都内有数のショッピング街、銀座。高級ブティックや上品なカクテルバー、寿司店が並びます。1930 年代に建てられた本館で高級宝飾品を売る和光のような老舗もあれば、ハイテク製品を扱う最新の銀座プレイスのような店舗もあります。週末にはメイン ストリートの大通りはスタイリッシュな歩行者天国になります。名所である歌舞伎座では伝統的な歌舞伎を鑑賞できます。 東京都中央区に位置する銀座は、言わずと知れたネームバリューの高い地域。日本有数の繁華街であり、高級ブティックが建ち並ぶ品性のある商店街といった印象もあります。街を歩けば海外の建造物を思わせるクラシカルな建物も多く、芸術的要素すらも感じられるでしょう。そのため、銀座に拠点を置く企業は品位が高い印象を持たれるのかもしれません。このように「銀座」という地名が、一種のブランドとして扱われるようになったのには、ある理由があります。
銀座という名前は、本来地名ではありません。もともとは江戸時代に設立された銀貨幣鋳造所のことを指していたのです。当時、銀貨幣鋳造所のことを「銀座役所」と呼び、伏見(京都)や駿河(静岡県)などに幕府の管轄の元設置されていました。それを1612年に江戸へ移したことがきっかけとなって「新両替町」という地名になり、あたりには銀座人らが住居を構えました。当時の銀座役所があった場所は、現在のティファニー銀座ビルに位置するそうです。そして、銀座役所が日本橋蛎殻町へ移転したあとも、この「銀座」という名前が定着したことから、1869年(明治2年)江戸町名改正により正式に銀座が地名となったのです。しかしその後、銀座は2度の大火に見舞われます。特に大きかったのは1872年の銀座大火で、銀座一体が消失するほど。これを受け、当時東京府知事であった由利公正の主導により、大規模な区画整理が行われました。そうして銀座は、ジョージアン様式の煉瓦街となりました。
この政策が行われた大きな目的は、火事が多い東京を不燃都市化すること。そして、当時東日本の経済中心地であった日本橋付近に位置する銀座を、文明開化の象徴にしたいという思惑がありました。これには、同年開業予定であった新橋駅と日本橋の間に銀座が位置していたことも理由として挙げられます。こういった再開発の経緯は、東日本大震災後の東京と類似しているようにも思えますね。明治20年頃には、銀座は日本橋に変わる繁華街となり、三越や松坂屋なども移転。当時百貨店のなかった銀座に、急きょ3つものデパートが進出したのです。そこから、華やかな銀座の歴史がスタートします。
また、銀座と同じように金貨幣を鋳造していたのが「金座」。江戸時代には、江戸・駿河・佐渡・京都の4カ所に金座が置かれていましたが、明治に入り廃止されました。これは、新政府が悪質な金貨を鋳造していたことが明らかになり、諸外国からの抗議を受けたことと、新しい貨幣施設建設が決定したことが理由です。そのため、明治2年には銀座が鋳銭作業を兼任することとなりました。江戸時代に金座の置かれた場所は、日本橋本石町。現在は日本銀行本店が置かれている場所で、周辺には「金座通り」という名称が残されています。静岡にも同様に、金座のあった場所には「金座町」という地名が残されています。
大井町駅の周辺にはアトレ大井町や阪急大井町ガーデンなどの大型商業施設の他に、レトロな店構えの店舗が印象的な約10の商店街があります。商業施設で最新グルメを味わうも良し、下町情緒漂う商店街を冒険するも良しと、美味しいご飯に困らない街です。夏祭り・ハロウィーン・クリスマスなどのシーズンにはイベントが開催されることもあります。大井町駅は3路線が利用可能なターミナル駅としての特性を持つ品川区の駅です。駅周辺にはアトレ大井町・イトーヨーカドー・阪急大井町ガーデンといった大型商業施設などが建っており、大井銀座商店街や区役所通りは、日中、地元住民の方の買い物需要が高いエリアとなっています。また、大手企業がオフィスを構えていたり、劇団四季の劇場があったりと様々な「顔」を持つ街となっています。
