎一丁目~三丁目)にあたります。江戸時代に最上氏家臣の出身地にちなんで名付けられ、明治以降は鵜渡川原村の一部となりましたが、昭和初期に酒田町に合併、さらに昭和30年代の住居表示変更で今の町名になった歴史を持つ、酒田の歴史的地域名です。鵜渡川原という地域がもともとあり、江戸時代に亀ヶ崎城下町として発展しました。当時、最上氏の家臣が移り住んだ際、故郷にちなんで「戸沢町」「長泥町」「最上町」などの町名がつけられたとされます。つまり、酒田市の旧戸沢町は、現代の行政区分では存在しないものの、その地域の歴史や成り立ちを示す古い地名(旧町名)のことです。
【横道町】
酒田東高等学校の西側(新井田川側)に標柱があります。酒田市旧横道町は、住居表示が実施される前(昭和30年代まで)に存在した酒田市の古い町名で、現在の酒田市の中心部にあたり、新井田川沿いの「河岸八丁」の一つとして最上川の舟運で栄えた湊町・酒田の歴史を伝える地名で、今は新しくつけられた町名(住居表示)に変わっていますが、一部には旧町名が残る標柱なども見られます。「横道町」は、東禅寺城の外堀があった場所が広くなり、それが町名になったとされ、当時の商工業の中心地の一つでした。つまり、酒田市旧横道町は、昔の酒田の繁栄を物語る「歴史的な地名」であり、現在の住所表示とは異なりますが、湊町・酒田の成り立ちを知る上で重要な名前です。
【鍛冶町
】一番町サンモール商店街通りに標柱があります。1603年(慶長8年)の町割で誕生し、江戸時代には刃物や釘などを扱う卸売業者も集まる商業地として栄え、戦後の復興期には「神田金物通り」として家庭金物店や建築金物店が軒を連ねて賑わいました。酒田市の「旧鍛冶町」とは、江戸時代に鍛冶職人が多く住んでいたことに由来する、かつての地名(町名)で、明治から昭和30年代頃まで使われ、その後「住居表示」の変更で今の町名になりましたが、その名残として地域名や通称として残っており、かつては金物店が並び賑わった歴史を持つ場所です。徳川幕府の鍛冶方棟梁であった高井伊織の屋敷があったことや、多くの鍛冶職人が住んでいたことから「鍛冶町」と名付けられました。
【桶屋町】
中町サンモール商店街通りに標柱があります。酒田市旧桶屋町は、近世から昭和42年(1967年)まで存在した酒田市の町名で、江戸時代から桶作りを生業とする人々が居住していたため、「桶屋町」と呼ばれるようになりました。酒田湊の商業・海運が発展した時期に栄えた地域です。現在の酒田市中心部(中町の一部など)に位置し、「桶屋小路」とも呼ばれ、酒田の歴史的な町割りを伝える重要な場所です。昔の酒田の湊町の面影を伝える旧町名の一つであり、酒田市資料館などでその歴史が紹介されています。
【大工町】
中町サンミール商店街通りに標柱があります。酒田市旧大工町は、かつて酒田の商業・繁華街の中心地であり、江戸時代から続く歴史ある町名(旧町名)で、本町通り周辺に位置していました。明治期の大火(1894年)で町並みが大きく焼失し、その後は再建されて商店街として賑わったものの、昭和30年代(1950年代後半~60年代前半)の住居表示変更で現在の地名に変わりましたが、歴史的な地名として記憶されています。現在の酒田市中心部(本町通り周辺)に位置し、昔は活気ある商店街が広がっていました。内町と本町の間を通る「突抜」という道も、この頃に整備され、交通の要衝でした。 慶長~元和年間の町割り。明暦2年絵図では「中町三丁目」。その名の通り、大工が多く住み、元禄9年図には大工屋敷20軒ありました。
【檜物町(曲師町)】
酒田のサンモール街の一本北側の通りに標柱があります。酒田市の旧檜物町(曲師町まげしちょう)は、酒田城下町の成立期に存在した町名で、主に魚(肴)を商う人々が住んでいた商業地であり、最上氏時代から酒井氏入国後にかけて、現在の本町周辺の場所で栄え、後に現在の本町一丁目・二丁目あたりに移転・再編された歴史を持つ地域を指します。最上氏の時代、酒田の城下町が形成される中で「曲師町」という町が生まれ、魚介類の問屋が多く住んでいました。「曲師(まげし)」は、馬の鞍(くら)を扱ったり、馬具を作る職人(曲師)が住んでいたことに由来する説や、魚の「肴(さかな)」を意味する言葉が転じたという説があります。
【上内匠町】
中町一丁目市営地下駐車場隣の天満宮前に標柱があります。酒田市の旧上内匠町とは、「内匠町(たくみちょう)」という江戸時代から続く酒田の旧町名の一部で、明治・大正・昭和初期まで存在し、現在(昭和40年代以降)は住居表示の変更により「中町」や「本町」などの一部に再編されていますが、その歴史や地名に親しむために保存された標柱や資料、地元での呼び名(「たぐまぢ」など)にその名が残る、酒田湊の繁栄を支えた商人町の名残です。「肝煎(きもいり)の斎藤内匠(ないしょう)によって町割がなされた」ことに由来するとされ、浅野内匠頭と同じ「たくみ」と読まれる歴史ある町名です。醤油蔵や商家が並ぶ本町通り周辺のエリアを指し、かつては最上川の舟運や海上交通で栄えた酒田の商業の中心地でした。
【下内匠町
