四方山見物31

 

 

皇居は,明治天皇以降,今の天皇陛下までの歴代の天皇のおすまいです。皇居内には,御所を始め,天皇陛下の御公務や諸儀式の場である宮殿,昭憲皇太后(明治天皇の皇后)以来の歴代の皇后が引き継いでいらっしゃる御養蚕のための施設である紅葉山御養蚕所,宮内庁庁舎などの建物があり,また,庭園として一般に公開されている皇居東御苑もあります。

 

東京メトロ大手町駅、竹橋駅から徒歩5分の「皇居東御苑」。ここは、旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部を整備し一般公開された皇居付属庭園です。21万平方メートルにも及ぶ広大な土地には多くの史跡が残り、季節の草花が咲き誇ります。「皇居東御苑」には、3つの出入口があります。大手町駅方面には「大手門」、竹橋駅方面には「平川門」、そして平川濠を挟み「北桔橋門」が位置しています。

 

参勤交代の際に諸大名が登城したのが、江戸城の正門として使われていた「大手門」。「大手門」を抜けると、左手に「三の丸尚蔵館」があります。この「三の丸尚蔵館」には有料で入館することができ、館内には皇室に受け継がれてきた絵画や書、工芸品などが展示されています。次に進むと見えてくるのが「同心番所」と「百人番所」。番所とは警備を行う検問所のような場所を指し、皇居東御苑には「同心番所」と「百人番所」のほか「大番所」の3つの詰所が残されています。



「二の丸庭園」は、九代将軍家重の時代の庭絵図面をもとに復元した回遊式庭園です。この丸池は小堀遠州作といわれる庭の池水とほぼ同じ位置にあります。繊細な白い花を咲かせるヤマボウシの葉は、秋に赤く色づくため紅葉の時期も楽しめるのが特徴です。東京メトロ大手町駅、竹橋駅から徒歩5分の「皇居東御苑」。ここは、旧江戸城の本丸、二の丸、三の丸の一部を整備し一般公開された皇居付属庭園です。21万平方メートルにも及ぶ広大な土地には多くの史跡が残り、季節の草花が咲き誇ります。

 

「皇居東御苑」には、3つの出入口があります。大手町駅方面には「大手門」、竹橋駅方面には「平川門」、そして平川濠を挟み「北桔橋門」が位置しています。参勤交代の際に諸大名が登城したのが、江戸城の正門として使われていた「大手門」。「大手門」を抜けると、左手に「三の丸尚蔵館」があります。この「三の丸尚蔵館」には有料で入館することができ、館内には皇室に受け継がれてきた絵画や書、工芸品などが展示されています。次に進むと見えてくるのが「同心番所」と「百人番所」。番所とは警備を行う検問所のような場所を指し、皇居東御苑には「同心番所」と「百人番所」のほか「大番所」の3つの詰所が残されています。「二の丸庭園」は、九代将軍家重の時代の庭絵図面をもとに復元した回遊式庭園です。この丸池は小堀遠州作といわれる庭の池水とほぼ同じ位置にあります。



繊細な白い花を咲かせるヤマボウシの葉は、秋に赤く色づくため紅葉の時期も楽しめるのが特徴。そして「江戸城本丸跡」。芝生ではレジャーシートを広げてひなたぼっこするファミリーの姿も見られます。大きな火災に見舞われた江戸城は残念ながら再建されていないものの、「江戸城本丸跡」の広大な土地からあらためて、城の巨大さを感じることができます。また、「松の大廊下跡」や「大奥跡」など、江戸城本丸ゆかりの史跡も人気です。天守の土台として築かれた「天守台」。この「天守台」は日本最高といわれる高さ45mの江戸城の天守を支え、現在は東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残されています。「天守台」は解放されており、上まで登って景色を眺めることも。「本丸休憩所増築棟」では、天守の復元模型を観ることができます。