大井町という地名の由来は鎌倉時代にまで遡ります。当時、この地域に根付き統治をしていた武将が「大井氏」と名乗ったことが「大井町」という名前の始まりだと言われています。明治時代にはJR大井町駅から第一京浜(国道15号線)に出る道にある急勾配の坂を、近くに住んでいた英国人J.M.ゼームスが私財を投じ勾配をなだらかにする工事を行いました。そのため、当時の人々は彼に敬意を表してその坂をゼームス坂と呼び、今でもその名が残っています。ゼームス坂は青物横丁駅や新馬場駅方面に向かう多くの人が利用しています。飲食店は駅周辺に多く出店しています。特に大井銀座商店街を中心に商圏が広がっており、商店街の一本裏には「東小路飲食店街」という昭和ながらの小規模飲食店が所狭しと営業している通りがあります。ディナーの営業を中心としたお店が多く、下町の雰囲気を残した風情ある飲食店街として連日多くの人が訪れています。
「すみだ川」の名が登場したのは、西暦835年のこと。当時の政府の公文書に「住田河」と記されています。この「住田」が、どのように読まれていたのかは定かではありませんが、川の三角州に田を作ったという意味で「すだ」と呼ばれていたと考えられています。その後、平安時代の伊勢物語では、「すみだ川」という歌が詠まれ、すみだ川の名が全国に広まっていきました。このほかの記録には、「隅田」をはじめ「墨多」「住田」「澄田」など、いくつかの字を当てていますが、読み方は語感のよい「すみだ」に定着したようです。江戸時代以降、川の周辺は、桜の名所としてはもちろん、両国の川開きや向島百花園、七福神めぐりなど、多くの人に親しまれ、その当時から、この川の堤を「墨堤」と呼ぶようになり、漢詩などに好んで使われるようになりました。しかし、川の名称は定まらず、「大川」や「浅草川」と愛称で呼ばれ、また公的な文書では「荒川」とされていました。明治29年に制定された旧河川法でも、荒川の一部ということで一括して荒川と呼ばれています。その後、河川法が見直され、法的にも正式に「隅田川」となったのは、昭和40年になってからです。
墨田区が誕生したのは、東京が35区から22区(後に23区)に移行した1947年3月で、それまであった本所区と向島区が統合されてできました。初めは「隅田区」になる案が有力だったようで、墨田区誕生の1カ月前の東京新聞には同社主催の「新区名投票の結果発表」という記事があり、「隅田区」が1位となっていました。この結果は世論として議決に反映させるため区会に送られましたが、前年の1946年11月に内閣告示された当用漢字表に「隅」の字がなかったことを理由に、「隅田区」は採用されませんでした。一方、地元で「隅田川」として親しまれていた川は、当時は荒川の支流という位置づけで実は「隅田川」ではありませんでした。歴史的には「墨田川」「角田川」などの表記もいくつか見られましたが、墨田区誕生から20年近くたった1965年の河川法施行により、正式に「隅田川」となったという経緯があります。その隅田川周辺には現在も「隅田」と「墨田」が混在しています。川沿いにある公園は「隅田公園」、夏の風物詩である花火大会は「隅田川花火大会」。学校では墨田幼稚園、墨田中学校、墨田川高校が、いずれも墨田区内にあります。また、「春のうららの……」で有名な唱歌「花」の歌詞に出てくるのは「隅田川」です。こうした表記の不ぞろいの背景には、65年前の「隅田区」廃案と当用漢字表の存在があったとみていいでしょう。
東京臨海新交通臨海線は、東京都港区の新橋駅から江東区の豊洲駅までを結ぶ、株式会社ゆりかもめが運営する自動案内軌条式旅客輸送システム路線です。ゆりかもめは1995年に開通し、新橋や豊洲などの都心とお台場や有明といった臨海副都心をつないでいる新交通システムです。本来の路線名は「東京臨海新交通臨海線」ですが、「ゆりかもめ」という愛称が一般に浸透しています。ゆりかもめの車窓からは、東京スカイツリーやレインボーブリッジなどの名所を望むことができ、沿線にはパレットタウンやフジテレビ本社などの観光地が立ち並んでいることも魅力のひとつです。
現在の「株式会社ゆりかもめ」の前身、「東京臨海新交通株式会社」が1988年に設立され、平成元年にゆりかもめの工事が始まりました。それから7年の工事期間を経て1995年に開通します。以来、年々乗降客数は増え続け、今では1日平均約10万人(2012年現在)が利用する交通機関となっています。