】中町二丁目の最上屋旅館の近くに標柱があります。酒田市の「旧下内匠町」とは、かつて存在した酒田市の古い町名の一つで、住居表示変更(町名変更)により現在の地名に変わりましたが、地域名や自治会名として「下内匠町」の名称が今も残っています。江戸時代に形成された「酒田町・内町・米屋町」などの旧町名が昭和30年代まで使われ、その後、新しい住所表示(住居表示)の実施に伴い変更されたもので、「内匠(たくみ)」の名の通り、町割りに深い関わりがある地名です。忠臣蔵の浅野内匠頭と同じ読みで、正式には「たくみ町」と書かれ、口頭で「たぐ町」「たぐまぢ」と略されて呼ばれることもありました。現在でも中町3丁目などに「下内匠町自治会」が存在するなど、地域には旧町名が引き継がれています。
【十王堂町】
一番町の十王堂前に標柱があります。酒田市旧十王堂町は、現在の酒田市における二番町と相生町二丁目の一部にあたる、かつての町名です。地名自体は、歴史的な町名変更の際に消滅しましたが、地方文化としての貴重な地名として、その記憶は今も残されています。昔の町名は、その土地の歴史や文化を色濃く反映しており、旧十王堂町も何らかの由来(例えば、十王堂という寺院があったなど)があって名付けられたと考えられますが、具体的な由来は今回の検索結果からは明確ではありません。
【寺町】
中央西町のお寺さんが密集している所に標柱があります。酒田市の旧寺町とは、かつて寺院が集まっていた地域を指し、現在の中町一〜三丁目、中央西町、寿町、中央東町、御成町、相生町二丁目など、市中心部の広い範囲にあたります。大火後の区画整理で、多くの寺院が移転し、現在の商店街や商業地へと変化しましたが、その名残として「寺町」という通称や、かつての町名が残されています。現在の中町商店街(サンモール)周辺から、駅方面(中央西町、寿町など)まで広がるエリアです。建物は様変わりしましたが、その歴史的な背景から、現在も「旧寺町」として親しまれ、商店が並ぶ賑やかなエリアとなっています。
【荒町
】日和山公園の登り口に標柱があります。酒田市の「旧荒町」とは、かつて存在した歴史的な地名で、現在は「日吉町」などに含まれるエリアを指し、江戸時代から続く酒田の重要な町の一つでしたが、住居表示の変更により「荒町」という町名は消滅し、「古荒」の表記が親しみやすい「こあら」に変わり、区画整理で道路だけになった場所として、今もその面影が残されています。酒田は海運で栄え、江戸時代には「酒田町」「内町」「米屋町」といった主要な町があり、「荒町」もその一つでした。建物が減り、今は道路だけになっている場所も多いですが、資料館などで「旧町名保存標柱」が設置され、その名残が伝えられています。
【上小路】
酒田地区広域行政組合消防署みなと分署の南側(酒田港側)に標柱があります。酒田市の「旧上小路」とは、かつて酒田の町にあった重要な小路の一つで、「上荒町と上喜元の間、船場町までを結ぶ道」を指し、港に近く廻船問屋も置かれ、「猟師町東小路」とも呼ばれ、船場町へ下る急な坂は「上小路坂」と呼ばれていました。東西は鶴岡街道(国道7号線の一部)とつながり、船場町へ下る上小路坂は急勾配で、北前船の船乗りも通る交通の要所でした。この小路には、大規模な町屋として知られる橋本家住宅(酒田酒造)など、往時の酒田の繁栄を伝える建物が残っていました。現在は「上小路」という地名は使われていませんが、当時の面影を残す小路や、その歴史は酒田の文化財や資料館で学ぶことができます。
【下小路】
日吉町二丁目の「うなぎ玉勘」付近をこまなく歩き回りましたが、標柱は見当たりませんでした。「酒田市旧下小路」とは、酒田市の古い町名・小路名の一つで、かつての酒田の街並み(江戸時代の酒田三町、明治・大正期の発展期)に残っていた細い路地や地域を指し、現在は住居表示の変更などで名称が失われた、あるいは変わってしまった場所にある歴史的な通称です。具体的な場所は地図で見ると、現在の町名と重ね合わせることで確認でき、酒田の歴史を伝える重要な手がかりとなっています。これら失われたり、呼び名が変わったりした小路の名称が「旧下小路」として、古い地図や資料に残されています。つまり、「旧下小路」は、過去の酒田の面影を残す、歴史的な小道の通称であり、現在の地名とは異なる、失われた路地を指す言葉なのです。
【桜小路】
日和山小幡楼日和亭近くに標柱があります。酒田市の旧桜小路とは、かつて日和山への坂道にあった小路で、桜並木があったために名付けられた歴史的な地名です。幕末の「酒田十景」にも描かれた風情ある場所で、小幡前(現:下台町付近)から船場町方面へ続く坂道で、下台町横小路や小右衛門小路とも呼ばれ、廻船問屋も軒を連ねた酒田の要衝でした。下台町と船場町を結ぶ坂道で、菊水ホテル(現:山王くらぶ付近)の前を通っていました。下台町横小路、小右衛門小路、猟師町西小路などとも呼ばれていました。北前船の往来で栄えた酒田の港町の一部であり、廻船問屋なども置かれ、交通の要所として賑わいました。現在は「桜小路」という名前の小路として、当時の面影を残す場所として存在しています。
【出町】
日和山公園に隣接した皇大神社に通ずるとば口に標柱があります。古くは「猟師町」といわれた通りの一部ですが、「出町」と表示されるようになってからの場所が、絵図によって食い違っています。元文4年(1739)の「三十六人御用帳」に名前があります。花の今町かすみの出町”と古くから俚謡に唄われて来た町名が消え去ってしまいました。新町名は日吉町です。なんと味気ない名前でしょうか。他にも由緒ある町や小路名が次々と消えて行きます。多くの人、中でも文化人と称される人々の反対にもかかわらず、情容赦もなく改名はつづきます。単なる感傷と言えばそれまでですが、それはそれなりの理由があるんだろうという疑問にかられています。
