四方山見物42



 

「伝説の谷鬼無里」は、裾花川の源流域に沿ってひろがる、周囲を山々に囲まれた谷の都です。鬼の無い里・きなさという地名の由来は諸説ありますが、広く知られているのは、遷都計画を阻むために鬼が築いた一夜山の話と鬼女紅葉伝説です。ほかにも、木曽義仲ゆかりの物語や、かつて湖の底だったことを示す舟繋ぎの木の存在など、多くの言い伝えが残っています。戸隠との境に近い中田地区の十二神社には、「舟繋ぎの樹」と呼ばれるケヤキの木があります。鬼無里は昔、湖の底にあり、十二神社の南西、直線距離で7.5km離れた飯縄神社(現小川村飯縄山頂)とを結ぶ渡し船を繋いでいたそうです。ある時、虫倉山と新倉山の間で山崩れがあり、現在の国道406号、銚子口トンネルのあたりから湖の水が流れ出て、湖底=現在の鬼無里が姿をあらわし「水無瀬」と呼ばれるようになりました。湖底から現れた山のひとつが鬼無里神社の近くにある「魚山 」だと言われています。十二神社の紋章は帆かけ船で、鳥居を波よけの鳥居と呼ぶのもこの故事からきています。684(天武13)年頃のこと、天武天皇が(信濃国に)遷都を計画し、三野王(みぬのおう)や采女臣筑羅(うねめのおみちくら)たちを調査のために派遣しました。鬼無里に住む鬼たちは、それを邪魔するために一夜で山を築いてしまいました。



怒った天武天皇が鬼たちを退治したので、水無瀬という地名が鬼のいない里『鬼無里』になったという伝説が残っています。鬼たちが一夜で築いた山は一夜山と呼ばれ、今は初心者向けの登山コースになっています。また、加茂神社や春日神社は三野王との関わりがあったとされ、白髯神社は天武天皇が鬼門の守護神に創建したと伝えられています。いまから千年以上前の平安時代、源経基の寵愛を受けた紅葉という美しい女性が京の都から流され、この地にやってきました。紅葉は、東京、西京、二条、三条などの名をつけて都を偲び、人々に都の文化や読み書き、医術などを伝えて暮らしていました。ところが、いつしか兵を集めて山賊を仲間にし、力づくでも都に上ろうと考えるようになりました。人々は紅葉を鬼女と呼ぶようになり、それを知った京の朝廷は平維茂に討伐を命じ、紅葉は33歳で命を落とします。以来、水無瀬と言われていたこの地は、鬼のいない里「鬼無里」と呼ばれるようになりました。いまも鬼無里には、東京、西京など京にちなんだ地名や紅葉が暮らした内裏屋敷跡が残っています。松巌寺は、紅葉の菩提寺として「地蔵院」を建立し供養したことが始まりと言われ、毎年9月に鬼女紅葉まつりが行われています。境内には「紅葉の墓」といわれる石塔や、紅葉伝説にひかれて当地を訪れた川端康成の文学碑も残されています。源義仲(通称:木曾義仲)は、平家討伐のために木曽から北上し、北陸に向かう途中の1183(寿2)年に鬼無里を通過したと言われています。その際に義仲は守護仏の大聖智慧文殊菩薩像をこの地に預けました。その後、鬼無里に戻ることなく没したため、仁科城主(現・大町市)仁科盛遠が建てて菩薩像を安置したお堂が、現在の土倉文珠堂です。

 

義仲の死後、家来たちが義仲の第二子力寿丸をかくまうために逃れたアブキ(岩屋)は、奥裾花に「木曽殿アブキ」として残っています(現在は道が悪く、行くことができません。)鬼無里に残っている今井姓、樋口姓は、義仲の家来たちが定住したものだと伝わっています。鬼無里を含め、小川村や長野市の中条、信州新町、七二会、芋井、戸隠の山間地は古くから「西山」と呼ばれています。戦国時代の1543(天文11)年、武田信玄が信濃に侵攻。西山地域で勢力があった古山城(現・小川村)当主の大日方氏は降伏を決めますが、長男の金吾直経だけが抗戦を主張し、弟たちに謀殺されてしまいます。直経が身を投げて命を落としたとされる裾花川の「金吾淵」が今も残り、そばには直経を祀る「金吾廟」があります。武田氏が滅びた時、当主・大日方つく房がまだ幼かったため、木曾義昌が鬼無里を松本源丞と保科清助に預ける旨の朱印状を1573年(天正元年)に書いていますが、上杉景勝の北信濃侵攻で約束は反故になり、鬼無里は上杉の支配下におかれました。1995(平成7)年、鬼無里と小川村の大日方一族の子孫が400年ぶりに交流し、一族繁栄の犠牲になった直経の霊を慰めようと行った合同鎮魂祭にあわせ新築しました。

