四方山見物30

 

 

不忍池辯天堂 は上野恩賜公園の「不忍池」の中にある八角形の建物です。緑の屋根と赤い柱に白い壁のコントラストが、遠くからでも人々の目を惹きつけます。七福神の一人である「弁財天」をお祀りしていることから、音楽や芸能の守り神として親しまれ、地元の人たちには「弁天堂」や「弁天様」「弁財天」と呼ばれています。「不忍池辯天堂」を囲む不忍池に蓮の花が満開の季節は、まるで天女達が音楽を奏でているかのような景色が広がります。不忍池辯天堂は、滋賀の比叡山延暦寺にならって、上野に東叡山寛永寺を創建した天海僧正が、安土桃山時代から江戸時代初期にかけて建立しました。



東京・上野にはオアシスがあります。1年を通して何種類もの鳥たちが遊び、夏には一面に美しい蓮の花が咲く。そしてその一角では大きな大きな白鳥が人々を乗せてのんびりと泳ぎます。そこは不忍池、と呼ばれる場所。上野公園の南西端に位置する、周囲約1400メートル、東西約300メートル、南北約450メートル、面積約10万3700平方メートルの広い池です。現在、池は3つに分けられ、北は上野動物園分園の水上動物園、南は蓮の池、西はボート池となって人々を楽しませています。

 

寛永2(1625)年、上野に東叡山寛永寺が建立されました。その際、寛永寺を比叡山延暦寺に、この不忍池を琵琶湖に見立て、竹生島を模倣した小島を築いて弁財天を祀り、京都のような配置を再現しました。上野が忍ヶ岡と呼ばれていたのに対して、ここを「不忍池」と命名しました、とするのが第1の説です。現在最も有力な説とされています。寛永寺が建立されたことで不忍池は江戸の名所となり、春の桜、夏の蓮見、秋の月見、冬の雪見など、四季折々に江戸の人々を楽しませる憩いの場となりました。また、明治・大正時代には湖畔が博覧会場・競馬場などとして利用され、大勢の人で賑わいました。

 

もう1つが、池の状態を表していたという説です。昔、この辺りには茅やススキが生い茂っており、道の境すらよく分からないのに池だけがはっきり見えたため、「忍ぶことができない」という意味で名付けられたのだといいます。もともとの由来は現在も不明なのですが、湖畔には水上音楽堂・台東区立下町風俗資料館があって、近くにはホテルや飲食店・アメ横商店街なども軒を連ねる現在の池付近は、こちらの「忍べない」という表現がよく似合う場所になっていますね。今の上野の町からはあまり想像できないのですが、不忍池は昔、海でした。東京湾の入江だったものが次第に後退して陸地化し、池として残ったのだそう。池が形成された時期は平安時代ごろとも室町時代とも言われています。現在、不忍池には藍染川が流入し、忍川が流出しています。

 

明治維新の指導者である西郷隆盛は、明治10(1899)年の西南の役で、天皇や朝廷に敵対する勢力である朝敵となり死亡しますが、5年後には許されて朝敵ではなくなりました。その後、明治22(1889)年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で復権しています。大赦の翌年という早いタイミングで銅像をつくる話が出ているのは、隆盛を慕う人がそれほど多かったということでしょう。なお、銅像建立の募金の際は、明治天皇も金一封を出しています。実は像の発起人たちは、隆盛が維新第一等の功臣であり、また江戸城無血入場を実現したという理由で、皇居の近くに建立したかったようなのですが、既に復権していたとはいえ、まだまだ周囲の反感が強かったそうです。そのため、戊辰戦争の戦闘の一つである上野戦争において、黒門口の戦にて薩摩兵が奮戦したゆかりの土地ということから上野が選定されたといいます。



 

浅草には昔の東京の雰囲気が残っており、歴史ある浅草寺の近くの仲見世通り沿いに、伝統的な手工芸品や食べものの屋台があります。19 世紀半ばに建設された花やしき遊園地にはスリルあふれる乗り物アトラクションとカフェがあり、川沿いの区立隅田公園ではフェスティバルや花火大会が定期的に開催されます。近隣にはカジュアルな居酒屋が点在し、串に刺して焼いた肉とビールを提供する焼鳥屋もあります。