【秋田町】
日和山上り口近く中町二丁目に標柱があります。酒田市旧秋田町は、かつて酒田から秋田へ向かう秋田街道沿いに栄えた宿場町・商業地で、旅館や商店が多く、伝馬町と並ぶ重要な地域でした。現在の「中町三丁目、日吉町二丁目、船場町一丁目」あたりに該当し、新住居表示(住む場所の表示)の変更により、現在は使われなくなった古い町名ですが、酒田湊の歴史を伝える重要な地名です。秋田街道(羽州街道)に面していたため、また秋田から来た人や物が集まる場所だったことから「秋田町」と名付けられたと言われています。街道沿いの要衝として、多くの旅籠(はたご:旅館)や商店が集まり、往来する人々で賑わいました。江戸時代から明治・大正・昭和にかけての酒田の繁栄を物語る地名であり、当時の絵図や古文書にも登場します。
【伝馬町】
今町通りの日和山に近い場所(昔合同タクシーがあった)に標柱があります。酒田市の「旧伝馬町」とは、江戸時代に伝馬(宿駅間の人馬継ぎ立て)の役所や宿屋が置かれ、街道の要衝として栄えた歴史を持つ地域の旧称で、現在の酒田市中心部にあたり、新住居表示の実施で「伝馬町」の地名は変わりましたが、酒田湊の繁栄を物語る大切な旧町名です。 江戸時代の「伝馬」とは、人や荷物を馬で次の宿場まで運ぶ制度で、伝馬町にはそのための施設(伝馬屋敷、旅籠屋など)が集まっていました。日本海を縦断する浜街道(秋田街道)に位置し、秋田町と接する伝馬町は、物資や人の往来が非常に盛んな場所でした。より多くの馬を備えていた地域を「大伝馬町」、少ない方を「小伝馬町」と呼ぶこともあり、酒田でもそのような区分けがあったと考えられます。「旧伝馬町」は、かつて宿場町として賑わい、現代の酒田市が発展する基盤となった、歴史的に重要なエリアを指す言葉なのです。
【今町】
巖嶋神社入口近くに標柱があります。酒田市旧今町は、最上川舟運で栄えた酒田湊の秋田街道沿いにあった宿場町で、茶屋などが並び賑わった歴史的な地名です。現在は「北今町」などの地名に残るも、昔は五叉路の交差点の周辺に旅館や商店が集まり、明治から昭和にかけて道路整備でその姿を変えながらも、酒田の発展を支えた地域です。明暦年間(1657~1682年)に町割が行われ、秋田街道(現在の国道345号線)沿いに位置したため、多くの茶屋が軒を連ねる宿場町として栄えました。最上川の舟運と街道が交わる要衝で、特に「今町交差点」周辺は、明治から昭和にかけて道路の拡充・整備(駅方面への新道建設など)が進み、現在の五叉路の形になったのは昭和初期頃です。
【臺町(台町)】
日枝神社東側登り口横に標柱があります。酒田市旧臺町(台町)は、最上川河口の港町・酒田で、小高い丘の上に位置し、かつて料亭が立ち並ぶ繁華街として栄えた歴史的なエリアです。山王くらぶや相馬樓、現役の香梅咲など、明治・大正時代の料亭建築が残り、「酒田甚句」にも歌われた花柳界(料亭遊び)の舞台であり、現在も雅な町並みと文化が息づく観光名所となっています。『酒田甚句』に「毎晩お客はどんどんしゃんしゃん」と歌われるほど、料亭遊びが盛んな場所でした。扇形窓が特徴の山王くらぶ(現・観光施設)、相馬樓(現・観光施設)、現役の香梅咲など、美しい料亭建築が並びます。ベンガラ色の格子が印象的な古い町家も残り、往時の雰囲気を伝えています。
【染屋小路
】NTT東日本山形支社庄内営業所の1本裏通り(西側)に標柱があります。酒田市の「旧染屋小路」とは、酒田湊の繁栄期に存在した古い小路の名前で、現在の住居表示変更(昭和40〜42年実施)によって失われた旧町名の一つです。この小路は、染物業者がいた場所、あるいは染物に関連する場所であったと推測され、昔の地図や記録に登場し、酒田の歴史を伝える重要な遺産となっています。河岸八丁(新井田川沿いの町々)の一部として、酒田湊の発展とともに形成されました。『明暦2年(1655)酒田町絵図』や『酒田袖之浦小屋之浜之図』といった古い絵図・地図にその名が残っています。「旧染屋小路」は、かつて酒田の街にあった、染物に関連するであろう歴史的な細い道(小路)の名前であり、酒田の古い町並みや文化を今に伝える貴重な歴史的遺産です。
【利右衛門小路】
NTT東日本山形支社庄内営業所裏(西側)に標柱があります。酒田市旧利右衛門小路は、かつて酒田市の中心部にあった歴史的な小路(通り)で、現在の富重や大沼酒店付近の通りを指し、かつては酒田警察署(明治〜昭和32年)もこの近くにありました、酒田の町歩きガイド - 蔵屋敷のある街並み 歴史と商業の中心地でした。江戸時代から続く「酒田町・内町・米屋町」という酒田三町の構成要素の一つで、内町と米屋町を結ぶ交通の要衝として「突抜」と呼ばれる道が設けられた頃から存在しました。 明治時代から昭和32年まで酒田警察署が置かれるなど、行政・商業の中心として栄えましたが、飽海郡誌(複製画)- 酒田市現在は「利右衛門小路」という名称は住居表示の変更(昭和40年代)により使われなくなり、現在の「利右衛門小路」という通りの名前は、その歴史的な地名を受け継いでいるものです。
【下袋小路】