 

鬼無里の地名の由来は、一夜山の鬼伝説、鬼女紅葉伝説などがありますが、歴史文書に最初に登場した「鬼無里」という地名は、武田信玄が重臣に宛てた書状のなかにあります。1557(弘3)年、上杉謙信との川中島の戦いの前後に出されたもので「鳥屋城(現・長野市七二会)の敵が増強され、鬼無里に夜襲をかけるかもしれないとの報告があったので調べ、鬼無里への道筋の様子も見届けて報告せよ。あわせて鬼無里や鳥屋城への道筋の絵図を作成し持参するように」と書かれており、鬼無里が上杉軍との戦いの要所だったことがわかります。この書状は現在、長野市立博物館に所蔵されており、信玄自筆のものとしても非常に貴重な資料です。また、戸隠神社宝物館に残る「戸隠山顕光寺流記」には、「奉 常燈一灯、油料木那佐山一所」という記述がありますが、ここ以外に「木那佐」と記された文書は残っておらず、詳細はわかっていません。

 

山居上人は江戸時代中頃に虫倉山麓の鬼無里、小川、中条などで木食行(木の実や山菜を主食として読経や作仏をする)をした僧です。1655(承応4/明暦元)年生まれで、13歳のときに奉公先の子を誤って死なせてしまい、罪を償うため松本念来寺の空幻明阿上人の弟子となり出家。その後、虫倉山中の岩窟にこもり、鉈などで仏像を刻み続け、ひたすらに祈りの人生を送りました。 1698(元禄11)年には小川村高山寺観音堂の修復に尽力し、1703(元禄16)年には仏像一万体彫刻の大願を成就。 晩年は大町市弾誓寺で住職となり、1724(享9)年に入定(即身成仏)しました。現在、鬼無里では約60体ほどの木食仏(山居仏)が残されています。荒削りで朴訥な小さな仏像は一体一体表情が異なり、そこには静かながらも様々な感情が浮かんでいます。鬼無里では親しみを込めて仏像そのものを“サンキョさん”と呼んでいます。安土桃山時代の文禄年間(1593~1596年)頃から生産されていた麻は、青金引麻の名で善光寺周辺や松代城下をはじめ江戸へも売られていました。江戸時代の1765(明和2)年、吉郎右衛門が江戸で麻糸を加工して畳糸にする技法を持ち帰り広め、明治初年には寒冷積雪地の不利を逆手にとった寒ざらしの手法が考案されました。

 

光沢の良い寒ざらし畳糸は氷糸の商標で高値で売買されたので、当時の鬼無里村では95%の農家が麻を栽培し、その半分が畳糸に加工されていました。第二次世界大戦後の1950年代頃までは盛んだった麻栽培ですが、1960年以降(昭和30年代後半)の化学繊維の進出で価格が下落し、さらに大麻に含まれる有毒成分が問題となり、長野県では栽培が禁止され、麻の栽培が終わりました。村の記録によると1960(昭和35)年の鬼無里での麻の作付面積は1950(昭和25)年当時の半分以下となり、1965(昭和40)年は、わずかに6000平方メートルと記録されています。標高が高く稲を作るのが難しかった江戸時代、鬼無里では蕎麦、栗、稗を栽培して干ばつや冷害に備え、木炭、麻糸、和紙(鬼無里紙)を作りました。江戸~明治の頃は塩の道と善光寺や戸隠をつなぐ要所として多くの人馬が往き交い、良質な麻の産地として毎月9回(1・2・8・11・12・18・21・22・28日)、九斎市と呼ばれる定期市が開かれていました。1683(天和3)年に松代藩から開設が許可された当初は1ヶ月に6回の六斎市でしたが、安永9年(1780)に「九斎市」になりました。

 