ゆりかもめの車両は電車やモノレールとは異なり、1車両4輪のゴムタイヤという自動車と同じ構造をしているので、急な坂の登り降りも難なくこなすことができます。また、コンピュータによって走行を管理している自動運転のため、運転士や車掌が車両に乗っていません。さらに、各駅の特徴として、それぞれに「日本の伝統文様」がデザインされています。
JR新橋駅から少し離れた場所にある高架駅が、ゆりかもめの新橋駅です。山手線をはじめとしたJR各線、地下鉄銀座線、浅草線など各線新橋駅から、お台場方面への観光客が多く乗車します。駅の文様は、縁起のいい柳を模した「柳縞文様」です。1974年に開館した「船の科学館」の最寄駅です。「クイーンエリザベス2号」をモチーフにした科学館本館は、ゆりかもめの車窓からも望むことができます。駅の文様は水面に浮かぶ帆掛を描いた「帆掛け舟文様」です。
お台場を代表するレジャースポット「フジテレビ本社」やエンターテイメント施設「ダイバーシティ東京」の最寄駅です。駅文様は波を模した「大波文様」です。国際展示場正門駅から徒歩3分の場所にある、国際展示場(東京ビックサイト)では、年間通して様々なイベントが開催されています。駅文様は、桜の散りばめられた「桜文様」です。2006年、有明駅に代わる新しい終着駅として延伸開業したのが、この豊洲駅で、東京メトロ有楽町線豊洲駅に乗り換えが可能で、駅文様は、幸運を呼ぶという言い伝えのある「雨龍」が描かれています。
東京オリンピック・パラリンピックの主要競技会場を結ぶ「ゆりかもめ」。新橋駅からレインボーブリッジ、お台場や有明などを走り抜けます。さて、このゆりかもめは「鉄道」なのか、「モノレール」なのか?「ゆりかもめは『新交通システム』です。これはゴムタイヤ式の小型軽量車両が、専用の高架軌道を自動制御によって走行する中量輸送交通機関のことです。動力は低圧の電気が使用され、床下に取り付けた電動機でゴムタイヤを駆動して走行します。
また、曲線部では案内輪を使って、自動車と同じようにタイヤを曲線方向に曲げ、曲線に沿って自動的にかじ取りしながら走行します」こう詳しく教えてくれたのは、株式会社ゆりかもめの小泉さん。鉄道でもモノレールでもない、新ジャンルの交通機関というわけです。コンピューター制御により自動運転しています。車両や線路に設置されている装置でさまざまな情報をやりとりして、列車の走行や停止などが自動で行われる仕組みです。
高速11号台場線は、東京臨海部に建設される副都心部と都心とを結ぶ基幹交通施設として、また、都市高速道路網の幹線として整備されたもので、レインボーブリッジは高速11号台場線・臨港道路・臨海新交通システム(ゆりかもめ)からなる複合交通施設になっています。レインボーブリッジ付近の臨港景観は、港の水面が描きだす水平線と、高層ビル群の垂直線によって構成されています。レインボーブリッジは、直線で構成される臨海の都市を背景に、吊り橋の特性を生かし、広がりやのびやかさのなかに優美な容姿を印象づけるよう、主塔、橋脚の垂直線に柔らかな曲線を配しています。
お台場は、東京湾に浮かぶ人工島にある、ハイテクの娯楽施設が集うエリアです。お台場には近未来的なゆりかもめで行くことも、徒歩または車でレインボー ブリッジを渡って行くこともできます。お台場海浜公園の砂浜でのんびりして、大観覧車から富士山を眺め、日本科学未来館を訪れてロボットと触れ合うなど、レクリエーションが満載です。ベネチアをテーマにしたヴィーナスフォートやアクアシティやなどのショッピング モールもあり、水辺の寿司屋からは、摩天楼が連なる都心の景観を楽しめます
1853年(嘉永6年)のペリー来航に危機を感じた江戸幕府は6つの台場(砲台)を築造しました。現在に至る過程で第三台場と第六台場が残され、第三台場は公園に、第六台場は自然豊かで学術的にも貴重な史跡として海上に保全されています。過去と現在が共存する公園に足を運んでみてはいかがでしょう。