NTTの裏通り料理屋富重の近くに標柱があります。長人(おとな)と呼ばれる三十六人衆が中心となり、西浜の砂原を開拓し酒田の町並を作ったといわれます。旧暦4月中の申の日(日枝神社祭礼の日)、太陽が日本海へ沈む真っ直ぐの線(正中線)を選び、一ノ丁から七ノ丁まで仕切り、本町と名付けました。ここが酒田町組の中心となり、この通りを軸として栄えました。酒田では東西の縦軸を「通り」、南北の66の横軸を「小路」としました。一説には最上川に沿って町割をしたとも言われています。この町割はそのまま残り、現在の酒田の町並を作っています。下袋小路.は行き止まりの袋小路でした。
【実小路(御宿小路)
】酒田市役所の西側に標柱があります。酒田市の「実小路(みしょうじ)」は、かつて「御宿小路(おんじゅくしょうじ)」と呼ばれた歴史ある小路で、酒田湊の発展とともに形成された旧町名の一つです。最上川南岸から移転した酒田の町で、特に江戸時代から昭和30年代頃まで使われていた地名で、明治時代には鶴岡街道の入口として重要な役割も果たしました。「御宿小路」が「実小路」に変わった経緯は、江戸時代に最上川南岸から移転してきた町が発展する過程でつけられた名前です。特に江戸時代には、大庄屋の屋敷や本間家の下屋敷があった場所でもあり、宿場町としての性格も持っていました。酒田の湊町の歴史や商人文化を伝える「古き良き酒田の面影」が残る場所として、酒田市立資料館などで紹介されています。
【中袋小路】
本町二丁目の希望ホール駐車場の所に標柱があります。河岸八丁のひとつ。明暦2年以前の創始。町の形が袋小路になっています。現在では市民会館の脇の通路のようになった中袋小路には、昭和29年9月にオープンした逓信診療所で、後には希望ホール建設前まで市役所の分庁舎として使われていました。中袋小路付近は、新井田川舟運時代の名残で、丸新旅館、丸徳旅館、春日屋など、旅館が多い場所でした。明治中期までの地図では中袋小路から山居側(まだ山居倉庫はありません)に渡る橋があったことに注目できます。明治後期には山椒小路に橋(永世橋)が移っています。なお、江戸時代はこのあたりには橋は皆無でした。
【山椒小路】
酒田市役所東側に標柱があります。河岸八丁のひとつで、慶長14年(1609)の記録に名前があります。酒田市の旧山椒小路とは、酒田市役所や希望ホール(酒田市民会館)周辺から新井田川へ向かう通りの昔の呼び名で、現在は「COFFEE 山椒小路」というカフェの名前の由来にもなっています。昔から「山椒小路」と呼ばれていたこの地域には、宿場町として栄えた酒田湊の歴史が息づいており、歴史的な小路名として保存・継承されています。 本町通りから市役所駐車場方面へ曲がり、希望ホールを過ぎて新井田川にぶつかるまでの小路です。酒田の昔の面影と、カフェが提供する現代的な心地よさが融合した、歴史と新しい文化が交差する場所と言えるでしょう。
【稲荷小路】
本町一丁目の稲荷神社の入口近くに標柱があります。酒田市旧稲荷小路とは、かつて「竜徳稲荷神社」を中心に発展した地域の名称で、その神社の名前から名付けられました。現在も船玉大明神塔(船の守り神)などが残る歴史的な小路(細い道)で、港町・酒田の信仰と暮らしを今に伝える場所です。 猟師たちが海上安全と大漁を祈願して稲荷神社を勧請したのが始まりで、神社を中心に町が栄え、「稲荷小路」と呼ばれるようになりました。稲荷神社は商売繁盛、五穀豊穣、開運出世の神として、また船玉大明神は船の守り神として、酒田の港町文化と深く結びついています。「船玉大明神塔」は船の形をした台座を持ち、船主が船の帆柱に神を納めて祀った「船玉」信仰(船魂信仰)の象徴です。酒田市内には多くの「小路」があり、この稲荷小路もその一つで、古い地図でその名が確認できる歴史的な地名・小路名です。
【上袋小路】
上袋小路自治会集会所入口に標柱があります。新井田川沿いの舟着き場として栄え「船乗町」ともいわれた「河岸八丁」のひとつです。明暦2年以前の創始。町の形が袋小路になっています。かって河岸八町と呼ばれた地域には、現在でも新井田川から本町通り方向へと続く細かい小路が残っています。昔ながらの家屋は失われたかも知れませんが、市内、特に本町・中町などの中心市街地周辺には、三十六人衆が活躍した時代を重い起こさせる通りや神社仏閣等の文化財が点在しています。私は街歩きをしながら、かつての酒田に思いを馳せるのが好きです。湊町酒田のいい所を発見して守り伝えていきましょう。
【肴町(片肴町)】
本町一丁目の秋葉神社の門前に標柱があります。酒田市の旧肴町とは、現在「肴町」という地名が残る、かつての酒田湊の賑わいと歴史を伝える酒田三町(酒田町・内町・米屋町)の一つで、明治・大正期には商業や漁業で栄えた湊町の中心的なエリアで、新住居表示(住所表示の変更)によって現在の地名に変わりましたが、旧町名保存運動などでその歴史が語り継がれている、酒田の湊町文化の重要な一部です。最上川の河口に位置し、酒田湊の発展とともに商業が栄え、特に魚市場(肴市場)があったことから「肴町」と名付けられたと言われています。酒田のメインストリートである本町通りに面し、賑わいの中心地でした。つまり、酒田市旧肴町は、現在の住所表示では「肴町」周辺に該当する、酒田湊の商業と文化の中心地だった歴史的なエリアを指す言葉です。
【上内町】
