四方山見物20

 



磐梯山は、標高1816m、3つの山体からなる成層火山で、猪苗代町・磐梯町・北塩原村の3町村にまたがる山で会津富士とも呼ばれている、日本百名山の1つです。初夏の時季には、水田に映った「逆さ磐梯山」を見ることもできます。季節や角度によって様々に表情を変えることから、一年を通じて楽しめます。春から秋にかけては登山、冬はスキー・スノーボードと、フィールドとしての磐梯山も多くの人に愛されています。

 

磐梯山は、標高1816m、3つの山体からなる成層火山で、猪苗代町・磐梯町・北塩原村の3町村にまたがる山で会津富士とも呼ばれている、日本百名山の1つです。初夏の時季には、水田に映った「逆さ磐梯山」を見ることもできます。季節や角度によって様々に表情を変えることから、一年を通じて楽しめます。春から秋にかけては登山、冬はスキー・スノーボードと、フィールドとしての磐梯山も多くの人に愛されています。

 

磐梯山では1888年(明治21年)7月、マグマの熱で地下水が沸騰する水蒸気噴火を起こしたのをきっかけに、小磐梯と呼ばれた山頂部が丸々崩れ落ちる「山体崩壊」が発生しました。この際、大量の土砂などに埋もれて477人が死亡。その後も、長瀬川などがせき止められた影響で少しずつ水がたまり続け、檜原湖や小野川湖などが誕生しました。



同地区に約70戸あった世帯は移転しましたが、家屋は水没したままです。現在、湖の水位はダムによって管理されており、渇水期には、湖底にある神社の参道などが部分的に出現します。北塩原村教育委員会がまとめた渇水期の陸上調査の報告書によると、鍋や陶器など、当時の生活をうかがわせる遺物が湖底から発見されています。JAMSTECや高知大学などからなる研究チームには、地質学や考古学の専門家が参加します。湖の上からの音響調査を行う予定で、その後、実際に潜水して湖底の 堆積たいせき 物を採取することも計画されています。

 

文化庁は近年、水中遺跡の文化財への指定や登録を推進しており、専門家による候補の選定作業を進めています。檜原宿については状態がよく分かっておらず、今のところ、県や村の文化財にも指定されていません。北塩原村教育委員会は「調査が進んで遺跡の詳しい価値がわかれば」と話しており、調査に協力して今後の対応を検討するそうです。

 

磐梯山の噴火により、美しい五色沼をはじめ数多くの湖沼が作られました。中でも一番大きく、美しい島々が浮かぶ桧原湖。裏磐梯最大の湖で湖岸周約31km、最大水深31mあります。桜、新緑、紅葉、雪景色と常に最高の景色を見せてくれます。グリーンシーズンは湖畔道路をドライブするだけでも楽しめ、特に新緑の5月中旬~6月は最高の季節です。モーターボートや観光船も運航されており、湖上から磐梯山を眺めることもできます。冬には湖面が結氷し、氷上を歩くことができます。ワカサギ釣りのカラフルなテントが並ぶ景色は、裏磐梯の冬の風物詩です。



会津若松市のシンボルである鶴ヶ城(会津若松城)は室町時代の初め、今から約630年前の至徳元年(1384)に葦名直盛が東黒川館として造営したのが始まりとされています。お城といっても当時は天守はなく、館程度でした。その後、伊達政宗が城主となったあとは、蒲生氏郷が豊臣秀吉の命令で会津を治め、七層の天守を築きました。

 

江戸時代に入り、会津で大地震が発生。被害を受けた天守は大改修され、現在と同じ五層の天守となりました。幕末の戊辰戦争では新政府軍の猛攻に耐え難攻不落の名城と称えられましたが明治7年、政府の命令により取り壊され、現在の天守は昭和40年(1965)に再建されました。内部は博物館になっています。五層からは会津若松市街地や会津盆地、磐梯山が一望できます。

 