浅草は日本だけでなく、世界中から人が集まる人気観光地。浅草寺を中心に広がるバラエティ豊かな商店や東京スカイツリー®をはじめ、歴史や文化を感じられるスポット、娯楽が楽しめるスポットなど、様々な観光が楽しめます。また、美味しいグルメも目白押し、スイーツ、海鮮、肉、鰻など目移り必至!観光に疲れたら、癒しの湯スポットまであります。

 

「雷門」と書かれた赤い大提灯。浅草のシンボル・雷門の前は、記念写真におさまる国内外の人びとでいつも賑わっている。雷門は浅草寺の総門であり、正式名称は「風雷神門」と云います。その創建年代は詳らかではないですが、平公雅が天慶5年(942)に堂塔伽藍を一新した際、総門を駒形に建立したと伝わっています。風雷神門の名は、風神と雷神を門の左右に奉安していることに由来します。総門が現在地に移ったのは鎌倉時代以降のことで、移築の際に風神、雷神を安置したとも考えられています。風神と雷神は名のとおり風雨を司る神であり、風水害を除け、伽藍を鎮護するために祀られました。同時に、風雨順時と五穀豊穣の祈りも込められています。



風雷神門がなぜ「雷門」と呼ばれるようになったかは不明ですが、文化年間(1804~18)の川柳に、「風の神雷門に 居候」という句が見え、この頃には雷門という名称が一般化していたようです。雷門は創建以来、幾度も焼失と再建を繰り返しています。寛永12年(1635)に建立された門が同19年(1642)に焼失したのち、徳川三代将軍家光の発願により慶安2年(1649)に再建。旧来の門を上回る美観を呈しました。しかし、この慶安の雷門は明和4年(1767)に駒形町からの失火で焼失。やがて寛政7年(1795)に再建され、この頃から提灯の奉納が行われるようになりました。寛政の雷門は、歌川広重、渓斎英泉、歌川豊国、魚屋北渓など浮世絵師の好画題となり、今に作品が伝えられています。

 

しかし、幕末の慶応元年(1865)、浅草田原町からの失火により雷門まで延焼してしまいました。この慶応の焼失より実に95年間も雷門は再建されませんでした。現在の門は、昭和35年(1960)に松下電器産業(現パナソニック)社長・松下幸之助氏の寄進により、再建されました。当時、松下氏は関節痛を患っていましたが、それを聞いた当山中興第24世清水谷恭順貫首がご本尊に祈願したところ快復し、その御礼の意を込めて松下氏個人で寄進されたものです。江戸時代の様式を生かした造りであり、堂々たる風格を漂わせています。慶応の火災の際、風神、雷神像は頭部のみ難を逃れ、明治7年(1874)に身体部分を補った。昭和35年の雷門再建の際に、常盤堂雷おこし本舗社長・穂刈恒一氏の懇意により、補修・彩色されたのが現在の像です。また、雷門の北の間(風雷神像の背後)に安置されている天龍像と金龍像は、水を司る龍神であり、浅草寺の護法善神です。昭和53年(1978)、松下グループ有志の寄進で、両像は平櫛田中、菅原安男両氏の作です。

 

「雷門」をぬけてすぐに現れるのが、日本でもっとも古い商店街のひとつと云われている「仲見世通り」。約250mの参道に、浅草らしい工芸品や民芸品・甘味店など89の店がずらりと立ち並びます。



仲見世の西側には、浅草寺の本坊「伝法院」があります。その目の前の道が「伝法院通り」。仲見世通りの中間あたりに「伝法院通」と掲げられた門柱が目印です。約200mの通りは、瓦屋根が軒先に並ぶ店舗がつづき江戸の趣が感じられるスポット。江戸時代に流行した洒落ことばが描かれている「地口行灯」と呼ばれる街路灯をチェックしたり、歌舞伎に登場する盗賊のヒーロー「白波五人男」や「鼠小僧」を発見しながら、散策を楽しみましょう。

 

天慶5年(942)武蔵守、平公雅が建立したとされる旧仁王門の再建で、1964年に大谷米太郎氏から寄進されたのが宝蔵門です。門前の参道両側には仲見世が並ぶ。門の正面左右に構えるのは左に呵形像、右に吽形像の仁王像を奉安されているので、別名「仁王門」と呼ばれ、共にインドの古代武器を持っており、身体健全や災難厄除の神として信仰を集めています。宝蔵門は鉄骨鉄筋コンクリート造の入母屋造で、上層部分には国宝の法華経と重要文化財の「元板大蔵経」「元版一切経」や寺宝が収蔵されているので「宝蔵門」とも称しています。また、中央の提灯は「小舟町」と書かれている通り、日本橋小舟町の人たちによる寄進であり、両脇にある鉄製の提灯型のさげ物も同様です。