いろは蔵パーク店入口近くに標柱があります。亀ヶ畸城の外堀の内にできた通りだったので町名となりました。酒田市の旧上内町とは、昭和30年代まで存在した酒田市の旧町名の一つで、現在の本町、中町、大工町、鍛冶町、上袋小路など、酒田市の中心部の多くの町名が統合・変更される前の区域を指し、地域の歴史や文化を伝える貴重な地名です。旧上内町は、さらに「上内匠町」と「下内匠町」に分かれており、現在の本町・中町周辺の地域を指していました。「内町」は、江戸時代に内陸の集落と港を結ぶ要衝として発展した地域を指し、その一部が「上内町」として歴史を刻みました。つまり、旧上内町は、現代の酒田市の中心部の「本町」や「中町」といったエリアの、古い呼び名・歴史的な地名なのです。
【下内町】
大通り緑地側の公共地下道近くに標柱があります。酒田市の「旧下内町」とは、現在の酒田市の上本町や一番町、二番町にあたる地域を指す、かつての町名です。酒田湊が栄えた時代からの歴史ある地名で、昭和40年代頃の住居表示変更(新住居表示)によって現在の町名に変わりましたが、資料館の企画展などでその面影を伝える活動が行われています。本町通りと内町通りの交差点周辺です(「内町」という地名が残るエリア)昭和初期までは「下内町」と呼ばれていましたが、道路拡幅などを経て、現在の「上本町」「一番町」「二番町」などに再編されました。酒田湊の発展とともに形成された町の一つで、古い町名や小路名には湊町の歴史が刻まれています。
【片町】
上本町の稲荷神社の舞うに標柱があります。西側にのみ家があったことに由来しています。土蔵、新井田蔵などがありましたた。酒田市の旧片町は、かつて酒田湊の商業発展とともに栄えた歴史ある旧町名の一つで、現在の住居表示が実施される1960年代まで使われていた地名であり、主に酒田商業学校(現・総合文化センター周辺)があった場所を示し、湊町の賑わいを伝える重要な場所でした。 江戸時代から続く酒田三町(酒田町、内町、米屋町)の成立以降に発展し、明治から昭和初期にかけて「片町」の地名で親しまれました。1917年(大正6年)には町立乙種商業学校(後の酒田商業学校)が設立されるなど、商業教育の中心地でもありました。つまり、旧片町は、現在の酒田市が湊町として発展した歴史を物語る、「懐かしい酒田の旧町名」の一つなのです。
【中之口町】
新井田川の中之口橋の袂の観世音菩薩の前に標柱があります。最上氏時代、新井田川筋から城への中の口に位置していたことによります。古くは「中の口川端町(かしげたまち)」と云いました。中の口町とは松山街道から酒田へ入ってくる中の口という意味です。天保年間の「酒田町絵図」には中の口橋はまだないため、幕末から明治初期に初めて架橋されたものと推測されます。木製の中之口橋は老朽化により昭和13年(1938)9月にコンクリート橋に架け替えられた。
【元米屋町】
酒田郵便局南側の新井田町にある元米稲荷神社傍に標柱があります。酒田市元米屋町は、江戸時代から昭和42年(1967年)まで存在した酒田市の旧町名で、酒田湊の繁栄とともに発展した中心的な商業地「酒田三町(酒田町・内町・米屋町)」の一つでした。かつては米穀の取引が盛んで、本間家などの豪商も軒を連ね、酒田の経済を支えた歴史ある地域です。「元米屋町」という名称は現存しませんが、当時の米屋町のエリアは、現在の酒田市中心部の主要な商業地や住居地域の一部となっています。つまり、元米屋町は江戸時代からの歴史を持つ、酒田市の商業と経済を象徴する重要な旧町名であり、現在の酒田市の中心市街地を形成する上で欠かせないルーツと言えます。
【米屋町】
大通り緑地公園の入口近くに標柱があります。酒田市の「旧米屋町」とは、江戸時代から昭和42年(1967年)頃まで存在した酒田市の町名で、酒田三町の一つ(酒田町、内町、米屋町)として、酒田湊の繁栄と共に発展した商業・問屋地域でした。現在は「新住居表示」の実施により、現行の町名(〇〇町など)に変わっていますが、その歴史的な名残として「旧米屋町」と呼ばれ、酒田の湊町の歴史と文化を伝える重要な地名です。 亀ケ崎城下の東禅寺分に属し、米屋町組の町として発展しました。米(穀物)の置場や問屋が多かったことに由来するとされ、酒田湊の隆盛と共に発展し、商人町として賑わいました。「旧米屋町」は、単なる昔の地名ではなく、酒田が「湊町」として栄えた時代の活気や商家の様子を今に伝える、歴史的・文化的に重要な場所の名称です。
【給人町】
幸町2丁目の光徳稲荷神社の前に標柱があります。酒田市の「旧給人町」とは、最上方面から来た与力や給人といった役人が住んでいた地域に由来する、酒田の古い町名で、江戸時代から明治時代にかけて存在し、明治時代以降の区画整理や住居表示の変更で現在の町名に変わりましたが、その歴史と面影を伝える重要な地名です。特に、本間家の下屋敷や大庄屋の屋敷があり、静かで格式の高い地域として知られていました。「給人」は江戸時代の役職名で、この地域に住んでいた与力・給人といった役人にちなんで名付けられました。大庄屋であった尾形家屋敷や、本間家の屋敷(下屋敷)もこの地にあり、格式の高い場所だったことがうかがえます。つまり、「旧給人町」は、酒田の湊町としての発展の中で、役人たちが暮らした歴史的な地区を指す言葉であり、現在の住所表示には残っていなくても、その地域の歴史を語る上で重要な旧町名なのです。
【山王堂町】