いまや斬新な建物が立ち並び、近未来的な観光スポットとして定着した「お台場」ですが、歴史をひもといてみると、意外な真実が判明しました。そもそも、「お台場」の歴史は江戸時代に始まりました。「台場」とは砲台、つまり大砲を置く「台」となる「場所」のこと。江戸末期、ペリー来航をきっかけに、外国船の襲来を脅威に感じるようになった徳川幕府が、江戸を守るために築いた砲台、それが「台場」でした。幕府直轄の地や由来のものには「御」を付けて呼ぶ習慣があったことから、「台場」に「御」がつき、時代を経て「お台場」と呼ばれるようになったのでしょう。この辺り一帯は、近年、臨海副都心として整備され、新しい街へと生まれ変わりました。
ちなみに、当初、海上の台場は11基造る予定でしたが、完成したのは5基。現在は、第三・第六台場が国指定の史跡として残され、第三台場は「台場公園」となっていて陸続きです。さて、その他の台場ですが、東京港拡張のために第一・第五台場は「品川ふ頭」に埋没、第二台場は航路と重なるため撤去されています。そして未完成であった第四台場は、現在の天王洲アイルにあたる場所にあって、地形や石垣などにわずかな名残が残っています。
豊洲市場は、1935年に開場し、2018年に閉場するまで、人気の観光地として、また世界的なブランドとして栄えた築地市場の後継市場として、現在多くの来場者に知られています。しかし、築地以前の東京の魚市場は、商業の中心地である日本橋に拠点を置いていました。1600年代初頭、徳川幕府(1603-1867)が江戸と呼ばれていたこの街を本拠地とし、日本の事実上の首都とした直後に、ここにもともと魚介類の市場が誕生したのです。
1935年、築地市場は、青果市場、鉄道駅、埠頭などを備えた耐震性の高い最新の施設としてオープンし、成功を収めました。戦後、その取引量は日本経済と同様に右肩上がりでした。築地は世界最大の魚市場に成長し、寿司を中心とした日本食の普及により、築地ブランドは世界的に知られるようになったのです。しかし、築地市場は自らの成功と日本の急速な都市化の犠牲となりました。1963年、東京都の人口は1000万人を突破しました。500万人規模の都市のための施設である築地では、水産物や農産物の取引量が際限なく増え続け、キャパシティ問題が深刻化しました。そこで、より大きな市場を建設する必要性が議論されるようになりました。
日本橋市場の移転の時と同じように、築地市場の移転先に関する結論が出るまでには数十年の歳月が必要でした。江戸の漁師たちが網を張っていた東京湾の浅瀬に、関東大震災で倒壊した建物の瓦礫を埋め立てて作った埋め立て地である豊洲が合意されたのは、2001年のことでした。2018年には豊洲市場がようやくオープンし、東京の魚市場は、季節を問わず新鮮な食材が取引されるよう、最大限の効率性を追求した超近代的な施設に生まれ変わりました。豊洲市場には、主な卸売市場の施設等に加えて、世界最大の魚市場の取引を監督し賃金などを管理する専用の管理棟があります。また、豊洲市場は築地市場とは異なり、観光客や市場関係者の安全を確保するために、一般の人の出入りにも配慮して設計されています。
しかし、豊洲市場で働く人々は、近代的な建築物や技術に囲まれながらも、何世紀にもわたって受け継がれてきた東京の魚市場の文化と伝統を守り続けています。セリの際には昔ながらの手信号で入札を行い、日本橋魚河岸で創業した企業が豊洲でも営業を続けています。また、豊洲市場には、森孫右衛門らが400年以上前、江戸に出てきたときに海の神を祀った神社から派生しました「水神社」があり、伝統的な神事も行われています。
東京都中央卸売市場は、都民のみなさんの食卓に安全で安心な生鮮食料品を届けています。豊洲市場は、平成30年10月に築地から移転し、営業を開始しました。豊洲市場で取引される水産物、青果物の量や金額は世界規模で、毎日繰り広げられるせりや取引も圧巻です。豊洲市場は見学用コースが整備されており、どなたでも安全に見学していただくことができます。ぜひ、豊洲市場の熱気を体感してみませんか。豊洲市場を見学した後は、市場の中にある飲食店でのお食事や物販店舗でのお買い物も楽しめます。