「富士見櫓(ふじみやぐら)」は皇居東御苑の南に位置する、高さ約16メートルの三重櫓。江戸城の史跡として唯一残る三重櫓として知られています。どこから見ても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」という別名を持ち、1657(明暦3)年の大火で天守閣とともに焼失。その2年後に再建され、再建されることのなかった天守に代わり、「代用天守」の櫓ともいわれています。2016年11月より櫓前の広場が整備されたことにより、より間近で鑑賞することができるようになりました。園内にはそれ以外にも内部が公開されている、城壁よりも強固な防御施設であった「富士見多聞(ふじみたもん)」など旧江戸城を偲ばせる建物、遺構を見ることができます。豊かな自然に囲まれながら、江戸の歴史を身近に感じられる「皇居東御苑」にぜひ一度訪れてみてください。

 

 

靖国神社(正式名称は靖國神社)は、江戸時代の幕末、長州藩(山口県)で1863年に結成された奇兵隊士の霊を弔うために、高杉晋作(1839~1867年)が招魂社造営を発議したことに始まります。その後、68年の戊辰戦争後に、官軍(薩摩、長州、土佐、肥前4藩)将校の招魂祭を江戸城(現在の皇居)で行うとともに、京都東山(現京都市東山区)では官軍の戦死者を祀りました。



これを機に、幕末、明治維新期の戦没者を慰霊、顕彰する動きが全国的に活発になり、日本陸軍の創始者である大村益次郎(1824~1869年)が明治天皇に東京に招魂社を創建することを献策しました。明治天皇は翌69年、現在の東京・北九段に「東京招魂社」を創建し、戊辰戦争の戦没者3,588柱を合祀しました。ただし、本殿が竣工したのは3年後だった。その後1879年に、軍直轄だった東京招魂社は、「靖国神社」に改名しました。

 

当初は、天皇の側に立って戦った官軍の戦死者を顕彰するのが目的でした。しかし、よく知られているように、1877年の「西南戦争」で明治政府に反抗して戦死した西郷隆盛や、74年に「佐賀の乱」を起こした江藤新平は“賊軍”であるとして、合祀されていません。もちろん、会津藩(福島県)の白虎隊も明治政府に逆らった賊軍であり、最後は切腹をしたため靖国神社には祀られていません。一方で、戊辰戦争以前の「安政の大獄」(1859年)で江戸幕府によって処刑された吉田松陰、橋本左内らは“新政府側”ということで合祀されています。戦死ではなく結核で病死した高杉晋作も合祀されています。こうした対応に、いまでも不満を持つ人がいるのが現実です。

 

靖国神社は“鎮魂”を目的としていましたが、日清戦争、日露戦争、第1次世界大戦を経て“慰霊”から“顕彰”へと変化していきました。特に、第2次世界大戦中、日本兵が戦友との別れの際に「靖国での再会」を誓ったことから、靖国神社は日本兵の「心のより所」となり、軍国主義化の中で第2次世界大戦の戦死者は「英霊」として祀られました。



しかし、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)は、終戦直後の1945年12月15日に「神道指令」を出し、信教の自由の確立や軍国主義の排除するため、国家神道を廃止しました。さらに、靖国神社は翌46年に制定された宗教法人法に基づいて、同年9月に宗教法人となりました。靖国神社に祀られる「神」は、戦死、戦傷病死をした軍人、軍属とそれに準じる人々であり、新たな戦死者が出るたびに「祭神」に加える合祀の手続きが取られることになっています。靖国神社の資料によると、合祀者の総数は246万人強となっています。

 

東京都千代田区丸の内にある首都東京の表玄関をなすJR旅客駅です。東海道・山陽新幹線、東北新幹線、東海道本線、東北本線、総武 本線の起点であるとともに、京浜東北線・山手線が通じ、さらに上越新幹線、北陸新幹線、山形新幹線、秋田新幹線、中央本線、横須賀線・総武線、内房線・外房線の発着ホームがあります。丸の内側に東京地下鉄丸ノ内線の東京駅があり、山手線有楽町駅との間に京葉線東京駅(1988年開業)があります。