酒田郵便局南側の新井田町に標柱があります。酒田市「旧山王堂町」は、かつて酒田の繁栄を支えた中心市街地の一部で、明治時代に「山王祭」で賑わった地域を指し、本町通りや中町通りの一部にあたり、本間家ゆかりの地で、大火や都市計画を経て現在の町名(本町、中町、中央など)に変わるまで使われていた、歴史的な地名です。 酒田まちづくり開発株式会社の資料によると、かつてこの地に「千日堂」という念仏堂があり、それが「山王堂」と呼ばれるようになったことや、本間光丘による植林でできた美林(長坂)が地域のシンボルだったことなどが関係しています。大庄屋尾形家屋敷や本間家下屋敷もこの地域にあり、本間家旧本邸の東側は、かつて東禅寺城の外堀があった場所でもありました。酒田湊の繁栄とともに発展し、特に明治時代には「山王祭」で山車が繰り出され、その行列は半里(約2km)にも及んだとされ、賑わいを見せました。
【八軒町】
酒田郵便局東川通りと池田歯科医院との間に標柱があります。寛永元年(1 6 2 4)に家が建ち始め、天和2年(1 6 8 2)に米屋町の新井田川沿いを分け一町としました。当初は人家が8軒だったことに由来しています。酒田市の「旧八軒町」は、かつて酒田市にあった地名で、現在の祇園町の南側、旧安井道(現:東大路通)の西側に位置していました。明治元年(1868年)に祇園町の一部に合併され、その後、昭和30年代後半から始まった住居表示の実施により現在の町名に変わりましたが、「八軒町」という地名やその歴史は、酒田の昔を伝える「旧町名」として保存されています。つまり、「旧八軒町」とは、住居表示で消滅した、酒田の歴史的な町名であり、その場所や記憶が現在も残されている、ということを指します。
【荒瀬町】
酒田郵便局の裏通りに標柱があります。酒田市の旧荒瀬町は、かつて酒田市に存在した歴史ある町名で、現在は住居表示の変更により「こあら」というひらがな表記の旧町名保存標柱が残る場所(おそらく幸町や中央の一部)を指し、もともと家屋が並んでいた地域が区画整理で道路となり、古くからの地名を親しみやすく残した珍しい例として知られています。江戸時代から続く酒田の古い町名の一つで、「酒田町」「内町」などと共に栄え、明治・大正時代の絵図にも見られます。つまり、酒田市旧荒瀬町とは、最上川の湊町として栄えた歴史を持つ古い地名が、現代の住所表示の中で「こあら」として親しまれ、保存されている場所、ということになります。
【浜町】
一番町交差点の竹内ビル前に標柱があります。明暦2年絵図では、浜町、天正寺町、近江町の地域はすべて浜町となっています。浜町の名は、この地一帯が砂浜だったことによものです。狭い意味での浜町は「内町組浜町」といわれ、善導寺の前にあったことから、「善導寺小路」ともいわれました。浜町は中町通りと違って、昔の写真があまり残っておらず、手元にあるものの中では最も古いものです。昭和40年代にはアーケードが取り付けられ、大火で道幅が広がり、その後老朽化したアーケードも撤去されるなど、変遷がありました。古くは名古屋小路とも呼ばれ、道幅は非常に狭かったようです。
【天正寺町】
相生町一丁目の天正寺入口に標柱があります。酒田市旧天正寺町とは、昭和30年代まで存在した酒田の旧町名の一つで、現在の一番町や相生町一丁目にあたる地域を指します。かつては寺町(現在の中町など)の西側に位置し、天正寺(鶏足山)や日枝神社など歴史的な名所も多く、大火後の道路拡幅などで「天正寺町通り」として親しまれていました。酒田の古い町名(旧町名)の一つで、江戸時代から続く酒田三町(酒田町・内町・米屋町)の流れを汲む地域です。「天正寺町通り」は、大火後に道路が拡幅された際に「天正寺町」という地名が使われ、当時の賑わいを示す場所でした。要するに、かつて「天正寺町」と呼ばれていた場所が、現在の「一番町」「相生町一丁目」といった地名に変わった、という歴史的な呼称が「旧天正寺町」です。
【近江町】
幸町の上山王日枝神社の入口近くに標柱があります。「浜の町横町」といわれ、天和2年に近江町と改められました。最上氏時代の川北奉行・寺内近江の宅跡、あるいは与力の宅跡との説もあります。上日枝神社界隈の町です。天和2年、最上氏時代に川北三奉行寺内近江の宅地跡たったことから、近江町と呼ばれました。寛永13年(1636)、亀ヶ崎城より現在地に移されました。通称「上の山王さん」として広く市民に親しまれています。この社の松の木も、根元が倒れ伸びています。
【筑後町】
酒田駅前通りに近い幸町の一角に標柱があります。川北奉行の斎藤筑後の宅跡、あるいは筑後の同心与力の宅跡といわれています。元和8年に少数の民家がありましたが、寛永7年(1630)に下蔵建築のために人家が立ち退きました。しかし下蔵は寛文12年(1672)に新井田に移り、天和3年(1683)に家屋が建ちます。「鶴田口浜町」といわれていましたが、貞享3年(1686)に筑後町と改名しました。標柱の上に半鐘が下かっています。元和8年酒井家入部の当初、ここに数軒の家がありました。しかし、風砂の為に殆どが転居しました。延宝6年、下蔵跡地に屋敷割りをし、鶴田口浜町(はまのまち)と称しました。貞享3年、川北三奉行斎藤筑後の宅地だったことから筑後町と改称しました。
【新片町】