豊洲市場は、50年先まで見据えた首都圏の基幹市場として、築地市場が果たしてきた豊富で新鮮な生鮮食料品流通の円滑化と価格の安定という機能に加え、消費者の意識が高まっている食の安全・安心の確保、効率的な物流の実現など、産地や顧客・消費者の様々なニーズにも対応していきます。さらに、環境に配慮した先進的な市場とするとともに、築地市場の築いてきた歴史と伝統を継承・発展させていくことで、豊洲市場の魅力=ブランド力を高めていくことを目指しています。
2018年に築地から移転した豊洲市場は、敷地面積 約41万m²・延床面積 約51万m²の世界でも最大級の公設市場として、首都圏を中心に日本全国および海外まで流通する野菜・魚介類など豊富で新鮮な生鮮食料品を取り扱っています。エリアごとの適温管理ができる閉鎖型施設であるほか、円滑な物流の実現や、省エネ・緑化など環境にも配慮した先進的な中央卸売市場です。市場内には一般にも開放されている水産物・青果の見学エリアがあり、早朝のセリを見ることができます。また、市場ならではの飲食店エリア、物販エリアもあり、多くの観光客が訪れています。
2024年2月1日、豊洲市場(東京都中央卸売市場・豊洲市場」)の場外に、市場の新たな名所「豊洲 千客万来」がオープンしました。魚介類をはじめ豊洲ならではの新鮮な食材を活かした飲食店・物販店や、24時間営業のスパ施設などがあり、ランチや食べ歩き、ショッピング、リラクゼーションなどが楽しめます。「豊洲 千客万来」は、食楽棟「豊洲場外 江戸前市場」と温浴棟「東京豊洲 万葉倶楽部」で構成されています。施設名のとおり、おいしいものを求める多くの人々で活気にあふれています。
築地市場特有の貴重な財産であるにぎわいを継承・発展させるとともに、豊洲市場ならではの活気やにぎわいを生み出すことを目的に、2015年9月より構想をスタートさせた本施設が、ついに2024年2月1日(木)に開業いたしました。「千客万来」とは、多数の客が入れかわり立ちかわり来て、絶え間がないという意味を持ちます。こうした場所になることへの願いを込めた施設名称としました。市場本体施設と連携し、居住と観光、両方の側面において魅力的な豊洲の一体感を生み出し、さらなるエリアのにぎわいを創出します。
施設内の出店テナントでは豊洲市場ならではの新鮮なローカルフードを提供するだけでなく、日本全国から集まる”本格・本物の食”をお届けし、誰もが楽しめる食体験を提供します。加えて、源泉から運び込んだ絶景展望の温泉や東京湾パノラマ夜景を望める足湯など非日常の癒やしもお届けし、豊洲市場に新たに誕生する「うまさの聖地」として、訪れる方々へいくつもの新体験をご提供します。全国に11箇所、会員数130万人を誇る万葉俱楽部グループが総力を結集し創り上げた、誰もがはじめて味わう新たな体験に出会える美食と温泉のにぎわい処として、地域のまちづくりや活性化に貢献し、近隣住民にも愛される場所を目指します。
「豊洲場外 江戸前市場」は、江戸の街並みを再現したオープンモールです。東京・多摩地域の木材を使用した木造建築で、淡路島のいぶし瓦など、伝統的な建築素材を使用しているのも特徴です。施設は3フロアに分かれており、1階には気軽に豊洲の食を楽しめるレストランが揃っています。2階は、江戸時代の活気あふれる市場を再現した「目利き横丁」と「豊洲目抜き大通り」のフロア。目利き横丁では、150年近い歴史がある老舗水産仲卸が展開する海鮮炉端焼店をはじめ、仲卸が目利きした旬の食材や珍味を、食べ歩きやカウンターで楽しむことができます。
江戸の街並みを再現した商業施設で、豊洲市場隣接である強みを活かした新鮮食材の販売・提供を行っていきます。3つのフロアで構成されており、1階は手軽にグルメを楽しめる店舗が多く、豊洲市場で働く人々や近隣住民が日常的に利用していただくことを想定しています。2階は江戸時代の活気あふれる市場を再現した「目利き横丁」と「豊洲目抜き大通り」があり、市場の活気が伝わる多種多様な店舗が展開されています。3階は誰もが新鮮な海鮮を楽しめるフロアであることを主な特徴として、様々なスタイルの寿司屋が出店しています。