宝蔵門裏にかけられている「大わらじ」は吽形の仁王尊の制作者である村岡久作氏の出身地と言うご縁で山形県村山市の奉賛会により奉納されていて、浅草寺にはこんな大きなわらじをはく人がいるならと驚いて魔が去っていくという、魔除けと健脚を願い「わらじ」に触れていく人も多い。(長さ4.5m・幅1.5m・重さ400キロ)、阿形の仁王尊制作者は錦戸新観作です。

 

朱も鮮やかな五重塔は、昭和48年(1973)に再建された、鉄骨・鉄筋コンクリート造りの塔です。外から見ると、五重塔は地上面から建っているように見えますが、実際は基壇状の建物(塔院)の上に建っています。塔は、仏舎利を奉安したインドのストゥーパを起源とします。浅草寺の五重塔の最上層には、スリランカのイスルムニヤ寺院から昭和41年(1966)に奉戴した仏舎利が納められています。浅草寺に塔がはじめて建立されたのは、天慶5年(942)、平公雅によるとされています。当時の塔は三重塔であり、本堂に向かって二つの塔が左右に配された、「薬師寺式伽藍」ではなかったかという見解もあります。というのも、江戸時代・寛永年間の浅草寺境内図を見ると、当時は、本堂の東側に五重塔、西側に三重塔が建ち、境内に二つの塔が並存していたからです。焼失後、慶安元年(1648)に徳川家光が五重塔を再建するものの三重塔は復興されませんでした。この慶安の五重塔は本堂の東側に位置し、現在も礎石が残っています。江戸時代は、上野寛永寺五重塔、芝増上寺五重塔、谷中天王寺五重塔とともに「江戸四塔」として親しまれました。特に浅草寺の五重塔は、浅草や浅草寺を描いた絵画における必須のモチーフであり、浅草のランドマークでした。明治19年(1886)、各所傷んでいた塔を修復することになり、塔のまわりに足場が組まれました。このとき修復の費用を捻出するために、一般の参拝者に足場を登らせました。足場に設けられたスロープ沿いに最上層の屋根部分にまで登れたため、人びとは遥か遠くまでの眺望を楽みました。



浅草寺は、東京都台東区浅草二丁目にある都内最古の寺で、正式には金龍山浅草寺と号します。聖観世音菩薩を本尊とすることから、浅草観音として知られています。山号は金龍山。 元は天台宗に属していましたが、昭和25年に独立して聖観音宗の本山となりました。都内では、坂東三十三箇所観音霊場唯一の札所、また江戸三十三箇所観音霊場の札所でもあります。

 

浅草寺の歴史は、1400年も前にさかのぼります。飛鳥時代、西暦628年(推古36年)の3月18日の早朝、地元の漁師、檜前浜成・竹成の兄弟が隅田川で漁をしていたところ、網に一体の観音像がかかりました。二人はその観音像を引き上げると、地元の有力者土師中知の元へ届けました。土師中知はこの観音像を祀り、自宅を寺にして、礼拝供養に生涯を捧げました。その寺が、浅草寺のはじまりと言われています。この観音像が引き上げられた日、一夜にしてあたりに千株もの松が生えて、3日を過ぎると天から金のうろこをもつ龍が降りてきた、という伝説があります。それが「金龍山」の名の由来となり、現在も折々で奉演される「金龍の舞」はこの伝説から来ています。

 

東京スカイツリーは、東京都墨田区押上にある電波塔です。 東京のランドマークの一つ。高さは634 mで、タワーとしては世界第1位です。建築物としてはブルジュ・ハリファ、ムルデカ118に次ぐ世界第3位となります。

 

2012年(平成24)5月に、東京都墨田区に開業した電波塔です。高さは東京タワーの2倍近い634メートル。完成時点で、自立式鉄塔としては高さ世界1位、人工建造物としてはドバイのブルジュ・ハリファ(828メートル、2010年完成)に次ぎ、世界2位です。超高層ビルが乱立する東京都心で、直進性の高い地上波デジタル放送などの電波をできるだけ障害なく送信する目的で建設されました。