現在、7月15日から1週間執り行われている祇園祭は九斎市の名残です。寛政6年(1794)鬼無里村萇畑に生まれた寺島数右衛門宗伴は、別家の庄屋寺島半右衛門陳玄より宮城流の和算を学び、後に松代に出向いて町田源左衛門正記から最上流を学び免状を得ました。宗伴はさらに謡や折形、生け花、礼法、囲碁などを習得し、これらを鬼無里の人に教え、時には善光寺平、越後、松本平などに出向いて教授しました。宗伴の門人は900人にもおよび、門人は宗伴顕彰の碑を2つ建立しています。一つは、一之瀬の旧鬼無里東小学校に建つ算子塚、一つは松巌寺境内の五輪塔です。宗伴は明治17年2月2日90歳で大往生し、遺骨は前述の五輪塔と萇畑の生家墓地に納められました。明治5年(1872)の学制頒布で、数学に西洋数学が導入され、それまでの日本の数学は和算と呼ばれるようになりました。和算は高次方程式や平方根を駆使して図形問題を解析するなど、西洋数学に匹敵するレベルにありました。江戸初期の和算家関孝和らが円周率を高い精度で算出していたことはよく知られるところです。江戸時代は、各地でそれぞれの流派があり、関孝和の流れをくむ関流と激論を戦わせたのが最上流の会田安明で、信州松代藩では町田源左衛門正記らが安明から最上流を学びました。

 

鬼無里ふるさと資料館に展示された祭屋台と神楽の見事な彫刻。それはすべて北村喜代松(三代正信・1830(天保元)~1906(明治39)年)が彫ったものです。越後市振村(現・糸魚川市青海)の宮大工建部家に生まれた喜代松は、18歳頃から鬼無里を訪れ、諏訪神社の屋台、鬼無里神社屋台、加茂神社の神楽などの製作に加わりました。喜代松はその後、鬼無里出身の北村ふさの婿となり、鬼無里との縁をより深いものにします。喜代松の長男直次郎(四海・1871(明治4)~1927(昭和2)年)は、日本の大理石彫刻の第一人者。早くから父の彫刻を継ぐ決心をかため木彫を修得しましたが、大理石彫刻へ転身。独学で大理石彫刻を試み、フランス留学も果たします。1907(明治40)年には東京勧業博覧会で審査への不満から自作を会場で破壊、撤去して話題になりました。四海の姉の子虎井広吉(正信・1889(明治22)~1980(昭和55)年)は、祖父喜代松のもとで彫刻を学び、14歳の時、四海に呼ばれて上京、太平洋画学校に学びました。20歳で四海の養子となり、5代北村正信を襲名。正信の女性像は健康的な逞しさとおおらかさに満ち、芸術環境の成熟の中で正信がのびのびと腕を奮ったことがわかります。



信州善光寺は、一光三尊阿弥陀如来(善光寺如来)を御本尊として、創建以来約千四百年の長きに亘り、阿弥陀如来様との結縁の場として、また民衆の心の拠り所として深く広い信仰を得ております。当寺は特定の宗派に属さない無宗派の寺であり、全ての人々を受け入れる寺として全国に知られますが、現在その護持運営は大勧進を本坊とする天台宗と、大本願を本坊とする浄土宗の両宗派によって行われています。御本尊の一光三尊阿弥陀如来とは一つの光背の中に三尊(中央に阿弥陀如来、両脇に観世音菩薩、勢至菩薩)が配置された様式で「善光寺式阿弥陀三尊像」とも呼ばれます。

 

『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来は、インドから朝鮮半島百済国へとお渡りになり、欽明天皇十三年(552)、仏教伝来の折りに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれております。この仏像は、仏教という新しい宗教を受け入れるか否かを巡る崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられました。その後、信濃国国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へとお連れし、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642)現在の地に遷座されました。皇極天皇三年(644)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられました。

 