城に石垣は付きものですが、築き方が時代によって違います。鶴ヶ城の石垣を年代的に見ると、一番古いのが天守閣の石垣で、蒲生氏郷が築いたものです。専門的には「野面(のづら)積み」という石の積み方で、自然石を組み合わせて積み上げます。傾斜が緩やかで、裾野が広いのが特徴です。今から約400年前の慶長16年(1611年)8月21日、会津盆地の西縁を震源とするマグニチュード6.9、震度6以上と推定される大地震が発生しました。民家2万戸が倒壊し、多数の死者も出る大惨事でした。七層の天守閣も傾きましたが、天守閣の石垣は持ちこたえたそうです。実際に見てみると、こんな粗い積み方で大丈夫だったのだろうかと思いますが、当時の築城スペシャリストの技には驚嘆してしまいます。



会津若松市のシンボルである鶴ヶ城、その天守閣は市内のほぼ、どこからでも望むことができます。赤瓦や石垣、茶室など、みどころも豊富。市民公園になっているため、朝の散歩やジョギングなどを楽しむ人々の姿も見られます。市民の憩いの場として現代の生活に溶け込みながら、会津の歴史を今に伝えています。 

 

2011年5月、天守の屋根を45年ぶりに葺き替え、それまでの黒瓦が赤瓦になりました。赤瓦は会津松平藩の藩祖保科正の時、慶安元年(1648)頃に葺き替えられたことが記録されています。表面に釉薬を施して焼いた赤瓦は強度があり、会津の冬の厳しい寒さ、凍結にも耐えることができたようです。明治7年(1874)7月に天守をはじめ、鶴ヶ城内の建造物を取り壊されました。その6年前、戊辰戦争を戦った白虎隊の少年たちも、この赤瓦の天守を仰ぎ見たことでしょう。

 



 



飯盛山は、会津の城下町を一望に見渡すことのできる小高い山で、日本武尊などの神話も残る信仰の山です。明治元年(1868)8月23日、戸の口原での戦いで決定的打撃を受けて潰走した白虎隊は、 負傷者を抱えながら郊外の飯盛山へと落ち延びました。その際に、市中火災を眺めて鶴ヶ城が落城したものと早計し、白虎隊はその場で自刃しました。飯盛山には、白虎隊十九士の墓、各地で戦死した三十一士の墓などが残っています。急な石段があるため「動く坂道・スロープコンベア」を利用して上ることもできます。近くには会津さざえ堂があり、麓には土産物店が軒を連ねます。

 

戊辰戦争のおり、16~17歳の少年たちで編成された白虎士中二番隊が戸の口原合戦場から退却し、滝沢峠の間道を通り、戸の口堰の洞門をくぐり飯盛山に辿り着くと、鶴ヶ城の天守閣は黒煙の中に見え隠れして、「城は陥落したか、今は主君のために殉じよう」と、全員が自決しました。1人だけ生き残った 飯沼貞吉 によって、白虎隊の忠義と悲運の物語は広く人々に知られるところとなりました。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納されます。



 

会津藩家老 西郷頼母邸を中心に、中畑陣屋(県重要文化財)、数寄屋風茶室、藩米精米所、歴史資料館などが立ち並ぶ「歴史散策ゾーン」、福島、会津のいいものを豊富に取り揃えた「郷工房 古今」、会津の郷土料理を洒落た空間で味わえる「御食事処 九曜亭」などが併設される総合観光施設です。藩主が訪れた時に使用した「御成の間」や家老の寝室として使用された「奥一の間」など、人形による再現もあります。また、戊辰戦争で西軍の城下侵入の際に留守宅を預かった家老の妻・西郷千恵子が一家の采配をふるい、「敵のはずかしめをうけず」の覚悟から、一族二十一人と共に自刃した最後を知ることができます。



 

会津武士道を中心とした会津の歴史、文化の伝承と発信を使命とする施設が「歴史感動ミュージアム会津武家屋敷」です。2300坪及ぶ会津藩家老西郷頼母邸はけやき・ひのき・杉材を使用した和様建築の豪華壮大な造りとなっており、表門に足を踏み入れると、そこからもうタイムスリップ、会津武士の生活が偲ばれます。他に歴史資料館、精米所、県重要文化財の陣屋や茶屋なども軒を連ね見どころ満載です。赤べこや起上り小法師の絵付けの体験コーナーもあり、弓道体験では的を射ぬくと景品をゲット出来ます。「お食事処・九曜亭」、福島・会津のいいものを集めた「郷工房・古今」へは見学せずに直接お入.ることもできます。

 

 

 

 