NHKと在京民放キー局5社などが利用しています。名称は一般公募で決められました。観光・商業施設「東京ソラマチ」や水族館、プラネタリウム、オフィスビルなどを併設しており、墨田区では年間552万人が来場すると予測していました。実際は開業前から建設状況がマスコミでたびたび取り上げられ、東京の新しい観光スポットとして人気をよび、開業後9か月で展望台(高さ350メートル)に500万人が来場。開業から1年半余りの2013年12月には来場者数が1000万人を超えました。

 

事業主体は東武鉄道の関連会社の東武タワースカイツリー株式会社。墨田区押上・業平橋地区に2008年7月に着工し、2012年2月に竣工しました。デザインは建築家の安藤忠雄と彫刻家の澄川喜一(1931― )が監修。地上350メートル地点に展望台「天望デッキ」、450メートル地点には展望台「天望回廊」が設けられました。電波塔を含めた周辺施設は「東京スカイツリータウン」とよばれています。

 

1990年代後半に構想が浮上し、2003年、在京放送事業者各社が600メートルを超える新タワーの建設を求めて「在京6社新タワー推進プロジェクト」を立ち上げ、実現に向けて動き出した。墨田区のほか、さいたま新都心なども誘致に名のりをあげたが、2006年に墨田区に決まった。高さは、東京地区の旧国名である「武蔵」の国にちなんだ634メートルとなりました。

 

今やはずすことのできない東京観光の新名所となった「東京スカイツリー」。高さ634mは自立式電波塔としてはなんと世界一!。展望台からは関東一円を見渡す広大なビューを楽しめるほか、ガラスで覆われた天望回廊の最高到達点「ソラカラポイント」ではまるで空を散歩しているような体験が出来ます。特にオススメなのが夕陽。真っ赤に染まっていく都心を見ていると時間が経つのも忘れてしまいます。

 

美味しいと評判のSKYTREE CAFE「スカイツリーロール 」もぜひ食べておきたいです。(東京スカイツリー天望デッキ フロア340にて販売)展望台見学が終わったら、300店以上のグルメ、ファッション、雑貨ショップが揃った商業施設「東京ソラマチ」やペンギンやオットセイなどが見られる「すみだ水族館」、「コニカミノルタプラネタリウム“天空” in東京スカイツリータウン」「郵政博物館」、さらに隅田川をはさんで向こう岸の「浅草」もすぐ近くなので一日たっぷり遊べること間違いありません。

 

 



両国国技館は、東京都墨田区横網一丁目にある大相撲の興行のための施設。公益財団法人日本相撲協会が所有しています。 プロレス、ボクシングなどの格闘技の興行会場、その他のスポーツ競技の会場、ポピュラー音楽のライブでも使用されます。意外だがクラシック音楽のコンサートが開かれた事例もあります。

 

1909年(明治42)6月、東京・本所両国の回向院境内に完成した相撲常設館に命名された名称です。開館当日の式辞を文士の江見水蔭が執筆しましたが、文中に「相撲は日本の国技」の表現があり、協会役員の尾車親方(元大関大戸平)がこの辞句を推薦したため、翌年1月には国技館と改称しました。当時としては珍しい大鉄傘円形の大建築は東京新名所として評判をよび、年2場所の本場所のほか夏の納涼大会、秋の菊人形展などが催されました。その後、浅草、大阪、京都、富山など各地にも国技館が建てられました。両国国技館は1917年(大正6)、関東大震災(1923)、第二次世界大戦による戦災などで再三焼け、修復されましたが、戦後占領軍に接収され、メモリアルホールと改称し、接収解除後の1958年(昭和33)日本大学講堂となり、1983年に取り壊されました。

 

その間本拠地を失った相撲協会は、興行場所を求めて、明治神宮境内や浜町公園などを転々とし、1950年から蔵前仮設国技館に移つりました。その後1954年秋、蔵前に体育館様式建築で国技館が完成し、以降東京場所年3回(1月、5月、9月)の定場所となりました。しかし、旧海軍格納庫の古材使用のため、老朽化が著しく、新しく両国駅北側操車場跡地(墨田(すみだ)区横網1-20)に新国技館を建設することになり、1983年4月に新築工事を始め、1985年1月完成した新国技館で、土俵開きが行われました。