JR酒田駅に近い幸町の一角に標柱があります。西側にしか人家がなかった片町の東側にも人家ができましたが、その東に堀を隔ててたくさんの米蔵が並んでいたことから、享保11年(1726)、蔵を火災から守るため筑後町の外れに移転させて出来た町です。新堀切ともいわれました。新片町の東は新井田にいだ川、南から西は筑後ちくご町に接し、東西に連なる町でした。内町組に属する。東端に新井田川の渡しがありました(「御用留帳」野附文書)。享保11年(1726)庄内藩は上・下の片町のうち東側27軒、向い南角4軒を、上蔵に接近し火災の危険があるとして立退かせました(「酒田町割由来記」伊東文書)。替地は筑後町北側の土地をあて、普請奉行坂部八郎左衛門などが検地を行い新片町としました(「水帳」野附文書)。同16年の水帳(伊東文書)によると家数35軒でした。
【外野町(戸野町)】
浜町通りの料理店「こい勢」の近くに標柱があります。」酒田市の旧外野町は、かつて酒田のはずれ(外れ)にあったことから「外野町」と呼ばれ、昭和24年頃に「戸野町(とのまち)」に改称された旧町名で、現在の戸野町やその周辺地域を指し、本間家ゆかりの地や、昭和30年代の住居表示実施まで使われた歴史ある地名です。「外野町」時代: 酒田が形成された当初、最上川南岸の砂山の上に作られた、酒田の「外れ」にあった町だったため「外野町」と名付けられました。昭和24年(1949年)頃に「戸野町」に改められましたが、その理由は地元で明確な記録が少なく不明な点が多いです。本間光丘が植林(明蕉)を行い、砂を防いだことから「戸野」の地名につながったという説もあります。
【鷹町】
酒田駅前(幸町)の山形銀行裏通り稲荷神社の前に標柱があります。酒田市の「旧鷹町」とは、1960年代の住居表示実施以前に存在した、酒田湊の商人町として栄えた歴史ある地域を指し、現在の〇〇(例:本町、中央、東町など)の一部にあたり、湊町の面影や昔ながらの商店(平野屋ローソク、斎留商店など)、史跡(上日枝神社、清亀園)が残るエリアです。江戸時代に酒田町・内町・米屋町とともに酒田三町として発展し、最上川の舟運で栄えた商人町の中心地でした。「鷹町」という地名は残っていませんが、上日枝神社(上の山王さん)、平野屋ローソク(絵ろうそく)、斎留商店(芭蕉せんべい)、清亀園(名園)といった歴史的な名所や老舗が点在し、湊町の面影を伝えています。つまり、「旧鷹町」は地名としては消滅しましたが、その歴史や文化、風景が今も息づいている、酒田市の中心部の旧称なのです。
【新町】
日和山公園の真浦(大浜方面)からの登り口中腹に標柱があります。空海が一寺を建てたという伝説のある「高野浜」は酒田御町外とされていました。江戸末期、高野浜と下山王社との間に町がつくられ「高野浜新屋敷」となり、万延元年(1860)に「新町」と改称し酒田組になりました。現在使われている市内の町名は、昭和40年から3か年をかけて変更された町名ですが、江戸時代から長い間酒田に住む人々から使われてきた町名について、ある日を境に違う町名で呼びなさいといわれたものです。地名とは何百年と続く文化そのものであるにも関わらず、国の指示で異なる地名に変えることを余儀なくされた事情はあまり知られていないのではないでしょうか。
【濱畑町
】本間美術館と八雲神社の間にある通り(御成町)に標柱があります。酒田市の旧濱畑町とは、1960年代の住居表示実施で「浜田」や「泉」など現行の町名に再編される前に存在した、酒田湊の繁栄と共に形成された酒田市東部の古い町名の一つで、砂丘地帯(砂原)に家々が建ち並び、後には「新町」とも呼ばれた歴史ある地域を指します。酒田湊の発展とともに、砂丘地(砂原)に人々が住み始め、次第に町が形成されました。砂原が次第に砂山となり、その防風のために簀垣(すがき)を立てたことや、本間光丘の植林による美林(長坂)に由来するとも言われます。要するに、旧濱畑町は、現在の「浜田」や「泉」など周辺の地域を含む、江戸時代から明治・昭和初期まで使われていた酒田の古い地名であり、町の発展とともに「新町」とも呼ばれ、最終的に新しい住居表示に統合されていった地域のことです。
【千日堂前
】南千日町の酒田南高等学校キャンバスの入口に標柱があります。「酒田市旧千日堂前」とは、酒田市でかつて存在した地名で、現在の北千日町周辺を指し、南千日町にある瑞相寺(ずいそうじ)を「千日堂」と呼んだことに由来する、酒田の歴史的な地域名です。明治時代から存在し、昭和40年代の住居表示変更で「北千日町」などに再編されましたが、その地域の歴史を示す旧地名として今も使われています。瑞相寺が「千日堂」と呼ばれていたことから、その周辺が「千日堂前」と呼ばれるようになりました。江戸時代からの酒田の発展とともに商業地・住宅地として栄え、特に昭和初期の区画整理で大きく発展しました。つまり、「旧千日堂前」は、歴史的な文脈で使われる、今の北千日町あたりを指す昔の地名のことです。
【堀端(鍛冶横小路)】
旧本間邸の横に標柱があります。本間家旧本邸東側の通りです。本町と鍛冶町の中間辺りから東の新井田川と肴町を通し、新井田川下流へと通じる亀ヶ畸城の外堀がありました。古くは西側にのみ家かおり「片平町」とも呼ばれていました。元禄9年絵図では「鍛冶町横小路」といわれ、慶長四年(1599)東禅寺城主志田義秀(しだよしひで)は関ヶ原戦に備えて鵜渡川原(うどがわら)と旧内町組の一部を堀と土塁で囲いました。その内、鍛治町から本間家本邸東側にかけての所を特に堀端と称し大欅が並び美観を呈していましたが、明治二年埋立てられました。