草創期を語る史料は残念ながら善光寺には残っていません。しかし、発掘史料や史書などから、いにしえの善光寺の姿をうかがい知ることはできます。大正十三年(1924)と昭和二十七年(1952)には、境内から白鳳時代の川原寺様式を持つ瓦が発見され、7世紀後半頃には、かなりの規模を持つ寺院がこの地に建立されていたことがわかってきました。平安後期にあたる12世紀後半に編纂された『伊呂波字類抄』は、8世紀中頃に善光寺の御本尊が日本最古の霊仏として京の都にも知られていたことを示す内容が記されています。また、10世紀後半は、京の貴族を中心に浄土信仰が盛んになった時期でもありました。こうした浄土信仰の隆盛とともに、善光寺聖と呼ばれる僧が御本尊のご分身仏を背負い、縁起を唱導して全国各地を遍歴しながら民衆の間に善光寺信仰を広めました。

 

鎌倉時代になると、源頼朝や北条一族は厚く善光寺を信仰し、諸堂の造営や田地の寄進を行いました。善光寺信仰が広まるにつれ、分身仏として御本尊の模刻像が多く造られ、全国各地にはそれをお祀りする新善光寺が建立されました。現在の「前立本尊【まえだちほんぞん】」は鎌倉時代に作られました。鎌倉時代には多くの高僧の帰依も受けました。東大寺再建の勧進聖として有名な俊乗坊重源をはじめ、浄土真宗の宗祖・親鸞聖人、時宗の宗祖・一遍上人なども善光寺に参拝し、ご仏徳を深く心底に感得されました。今も各宗高祖が善光寺を訪れた名残を見ることができます。

 

戦国時代は本尊流転の時代と言われます。この時代では、時の権力者らによって本尊像は翻弄されることとなりました。善光寺平(現在の長野市がある平野部)では武田信玄と上杉謙信が信濃の覇権を巡り、川中島の合戦を繰り広げました。弘治元年(1555)、武田信玄は御本尊である一光三尊阿弥陀如来像や多くの什宝、寺僧に至るまで、善光寺を組織ごと甲府に移しました。その武田家が織田・徳川連合軍に敗れると、御本尊は織田家、徳川家の祀るところとなり、最後は豊臣秀吉が京都・方広寺の御本尊としてお祀りしました。そして、秀吉の死の直前、善光寺如来様がその枕元に立たれ、信濃の地に戻りたい旨をお告げになりました。それによって善光寺如来像は慶長三年(1598)、四十数年ぶりに信州善光寺にお帰りになられました。

 

戦乱の時代に巻き込まれ、善光寺をはじめ門前町全体が荒廃を余儀なくされました。しかしその後、江戸幕府開府に伴い、徳川家康より寺領千石の寄進を受け、次第に復興を遂げて参りました。泰平の世が続き「一生に一度は善光寺参り」と多くの人々が参拝しました。念仏を唱えて一心に祈る者は性別・身分を問わず、誰であっても極楽浄土に導いて下さると、一貫して無差別平等の救済を説く寺院として知られていました。そのため、女性の参拝者が多いことが善光寺参りの特徴でした。当時の参拝の様子を描いた絵馬にも、女性の信者の姿が数多く描かれています。



善光寺の歴史は、度重なる火災の歴史でもありました。火災後の再建に掛かる資金の多くは、御本尊の分身仏である前立本尊を奉じて全国各地を巡る「出開帳」を行い全国の方々からいただいた浄財によって賄われました。特に最後の大火となった元禄十三年(1700)の火災は、焼失前に既に計画されていた本堂移築用の資材も全て焼失してしまうものでした。その後、現在の本堂を再建するために全国各地で五年間の出開帳を行い、寄進された二万両を越す浄財によって宝永四年(1707)現在の本堂を落成し、続いて山門、経蔵などの伽藍が整えられました。

 

近代を迎え、交通網の発達とともに参拝者は増加し、今日では年間約600万人もの方々がこの地を訪れます。平成十年(1998)2月に行われた長野冬季オリンピックの開会式では、善光寺の梵鐘が世界平和の願いを込めて全世界に向けて響き渡りました。平成二十二年(2010)ダライ・ラマ法王14世が来寺し世界平和を祈ると共に砂曼荼羅の開眼をされました。この砂曼荼羅は同時にご寄贈いただいた仏像と共に史料館に安置されています。平成二十三年(2011)に発生した東日本大震災の復興支援やその後の台風被害などの自然災害の折には、祈りの場として多くの人々が訪れる場となりました。特に陸前高田市はおやこ地蔵を介してのご縁が結ばれ今も交流が続いています。

 