豊洲目抜き大通りでは、うなぎや寿司などの江戸前の食事が楽しめる飲食店街のほか、多彩な東京ローカルフード店も出店。地元の江東区の郷土料理である深川めしをイメージした「深川コロッケ」を楽しめる店や、一般販売は初となる老舗青果店、ワンハンド天ぷら店、ラーメン屋などが軒を連ねます。3階には、様々なスタイルの寿司屋が出店。旬の食材を活かしたランチや江戸前ならではの食事を味わえるディナー、掘り出し物のショッピングと、ここには様々な楽しみが詰まっています。
建物の前には施設のランドマークである「時の鐘」があり、広場でイベントも開催されます。施設の周りはそぞろ歩きが楽しめる「豊洲江戸前通り」となっており、四季折々の景色を眺めながら散策することができます。また、和風カフェや土産物店もあり、ショッピングの合間の休憩や、豊洲ならではのお土産探しができます。
「東京豊洲 万葉倶楽部」は、「東京都心の温泉郷」です。24時間営業で、1日ゆったり滞在できます。屋上には「展望足湯庭園」があり、入館者は自由に利用することができます。ウォーターフロントの景色を一望する、360度のパノラマビューは必見です。
幕張メッセは、千葉県千葉市美浜区の幕張新都心に位置する日本国内第2位の規模を有する複合コンベンション施設です。国際展示場の正式名称は千葉県日本コンベンションセンター国際展示場。 日本国内の優秀な建築作品として第32回及び第40回BCS賞、IAITAクォーターナリオ賞、第5回千葉県建築文化賞等を受賞しています。幕張メッセは、国際展示場、国際会議場、幕張イベントホールの3施設で構成される、日本を代表する複合コンベンション施設です。敷地面積約21万㎡、総展示面積約75,000㎡です。3施設は、2階レベルで連結し、施設間の移動がスムーズです。ホテル・商業施設・レストランが隣接し、首都圏・成田空港・羽田空港からのアクセスが容易で、最寄駅(JR 京葉線:海浜幕張駅)より徒歩約5分の好立地です。見本市・展示会から、大規模な式典・集会、コンサートまで、さまざまなイベントが開催される、幕張メッセ最大規模の国際展示場です。外観は、千葉県房総半島の山並みをイメージしています。中央プラザにある赤い屋根がひときわ目を引きます。展示ホール1から展示ホール8 (最大54,000㎡) まで、可動間仕切りにより分割することでフレキシブルに展示スペースを構成できます。
東京モーターショーは、自動車の最新技術やデザイン関する情報を紹介する、日本自動車工業会主催の日本の見本市。略称はTMS、東モ。2019年の第46回が最後の開催となり、2023年からは後継となるJAPAN MOBILITY SHOWが開催されている。日本で行われる世界最大級の自動車展示会。毎年秋に行われており、世界中の自動車メーカーが最新車を披露することから、「車の祭典」とも呼ばれています。2009年で41回目の開催となりますが、世界的な不況に自動車業界があえぐなか、メジャーメーカーが相次いで不参加を表明。盛大だった祭典に影を落としています。東京モーターショーが初めて開催されたのは、1954年、東京・日比谷公園にて。ちょうど高度経済成長期に差しかかっていたこともあり、戦後最大規模のショーとして盛り上がりました。当時、車は庶民にとって手の届かない存在でしたが、会期10日間で54万7千人が来場するという大盛況ぶり。254メーカーが出展し、ショーの総裁は高松宮殿下が務めました。その後、会場は後楽園競輪場、東京・春海と変遷し、89年(第28回)からは千葉・幕張メッセで開催されるようになりました。
にぎわいがピークを迎えたのは、91年のショーです。入場者が初の200万人を突破し、海外からも熱い注目を集める国際色豊かな展示会となりました。また、混雑を解消するため、通路を広くし、車を車種別に展示するなどの対策が図られました。東京モーターショーでは、その年を象徴するような新車が話題をさらうほか、会場に花を添える女性コンパニオンも注目の的です。車よりも、コンパニオン目当てで訪れる来場者もいるほどでしだ。