 

駅舎は1908年(明治41)起工、1914年(大正3)竣工しました。首都東京の表玄関にふさわしいように、当時東京帝国大学工学科教授の辰野金吾の設計により、ルネサンス様式、れんが造りの建物として完成しました。1945年(昭和20)戦災を受けましたが、1947年旧観を残して復興、明治時代の西洋風建築の一つとして親しまれています。第二次世界大戦前、東側の八重洲口は、外堀に接し粗末な切符売場が並ぶ裏口でしたが、戦後は外堀が埋め立てられ、1954年民間資本を導入した鉄道会館がつくられ、ここにデパート(大丸 )や専門店が入り、八重洲口側は大きく発展した(2007年鉄道会館は閉鎖、大丸等は高層ツインタワービル「グラントウキョウ」に移転)。

 

出入口は丸の内口、八重洲口側にそれぞれ北口、中央口、南口があり、北口に両側の出入口を結ぶ連絡通路があります。1964年に八重洲口側に東海道新幹線の発着ホームが完成し、1972年には、丸の内口側に地下5階の総武線・横須賀線などのホームが完成しました。さらに1991年(平成3)、東北・上越新幹線ホーム、1995年には中央線高架ホームがそれぞれ完成しました。乗降客数はJR東日本の駅では新宿、池袋、渋谷駅に次いで第4位(1日平均約80万4500人、2012年度推計)となっています。

 

2003年(平成15)に国の重要文化財に指定された丸の内駅舎は、安全性と利便性向上のため、2007年から改築工事が行われた。外壁など主要部分を保存しながら、戦災で焼失したドーム型屋根や一部外壁などを創建当時の姿で復原し、2012年10月に供用開始されました。東海道本線をはじめ中央,東北,総武各本線の起点駅となっているJRの代表駅です。発着する列車,電車の本数は1日約2500本(うち新幹線約220本,在来線特急・急行約100本,中距離電車約600本,山手線など約1600本)と世界でも例をみない大規模な駅で,1994年度の乗降人員は1日平均41万人(新宿,池袋,大阪に次ぎJR各社のうち第4位)です。東京駅は,明治中期に決定された東京の市区改正計画で初めて姿を現したもので,同計画は都市交通整備の観点から高架線により中央,山手両線を都心直結とするための中央停車場設置を指摘していました。

 

1908年に着工,14年12月18日に落成,12月20日から営業を開始し,同時に東海道本線の起点も新橋(のちの汐留貨物駅)から移された。19年1月中央線電車の連絡線が完成し,同年3月から中野~東京~品川~上野間のいわゆる〈の〉の字運転が開始され,中央本線の起点も東京駅に移されました。25年11月に上野~東京間の高架線が完成して山手線の環状運転が開始され,東北本線の起点も移され,名実ともに日本一の駅となりました。64年10月には東海道新幹線が営業を開始した。72年7月地下駅が完成して総武線電車の乗入れも実現し,76年10月には品川駅までの地下線が開通して総武線と横須賀線の相互乗入れが開始されました。87年の国鉄の分割・民営化により,JR東日本とJR東海の両社が区分して所有するようになりました。

 

江戸時代この界隈は、江戸城の内堀と外堀に囲まれていました。丸の内とは、堀で囲まれた内側という意味合いをもった名で、大名屋敷が立ち並んでいました。明治維新後、大名屋敷が取り払われてから、周辺は一気にさびれていきます。屋敷跡が陸軍の練兵場などの軍用施設になり、街としての新しい開発が行われなかったためです。明治の文学者田山花袋は、明治二十年(1887年)ごろの丸の内を次のように描写しています。「丸の内は、いやに陰気で、さびしい、荒涼とした、むしろ衰退した気分が満ちわたっていて、宮城も奥深く雲の中に鎖されているように思われた」(『東京の三十年』)この丸の内一帯が大きく変貌をとげたのは明治二十三年(1890年)、陸軍が一帯を三菱社に払い下げてからです。以後、三菱は大規模な再開発にのりだし、地域内の道路整備を行ったうえで、次々と洋風の建築物を建てました。赤レンガの建築物を中心としたそれらの建物が、ロンドンの景観を思わせたことから、一帯は「一丁倫敦(ロンドン)」ともてはやされるようになりました。