善光寺にはおよそ千四百年という長い歴史がありますが、その多くは市井に暮らす人々の思いと共に作られてきた歴史でした。今後も仏教伝来より続く善光寺信仰は、多くの参拝者により支えられ未来へとつなげられています。長野県長野市にある「善光寺」。数えで七年に一度盛大な儀式を行う「善光寺前立本尊御開帳」でも有名なこのお寺は、毎年多くの参拝者でにぎわっています。善光寺までのアクセスは、車の場合、上信越自動車道を利用して長野IC・須坂長野東ICから約40分。電車の場合は、東京から北陸新幹線を使ってJR長野駅まで約1時間30分、名古屋からも中央線特急を利用すればJR長野駅まで約3時間で到着します。JR長野駅から善光寺までは、善光寺口バスロータリー「1番のりば(善光寺方面行き)」発の路線バスをご利用ください。(長野駅→善光寺大門、所要時間約15分、運賃190円)善光寺大門のバス停から善光寺本堂までは、徒歩5分程度です。

 

「一光三尊阿弥陀如来」(善光寺如来)を御本尊とする「善光寺」。創建から約1400年、特定の宗派には属さない無宗派の寺として、全国から訪れる人々を受け入れてきました。特に江戸時代には「一生に一度は善光寺参り」と言われるほど、多くの人が参拝に訪れたとされています。入口にある大きな門は「仁王門」です。正面には阿形像と吽形像、背面には三宝荒神と三面大黒天が安置されています。いずれも近代彫刻家として著名な高村光雲・米原雲海によって作られました。これらの像は100年後も変わらない姿でいられるよう、あえて着色されておらず、建立当初は白色だったとか。経年によって現在の黒ずんだ姿になったようです。門をくぐる際には、時の流れを感じる4体の像にも注目しましょう。仁王門をくぐり「仲見世通り」とよばれる通りを過ぎて、現れるのは「山門(さんもん)」です。本堂の正面に建つこの大きな門は、江戸時代中期の1750年(寛延3年)に建立され、国の重要文化財に指定されています。門の上層部は閲覧可能なので、上に登って本堂や仲見世通り、仁王門など、眼下に広がる景色を堪能しましょう。

 

また、正面に掲げられている額(通称:鳩字の額)には「善光寺」の3文字の中に5羽の鳩が隠れています。ぜひじっくり見て5羽探してみてください。山門をくぐった先にある「本堂」は、創建以来何度か大きな火事に遭いましたが、現在の建造物は1707年(宝永4年)に再建されました。人間の煩悩の数とされる108本の柱で造られています。江戸時代中期を代表する仏教建築として、1953年(昭和28年)には国宝に指定されました。本堂の内部は、外陣、内陣、内々陣の3つに分かれており、御本尊の「一光三尊阿弥陀如来」は、内々陣のもっとも奥にある「瑠璃壇」に祀られています。絶対秘仏とされているため、残念ながら姿を見ることはできませんが、「お戒壇めぐり」をすることで、ご本尊と直接ご縁が結ばれるといわれています。「お戒壇めぐり」とは、御本尊の真下を通る暗い通路を進み、暗闇の中で「極楽の錠前」という鍵を探ること。この錠前がご本尊とつながっているため、それに触れることでご縁が結ばれるそうです。

 

また、本堂を入ってすぐの場所には、自分の体の悪いところと同じ箇所を撫でることで、そこを癒やすとされている「びんずる尊者」の姿が。気になる部分がある人はなでておくと良いかもしれません。境内の「授与品所」や「御朱印所」では、御守やお札、おみくじの頒布を授かることができます。中に収められている御札が浮かんでみえる「五色守」(薄型カードタイプ800円)は、財布に入れて持ち歩くのにぴったりのサイズ。5色それぞれに意味があるので、願い事に合わせたカラーを選びましょう。表に人気キャラクター「リラックマ」が描かれた「リラックマ守」(600円)は子どもに人気。裏には「善光寺」の文字が書かれており、黄色、ピンク、黄緑の3色から選べます。「善光寺」の文字が書かれた「御朱印」(頒布価格500円)は「御朱印所」でいただくことができます。善光寺境内を描いた専用台紙に、本堂・山門・仁王門・ 経蔵・忠霊殿の御朱印をしたためた「諸堂限定御朱印」(頒布価格各500円)は、各お堂の参拝者だけに授けられる限定品です。仁王門以外は各諸堂の参拝券が必要、紙札での授与となります