バブル、少子化、不況など、時代の波をもろに受けながら、国際的な大イベントとしての地位を築いてきた東京モーターショーでしだがその勢いも、2008年後半ごろから始まった世界的な自動車不況により、急激な減速を強いられています。第41回東京モーターショーでは、ゼネラル・モーターズ(GM)、フォード・モーター、クライスラーの米国ビッグスリーに加え、独フォルクスワーゲン、仏ルノーなど主要な欧州メーカーが不参加でした。いすゞ自動車など日本のトラックメーカー4社も出展しない上京でした。主催者である日本自動車工業会は、一般公開日を4日短縮し、展示面積を縮小するなどして、コンパクトな形で開催するとしました。
「江戸小路」は現代の名匠が伝統の日本式工法を追求して再現した本物の「江戸の町並」。羽田空港から「新しい日本・東京」の魅力を発信するために、文化と伝統の技を伝える多くの店舗を厳選しています。東京国際空港(羽田空港)の新しい国際線旅客ターミナルビルが2010年10月21日にオープンしました。一般利用者が入れるエリアの4階と5階を占めるのが、商業施設の「E・DO MARKET PLACE」。江戸の街並みを再現した区画をもつ4階の「江戸小路」、5階の「TOKYO POP TOWN」という2フロアに、物販と飲食、サービスの43店舗が並びます。
江戸総鎮守・神田明神の色彩をイメージした赤い柱の「江戸舞台」を中心に構え「江戸櫓」がそびえる「江戸小路」。ここは、十八代目 中村勘三郎氏が監修した江戸時代の芝居小屋をはじめ、全て本物の無垢材を使い、手カンナ等で仕上げる従来の日本式工法で数寄屋建築の名匠・中村外二工務店が追求した江戸建築の巧みがあります。また、聚落土塀や江戸黒と呼ばれた黒漆喰壁など、本物の伝統と技の真髄が集められています。
海外への玄関口である国際空港に、江戸の街並みです。こう書くといかにもテーマパーク風のイメージですが、実際に訪れてみると予想以上に本格的な仕様となっています。木で組んだ深い軒に、縦格子をはめ込んだ窓。外壁はベンガラ色の塗り壁があると思えば、横になまこ壁が続きます。通りに面して提灯が連なり、歌舞伎小屋「中村座」を想起させる一画もあります。随所にヒノキやスギを用い、可能な範囲で屋根の下地なども木で組んでいます。
東京国際空港は、東京都大田区羽田空港に所在する日本最大の空港です。通称は羽田空港。単に「羽田」でも通用します。 航空便の時刻表において表記される「東京」とは基本的に同空港を指すことが多いですが、同じく、首都圏の国際空港である成田国際空港と併せて東京とされるケースも少なくありません。
羽田空港は1931年(昭和6年)8月、面積53haに延長300m幅15m滑走路1本を設けて開港したわが国初の国営民間航空専用空港「東京飛行場」からその歴史が始ります。
1938年から1939年(昭和13年から14年)にかけては最初の拡張工事が行われ、延長800m、幅80mの滑走路が2本整備されました。
終戦後、進駐軍に接収された「ハネダエアベース」の時代を1958年(昭和33年)7月に全面返還をもって終えますが(1952年[昭和27年]には大部分の施設が返還され、現在の東京国際空港の呼称となっています)、この間においても滑走路・誘導路・エプロン等の延長、拡張が行われています。
そして、航空機のジェット化が急速に進展する中で、さらに滑走路を始めとする空港施設の規模拡充が行われ、1964年から1971年(昭和39年から46年)にかけ、3本の滑走路を有する羽田空港の原形ができ上がりました。1978年(昭和53年)、新東京国際空港(成田空港)の開港に伴い中華航空を除く国際線が移転し、羽田空港は国内線空港としての役割を担うこととなりますが、昭和45年頃からの航空機の大型化・高速・大量輸送時代が到来する中、その需要は、なお急激な増加を見せ処理能力は限界に達するようになります。
さらに航空機騒音が社会的に注目されるなど社会状況の変化もあって、空港施設を大規模に沖合へ新たに展開する 「東京国際空港沖合展開事業」が1984年から2007年(昭和59年から平成19年)にかけて行われました。その後、さらなる航空需要に対応するため、「東京国際空港再拡張事業」が行われ、4本目の滑走路となるD滑走路の他、国際線地区が 2010年(平成22年)10月21日より供用開始となりました。「羽田空港のあゆみ」は、常に時代の要請に対応し拓かれた 我が国航空の歴史ともいえます。