【祖父山下】
中央西町の泉流寺の東側国道112号線に標柱があります。酒田市の「旧祖父山下(じじやました)」は、かつて妙法寺が移転した際に、風砂を防ぐための防砂垣が作られた砂地が由来の地名で、現在の中央西町・中央東町あたりに相当し、当時は「寺町祖父山下」と呼ばれ、「祖父山下の松(子産させの松)」などの歴史も持つ、酒田の古い地名・町名です。元禄年間(1699年頃):妙法寺の十一世日永が、火災の類焼を防ぐため、寺の後方の砂地(約3万坪)を借りて寺を移転し、防砂のために簀垣(すがき)を立てたことから「祖父山下」と呼ばれるようになりました。この地域は、その後「寺町祖父山下」と呼ばれ、現在では住居表示の変更により「中央西町」や「中央東町」などになっていますが、和菓子店などでその名が残されています。
【柳小路】
中町二丁目の第二パーキング日和の横に標柱があります。酒田市旧柳小路は、江戸時代に防火・利水のために新井田川から水を引いて掘られた溝(水路)沿いに柳が植えられたことから名付けられた、かつての酒田の小路で、湊町として栄えた酒田の歴史と文化が息づく場所の面影を残しています。現在は「住居表示に関する法律」により住所表示は変わりましたが、「利右衛門小路」などと共に、昔の面影を伝える旧町名として資料館などで紹介されています。宝暦10年(1760年)頃、東西の防火壁として道路を広げ、新井田川の水を引いて溝を掘り、そこに柳が植えられたことから「柳小路」と呼ばれるようになりました。最上川の河口に位置し、海運で発展した酒田の町には、河岸八丁と呼ばれる新井田川沿いの町々や宿場町(秋田町・伝馬町など)があります。要するに、昔の酒田の「柳が並んだ水路沿いの小道」が「旧柳小路」で、今も歴史の証人として残る地名・風景の一部です。
【長坂】
光ヶ丘一丁目の郵便局近くの三叉路に標柱があるのですが、折損していました。現在の酒田市光ヶ丘は明治の頃長坂と呼ばれていました。大正4年(1915)刊行の『荘内案内記』には長坂松林のことを「漫歩に宜く納涼によし」と紹介しており、当時から人々に親しまれていた様子がわかります。本間光丘の植林事業により、下山王社から高砂に通じる道は一大美林となり、長坂と呼ばれ親しまれたことから名付けられた。大正8年(1919)8月に光ケ丘グランドができる前は、運動場の狭い学校では運動会を当時長坂松林といったこの道路で開催していました。本間光丘の植林事営により、下山王社から高砂に通じる道は一大美林となり、長坂と呼ばれ親しまれたことから名付けられました。酒田湊の繁栄と共に次第に人家が建つようになりました。
【高野浜】
北新町二丁目の稲荷神社前に標柱があります。酒田市の「旧高野浜」は、かつて遊廓があり賑わった歴史的な地名で、現在の酒田市新町の一部にあたり、「弘法大師の腰掛石」が残る村社稲荷神社(北新町)周辺がその中心地でした。最上川の河口近くに位置し、明治大震災で大きな被害を受けましたが、酒田の繁栄を歌った「酒田甚句」にも登場するほど、かつては港町の中心地として栄えた場所です。酒田港の繁栄と共に今町・船場町に娼家が数戸でき、これを茶屋と称していたが、文化10年(1813)3月初めて今町の茶屋37軒、船場町の茶屋36軒が公に認められた。高野浜の茶屋はそれより遅く文政4年(1821)に公認されました。以降酒田町三遊所として諸国に名を知られていました。明治27年(1894)の庄内地震で今町と船場町が大きな被害をうけると、遊郭は新町(高野浜)に移転しました。
【神明坂】
酒田港側から日和山公園へ上る階段の手前に標柱があります。酒田市旧神明坂は、江戸時代に本間家4代当主・光道が、北前船で栄えた酒田湊と市街地を結ぶ近道として、皇大神社(神明様)へ続く参詣道として整備した石段の坂道で、航海安全を祈願した船頭衆が往来した歴史的な道です。港と市街地をつなぎ、荷物の運搬の労を軽減する目的もあり、現代に残る歴史的景観として酒田の湊町の面影を今に伝えています。文化14年(1817年)、本間家4代当主・光道によって造られました。湊から酒田の市街地への近道となり、特に船頭衆が重い荷物を背負って運ぶ丁持ちの負担を軽減するため、石段が整備されました。坂を上った先にある皇大神社(通称「神明様」)は、航海の安全を祈願する場所として、日本各地からの船頭衆にとって重要な場所でした。
【芭蕉坂】
港方面から出町方向の日和山の登り口に標柱があります。酒田市の芭蕉坂は、松尾芭蕉が酒田に上陸後、入ったとされる道筋にある坂道です。松尾芭蕉は『奥の細道』の旅で酒田を訪れ、庄内藩のお抱え医師不玉宅に滞在し、多くの名句を残しました。特に日和山からの夕景の句や、豪商・近江屋(玉志)宅での句会が有名で、日和山公園には芭蕉像と句碑があり、不玉宅跡には記念碑が建っています。「暑き日を海に入れたり最上川」:酒田で最初に詠んだ句。安種亭(安種亭令道宅跡)で詠まれました。「あつみ山や吹浦かけて夕すずみ」:不玉宅での歌仙で詠んだ発句。日和山公園の句碑にも刻まれています。庄内藩のお抱え医師・不玉や、豪商・近江屋(玉志)らと交流し、句会を開くなど親交を深めました。酒田は『奥の細道』の旅の中でも特に重要な滞在地であり、当時の豪商文化が芭蕉をもてなしたことがうかがえます。