さらに大正三年(1914年)には東京駅も完成しました。第一次世界大戦による空前の好景気が追い風となり、丸の内は一気に日本を代表するオフィス街へと成長しました。そのような歴史をもったこの界隈が、正式に「まるのうち」と呼ばれるようになったのは昭和四年(1929年)、丸ノ内一丁目~三丁目という町名が誕生してからのことです。そして昭和四十五年(1970年)、町名の表記が丸ノ内から丸の内と変更され、現在に至っています。

 

丸の内は、徳川家康入府後、埋め立てられた地区で、大名小路の名のように親藩、譜代 大名の屋敷地でした。明治維新後、陸軍用地となりましたが、その後三菱(岩崎家)に売り渡され、1894年(明治27)赤れんが造りのイギリス風洋館の三菱第1号館が竣工し、続いて2、3号館ができ、1911年には13号館が完成した。一丁(約100メートル)に渡るイギリス風洋館の出現でやがて「一丁ロンドン」とよばれるビル街となった。東京駅開設によって丸の内は事務管理機能の高層ビル街として発展を遂げました。駅前広場を囲んで、新丸ビル(1952年竣工の初代ビルは2004年解体、新ビルは2007年竣工)、丸ビル(1923年竣工の初代ビルは1997年解体、現在のものは2002年竣工)、JPタワー(2012年竣工)などがある。一方、八重洲口側には、国際観光会館の跡地などに2007年竣工のグラントウキョウノースタワー、同サウスタワーなどがあるほか、大地下商店街が広がっています。

 



日本科学未来館は、先端の科学技術を体験できるサイエンスミュージアムです。テーマはロボットや人工知能、生命科学、地球環境、宇宙など私たちの未来にかかわる科学技術です。自分自身で触れ、発見できる体験型の展示が数多くあり、大人から子供までそれぞれの興味に合わせて楽しむことができます。常設展示のほか、トークセッション、ワークショップなどのイベントメニューも豊富ですドーム型の映像シアターでの迫力ある映像も人気です。

 

 

参加体験型の展示や科学コミュニケーターとの交流を通して、訪れる人を最先端の科学技術の世界に誘う、新しいスタイルのサイエンスミュージアムです。館内は、地球環境・ロボット・生命科学・宇宙・情報科学など、第一線の科学者・研究者が構想したユニークな展示内容となっています。「見る」だけでなく「体験」や「対話」をすることで、科学の面白さにじかに触れることができ、理解を深められます。土・日曜日を中心にイベントなども開催しています。

 

 

我が国の科学技術振興の総合拠点となる情報発信基地。最先端の科学技術を広く紹介する展示ゾーン、最先端科学研究の場となる研究ゾーン、および来館者と研究者との交流を目指す交流ゾーンの3部門で構成した。また建物内部に10本の“塔”を挿入し、幅広い建物の奥まで自然採光と通風をもたらしています。



 

東京タワーは、東京都港区芝公園にある総合電波塔で、正式名称は日本電波塔です。 1958年12月23日竣工。東京のシンボル、観光名所です。1958年の開業以来、半世紀以上に渡って東京の中心に存在する総合電波塔です。展望台はメインデッキ(150m)とトップデッキ(250m)の2箇所あり、富士山や筑波山、房総・三浦の両半島、東京スカイツリーや東京ゲートブリッジ等も見渡せます。「懐かしさ」と「新しさ」が混在する塔脚下の商業ビル「フットタウン」には、飲食店・土産店やアミューズメント施設があり、1日ゆっくり楽しめます。通常のライトアップ「ランドマークライト」の他、月曜及び特別な日限定の「ダイヤモンドヴェール」は、様々なカラーで東京の夜景を演出し、近年はデートスポットとしても人気が再燃中です。展望台は年中無休で朝9時~夜11時まで営業しています。