敷地面積1万8280平方メートル、建築面積1万3000平方メートル、地上2階は正方形の和風隅切型大屋根の外観で、1階枡席と土俵は収納装置をもち、平土間にすることができ、ボクシング、柔道、プロレスなど多目的ホールとして利用されました。なお2階前面にも枡席、貴賓席、1・2階に身障者席などが設置されています。収容人員約1万1500。館内の地上1階には相撲案内所(旧称相撲茶屋)、相撲博物館、2階に相撲教習所があります。地下1階に相撲診療所、地下2階に95台収納の駐車場があります。

 

財団法人日本相撲協会が設立,経営する屋内催物施設。明治末期,常陸山,梅ヶ谷(2代)の両横綱が相対する大相撲の黄金時代を迎え,江戸時代天保年間から定場所になっていた回向院境内に,1909年6月相撲常設館が完成,江見水蔭が起草した開館当日の祝辞文の字句〈相撲は日本の国技なり〉の文字をとって,相撲協会の年寄尾車の提案により〈国技館〉と命名されました。

 

江戸時代から野天小屋掛けの晴天興行であったのが,晴雨にかかわらず興行できるようになり,約2000人前後の収容人員が一躍1万3000人になって,相撲見物は大衆化しました。大鉄傘型ドームの新建築物は東京新名所として大評判を呼び,その後,大阪,京都,富山など各地に国技館が建てられました。両国国技館は関東大震災(1923),第2次世界大戦により被災,戦後,進駐軍に接収されました。54年秋,浅草蔵前に,収容人員約1万1000人,体育館様式建築の国技館が完成しました。この蔵前国技館は84年まで使用されましたが,85年1月,両国駅に隣接した旧国鉄用地に新国技館が開館。地上2階,地下1階,外観は正方形の屋根が建物を包み込んだ和風造りで,収容人員は約1万1500人。土俵が可動式で地下にしまい込めるようになっていて,多目的に利用できます。



アサヒビールの燃える心の炎! アサヒグループ本社ビルの右側にある、さらにユニークな建築物の正式名称は「アサヒグループホール棟」。 デザイナーはフランス人のフィリップ・スタルク氏です。 真っ黒な黒御影石を用いた逆台形の建物の上に、何とも不思議な形の巨大なオブジェが乗っています

 

アサヒグループ本社ビルの右側にある、さらにユニークな建築物の正式名称は「アサヒグループホール棟」。デザイナーはフランス人のフィリップ・スタルク氏です。真っ黒な黒御影石を用いた逆台形の建物の上に、何とも不思議な形の巨大なオブジェが乗っています。皆さんが気になるのは、そのオブジェではないでしょうか。あれは「新世紀に向けて躍進するアサヒビールの燃える心の炎」をシンボライズしたものです。全体を見ると真っ黒な聖火台に炎が揺らいでいるように見えませんか?ちなみに、この金色のオブジェの名前は「フラムドール(仏語:金の炎)」です。ぜひ覚えてください!

 

この「フラムドール」の長さは約44m、重さ360トン。鋼材を使用して制作されています。完成間近に外観が現れたときには、近隣住民や高速道路を通る方々から、「巨大な枝豆?」「隣のビールジョッキから落ちたビールの露?」など問い合わせが相次ぎました。今はもう街に馴染み、問い合わせをいただくこともなくなった「フラムドール」ですが、実は逆方向に横たわる図面や、隣のアサヒグループ本社ビルを炎が突き抜けるスケッチが残っているんです。スタルク氏が様々なユニークなアイデアを考えていたことがわかりますね。炎が突き抜けていたら、どんな景観になっていたのか。少し想像しながら迫力あるオブジェをご覧いただくのも楽しいかもしれません。



 

原宿は多彩なストリート アートやファッション シーンで知られる賑やかなエリアです。。竹下通りには個性的なヴィンテージ服の店やコスプレ ショップが、緑豊かな表参道にはトラディショナルな高級ブティックが軒を連ねます。周辺の小路には小さなバーや流行りのカフェのほか、最先端の展示が人気のワタリウム美術館などの文化的なホットスポットも多くあります。



東京都渋谷区に位置し、原宿駅周辺から表参道駅周辺まで広がる「原宿」エリアは、 日本でも有数のショッピングエリアであり、多くの若者と最先端のブランドやアイテムが集まるトレンドの発信地です。。 カラフルでポップなファッションを世界中に発信する「カワイイ」文化の発信地でもあります。原宿エリアの最大の特徴はアパレルブランドが圧倒的に多いということです。 竹下通りに始まり青山周辺に至るまで、10代前半の若者から40代の大人のファッションの流行の発信地として有名です。特に休日の竹下通りは、都内はもちろん、地方から遊びにきた中高生であふれかえり、まるでお祭りでもあるかの様なにぎわいです。