会津さざえ堂は寛政8年(1796)福島県会津若松市の飯盛山に建立された、高さ16.5m、六角三層のお堂です。正式名称は「円通三匝堂」といいます。(重要文化財指定名称は「旧正宗寺三匝堂」)当時飯盛山には正宗寺というお寺があり、その住職であった僧郁堂の考案した建物です。かつてはその独特な2重螺旋のスロープに沿って西国三十三観音像が安置され、参拝者はこのお堂をお参りすることで三十三観音参りができるといわれていました。また、上りと下りが全く別の通路になっている一方通行の構造により、たくさんの参拝者がすれ違うこと無く安全にお参りできるという世界にも珍しい建築様式を採用したことで、建築史上その特異な存在が認められ、平成8年に国重要文化財に指定されました。

 

 

 

福島県南会津にある【大内宿】は、江戸時代に会津若松市と日光今市を結ぶ重要な道の宿場町として栄えました。現在も江戸時代の面影そのままに茅葺屋根の民家が街道沿いに建ち並び、この景観を引き継ぐために店舗兼住居として生活しています。昭和56年には国選定重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、この大切な村・宿場の景観を未来の子供たちに引き継いで行くために、住民憲章を作り「売らない・貸さない・壊さない」の3原則を守り景観保存と伝統的な屋根葺きの技術習得、継承に全員で取り組んでいます。大内宿は店舗兼住居となっており、営業時間は各店舗により異なります。天候や各家都合により営業時間が早まる、もしくはお休みの店舗もあります。



麻生大橋は、河沼郡柳津町の只見川に架かる全長201.7m、支間長126mの中央径間に鋼桁、側径間にPC桁構造を採用した吊り橋です。耐候性鋼材、亜鉛メッキ・ステンレス鋼を使用し維持費軽減を図っています。1988年の完成と同時に只見川最後の渡しが幕を閉じました。



只見川は、尾瀬ケ原を源流とし阿賀川と合流する川で、奥只見ダム、田子倉ダムを満たします。イワナ、ハヤ、フナなどが釣れます。また、只見川沿いの国道252号やJR只見線からもすばらしい景色を見ることができます。特に紅葉時期が見事です。

 

会津川口駅からほど近くの、只見川の水面の先に広がる大志集落を望む風景は「大志俯瞰」と呼ばれ、晴天時は山々と集落が只見川に反射する美しい水鏡の絶景が見られます。ゆったりと流れ、大きくカーブを描く美しい風景と、初夏の川霧、秋の紅葉は最高です。只見川と銀山川が合流するところには淵(かわの深いところ)があり、この場所がウグイにとっては最高の住みかとなっています。ウグイは国指定天然記念物で、春から秋にかけて見ることができます。

 





 

道の駅尾瀬街道みしま宿奥会津の玄関口として観光客の最初の休憩地点となっています。地元の特産品の展示販売はもちろん、美坂高原そばや会津地鶏料理などが食べられます。只見川と山あいの集落を望む絶景を持ち、四季折々の風景を楽しむことが出来ます。またJR只見線の名物である橋梁を一望できるビューポイントの近くであり、多くのカメラマンが訪れるところでもあります。



猪苗代湖は、日本では4番目に大きな湖で、面積は約103平方km、深さは約93mあります。猪苗代湖の特長は透明度12~の澄んだきれいな水で、湖に注ぐ長瀬川が火山性の酸性水であるため、水質は弱酸性の貧栄養湖となっていて、水中の植物や藻があまり繁茂していないことに要因があります。そのため漁業といえばウグイやフナなどに限られています。国指定天然記念物のミズスギゴケ群落や白鳥の飛来地として貴重な生態系を保有する区域に指定されています。猪苗代湖は「会津若松市、郡山市、猪苗代町」の二市一町にまたがる湖です。

 

1876年(明治9)に現在の猪苗代町で生まれ、黄熱病の研究中に感染し51歳で亡くなった世界的医学者・野口英世の生涯と業績をわかりやすく展示しています。体験型の展示もあり、細菌の世界を遊びながら楽しく学べます。館内には野口英世の生家も保存されており、やけどを負った囲炉裏や、上京する際に決意を刻んだ床柱などがそのまま残されています。母シカが英世に宛てた手紙や野口英世ロボットなども見どころです。