 

東京タワーが2023年12月23日に開業65周年を迎えました。日本の浮き沈みとともに歩んできた東京の象徴的存在も、東京スカイツリーの登場で電波塔としての役割は補助的なものとなり、コロナ禍では来塔者が一時激減しました。しかし、ここにきて東京タワーは再び輝きを取り戻しています。東京タワーの開業は1958年(昭和33年)。高さ333メートルは、創業者・前田久吉の「どうせ作るならエッフェル塔の高さをしのぐものを」との思いを反映した結果だ。自立式鉄塔としては当時世界一の高さでした。

 

2012年に開業した東京スカイツリーに電波塔としての主役の座は譲りましたが、昭和、平成、令和という3つの時代にわたり燦然と存在感を放ち続けています。2019年にリニューアルを終えたものの、翌年にはコロナ禍のため50日間の閉館を強いられ、インバウンド消失も加わり来塔者が激減しました。開業以来の大ピンチだったが、この間は電波塔収入、観光収入に続く第3の収益源を確保すべく企業の商品発表会やウェブ発信イベントなどで観光収入の激減を補いました。

 

同時に『上を向いて歩こう!東京タワーのライトアップが、皆さんに元気を与えられますように。』というクラウドファンディングのプロジェクトも実施し、4320万円の資金を集めました。開業以来65年の歴史の中で、最多来塔者数は開業翌年(1959年)の年間約520万人。日本中から見物客が殺到し、その頃の最寄り駅だった浜松町駅から約2キロの行列ができたと云います。2018年には開業以来の来塔者数が1億8000万人を突破しました。コロナ前の年間来塔者数は200万から300万人で推移し、外国人客が4割ほどだったと云います。



 

芝公園は1873年、明治政府からの太政官布達という政令によって作られた環状の公園。芝公園を含めた5つの公園が誕生したことで日本の公園の歴史は始まりました。つまり、芝公園は日本で最も古い公園の一つなのです。その他には、上野公園などが日本最古の公園です。元々は増上寺境内の一部も公園となっていて、現在の3倍以上広さがありました。しかし、戦後の政教分離の考えから宗教色のない都立公園として独立。芝公園と増上寺境内の敷地が分けられ、現在の芝公園となりました。現在の芝公園が増上寺の周りを囲む環状になっているのには、そういった歴史が隠されています。

 

日本橋は、17 世紀に建造された運河にかかる橋の名を冠したにぎやかな商業地区です。三越日本橋本店は 1904 年創業の風格ある百貨店で、コレド室町はモダンでスタイリッシュなレストラン、呉服店、漆器店が集まるショッピング モールです。東京証券取引所には小さな博物館があり、付近の居酒屋はサービスタイムともなると仕事帰りのトレーダーでいっぱいになります



日本橋エリアの誕生は、江戸幕府開府の際、江戸城を中心に造成した“町人地”がはじまりといわれています。地域のシンボルである「日本橋」も、1603年(慶長8年)、江戸幕府開府と同時に完成。1604年(慶長9年)に五街道の起点としてさだめられ、やがて各地から訪れる人々や物産で、街は大いに賑わいます。通りの両側には、大型商店「三井越後屋呉服店(のちの三越)」や「白木屋(のちの東急百貨店)」をはじめ、堂々とした構えの店が次々と軒をつらね、日本橋は日本経済の中心として発展していきました。

 