代々木公園は、かつて陸軍代々木練兵場だったこの場所も、戦後は米軍の宿舎敷地・ワシントンハイツとなり、東京オリンピックの選手村を経て公園となりました。 開園当時はまだ若かった木々も、今ではすっかり成長し、隣接する明治神宮の木々と共に緑濃い森を作っています。噴水などがある森林公園のエリアと、陸上競技場や野外ステージなどがあるエリアに分かれています。 ランニングコースが整備されており、ランナー御用達の公園としても有名。 休日には、芝生やベンチでピクニックを楽しむ人々の姿も多く見られます。

 

高さ15m~30mに及ぶ大小3基の噴水や水回廊をもつ水景が美しい「水と緑」に恵まれた公園です。広大な敷地には野外ステージ、サッカー場、競技場が併設され、サイクリングも楽しめます。 フラワーランドは、四季折々に咲く花々やハーブ等を鑑賞できる美しい憩いの空間です。バラ園では三十種を超える品種のバラが楽しめます。



明治神宮は明治天皇と皇后の昭憲皇太后をおまつりする神社です。 およそ70万平方メートルの広大な鎮守の杜は、明治神宮創建にあたって全国から献木された約10万本を植栽し、「永遠の杜」を目指して造成された人工林です。明治神宮は東京の代々木にある、「明治天皇」と「昭憲皇太后」をおまつりする神社です。本殿のある「内苑」、「絵画館」や「野球場(神宮球場)」のある「外苑」、結婚式でおなじみの「明治記念館」からなり、広さ70万㎡平方メートルにも及ぶ人工林は、とても都心とは思えない環境です。

 

毎年、お正月には日本一の参拝者を集め、大相撲の「横綱推挙式」や「奉納土俵入り」もここで行われます。また2012年には、あのミシュランによる「日本の3つ星観光地20選」にも選出されるなど、国の内外で多くの人々から「都会のオアシス」「憩いの場」としても親しまれています。1912年、明治天皇は59歳でご崩御されました。今は神宮外苑となっている東京の青山で御大葬が行われ、京都南郊の伏見桃山陵に埋葬されています。その2年後には、後を追うように昭憲皇太后も亡くなられ、同じく伏見桃山東陵に埋葬されました。



これを受け、国民の間からは「お二人のご神霊をおまつりした神社」の建立を求める声が高まりました。それに応える形で、1915年に、お二人が生前よく訪れていた思い出の場所である東京の代々木に、明治神宮が建立されることが決まったのです。工事には、全国から集った延べ11万人にも及ぶ青年団が参加したと言われています。彼らの活躍により、着工から5年後の1920年11月1日に鎮座祭が行われ、明治神宮は創建されました。しかし1945年4月太平洋戦争の折、明治神宮は米軍の空襲に見舞われ、本殿など創建当初の主要な建物が焼失してしまいました。戦後、「明治神宮の復興なくして、日本の復興はない」という機運が高まり、国の内外を問わず、多くの浄財が寄せられることに。それにより、神社建築の粋を集めた復興造営が行われ、1958年11月に明治神宮は現在の姿となりました。

 

1993年には、平成の御大典記念事業として「神楽殿」が、また2002年には、明治天皇御生誕150年記念境内施設整備事業の一環として「社務所」も新築されるなど、明治神宮は今も、私たちの「心のふるさと」として発展を続けています。神社と言えば、やはり「ご利益」を期待してしまいますが、もちろん明治神宮も、参拝すると、さまざまなご利益があると言われています。また、いわゆる「パワースポット」としても高い人気を誇っています。具体的にどのようなご利益があるのか、代表的なものを、ご利益があると言われている場所とともにご紹介します。以前は「知る人ぞ知る」という場所でしたが、近年テレビなどで取り上げられ、すっかり有名になりました。毎分60リットルの水が湧き出る井戸で、戦国時代の武将として知られる「加藤清正」が掘ったとされていますが、実際の真偽は不明です。「絶えることなく、大量の水が湧き出る」ということから、ここを訪れると「悪い気が浄化され、運気が上がる」と一躍パワースポットとしてまつり上げられました。また、携帯電話の待受画面に使うと、さらに効果がアップするとも言われています。