日本橋は1603年に創築され、江戸幕府により五街道の起点として定められました。現在の日本橋は1911年に築橋されたルネサンス様式の石造二連アーチ橋で、四隅の現在の銘板に刻まれた「日本橋」及び「にほんはし」の文字は最後の将軍・徳川慶喜公の揮毫によるものです。1972年、日本橋中央の「東京市道路元標」がこの広場に移設・保存されました。その据えられていた跡には、内閣総理大臣佐藤栄作氏(後にノベール平和賞受賞)の揮毫による「日本国道路元標」が埋標されました。この複製も同時に制作・設置されたものです。東京市道路元標は、1999年に米寿を祝う日本橋とともに国の重要文化財に指定されています。



江戸時代、五街道の起点であった日本橋は、近代になって全国の国道の起点となっています。その目印となる道路元標は橋の表面に埋め込まれて肉眼では確認しくくなっています。橋詰の「元標の広場」にはそのレプリカが展示されています。

 

東京にはいろいろな原点、元標がありますが、日本橋の橋の上にあるのが日本国道路元標(Kilometer Zero)。その名の通り、道路の起点となるポイントを示したものです。日本橋にあるのは、徳川幕府が定めた五街道(東海道、中山道、日光街道、奥州街道、甲州街道)の起点を明治政府が踏襲したものです。



新宿副都心にある東京都庁舎は、高さ約243m地上48階の「第一本庁舎」、高さ約163m地上34階の「第二本庁舎」、高さ約41m地上7階「都議会議事堂」、広さ約5,000㎡の「都民広場」で構成されています。設計は建築家・丹下健三氏、平成3年3月に竣工しました。都庁舎は、自由に見学できるようになっています。「展望室」は「第一本庁舎」45階の「南と北」に分かれており、高さ地上202mからの景色は素晴らしいのひとことです。東京タワーや東京スカイツリー®はもちろん遠くは富士山まで望むことが出来るとあって大人気です。

 

東京都庁は、新宿区にあります。第一本庁舎、第二本庁舎からなり第一本庁舎は45階建ての高層ビルです。映画「ゴジラVSキングギドラ」(1991年/大森一樹・川北紘一監督)などにも登場する東京を象徴する建物のひとつとなっています。第一本庁舎は南北に分かれており、その両方の最上階(45階)に無料の展望室が設けられています。同階にある飲食店や物販店含め、一般利用可です。展望台からは、東京スカイツリーや東京タワー、東京オペラシティなど、東京の観光スポットを眺めることができます。



天気の良い日には、富士山が見えることもあります。通常時であれば23時まで解放されているため、夜景を眺めることもできます。また、屋内含む都庁敷地内には、約40点のアートが展示されており、自由に見て回ることができます。観光や文化芸能の他、スポーツ振興にも力を入れています。そのひとつに2007(平成19)年に創立した「東京マラソン」があり、年々参加希望人数が増える一大イベントとなっています。また、世界に東京の魅力を伝えるために、「東京オリンピック」の誘致を進め、2020(令和2)年の開催地に決定しました。

 

都庁として知られる「東京都庁舎」は、新宿副都心のランドマークです。3棟で構成されていますが、最も目を引くのは48階建ての第一本庁舎です。東京都庁舎は1990年に建てられ、第一本庁舎は当時東京一の高さを誇るビルでした。都政を担う庁舎というだけでなく、訪れる人々が朝、昼、夜を問わず素晴らしい眺めを楽しめる展望室があります。地上202メートルの高さから東京の街を一望できる展望室への入場は無料のため、気軽に楽しめる東京の観光スポットとなっています。

 

日本の首都・東京の行政機関であり都内きっての人気の観光スポット、そして新宿副都心のランドマークでもある「東京都庁」。“世界のタンゲ”こと世界中で高い評価を得た建築家・丹下健三の設計によるツインタワー構造の庁舎は、竣工当時は日本一の高さを誇った。第一本庁舎、第二本庁舎、議会議事堂と都民広場で構成されている庁舎には、1万人以上の職員が勤務し、都政を支えている。高さ200m超の第一庁舎45階には無料で入れる展望台があり、夜景スポットとして人気が高いです。