長野県小県郡の青木村を走る国道143号線沿いにある道の駅です。周辺には、四季折々の景観を呈する青木三山に囲まれ、自然に満ち溢れています。敷地内の「あおきふるさと体験館」では、そば打ち体験やおやきづくりの体験をはじめ、自然体験や農業体験をすることができます。「あおき農産物直売所」には、地元で収穫されたばかりの野菜や、きのこ、りんご、巨峰などの特産品が並びます。そば打ち体験やおやきづくりの体験をはじめ、自然体験や農業体験ができます。「あおきふるさと体験館」では、そば打ち体験やおやきづくりの体験ができます。

 

上田市と松本市を結ぶ国道143号沿い、体験施設やレストラン、直売所から成る道の駅です。体験型施設のふるさと体験館では、そばやおやきを地元のインストラクターから教わって作ることができます。道の駅の直売所は、山で採れた山菜や松茸、キノコなど、青木村ならではの食材を販売しており、シーズンになると全国から多くの利用者が訪れます。青木村産の松茸は近くにあることがわかるほど香りが強く、香りが良いと好評です。食堂 味処こまゆみでは、青木村でのみ栽培されている「タチアカネ」そばを提供しています。軽食 戀渡屋では、爽やかな甘酸っぱさのある青木村特産コンパラソフトや、マスコットキャラクターアオキノコちゃんを象ったアオキノコちゃん焼きが人気です。

 

標高1500メートル、梓川沿いに開けた「上高地」は江戸期までは人跡未踏の秘境でした。明治末期にシンボルの河童橋が架橋され、大正期には焼岳の爆発で大正池が誕生しました。昭和8年以降に山岳リゾートホテルが開業して現在の上高地が形作られました。一方、「乗鞍」は高原エリアから山頂エリアへと車道が整備され、日本アルプス3000メートル級の山にもっとも楽に登れることで知られています。開発を進めた一方で、「上高地」「乗鞍山頂」ともに自然環境を守るためのマイカー規制を実施しました。どちらも目的までバス・タクシーへの乗り換えが必要となりますが快く協力しましょう。

 

北アルプスに抱かれた日本屈指の山岳景勝地の上高地は、梓川上流に穂高連峰、下流に焼岳を眺められ、大正池の湖面に映る山々の美しさは毎年多くの観光客をひきつけます。また、残雪の乗鞍岳を背景に白い清楚な花が咲き誇る美しい乗鞍高原です。2つの自然豊かな地で気分をリフレッシュできます。大正池と明神池の中間地点にあたる河童橋は、まさに上高地のシンボルです。梓川に架かる吊り橋の向こうに穂高連峰を一望する絶好の撮影ポイントでもあります。年間135~140万人が訪問する上高地は、長野県、岐阜県、富山県にまたがる北アルプスの南部に位置します。東京・新宿駅からは松本駅に出てアルピコ交通上高地線(ローカル線)に乗り換え、新島々駅からシャトルバスに乗る。東京から片道4時間以上もかかりますが、その不便さが“秘境”へ趣く気分を盛り上げます。自動車の場合もマイカー規制のため、さわんどか平湯温泉の駐車場に車を預けてシャトルバスかタクシーで上がります。シャトルバスの終点・上高地バスターミナルに到着したら、まずは帰りバスの手配をしましょう。

 

上高地バスターミナル発の新島々行きと乗鞍高原・白骨温泉行きバスは、乗車券のほかに「乗車整理券」が必要です。窓口で乗車券を購入あるいは提示して、乗車日と乗車時間を申告すると無料発行してくれます。とくにハイシーズンはバス乗車待ちの行列ができますが、乗車整理券が有れば出発10分前に集まればよいです。途中のバス停から乗車も可能ですが、混雑時は乗れない場合もあります。上高地バスターミナル発からの乗車を心かげましょう。上高地の定番トレッキングコースは2つあります。上高地バスターミナルから5分ほどの河童橋を境にして、梓川の下流にある大正池を往復するコースと、上流の明神池を目指すコースがあります。初心者には比較的平坦な道のりで、絶景ポイントも多い大正池往復おすすめです。起点となる河童橋は長さ36.6mの吊り橋で、上流側には穂高連峰と明神岳、下流側に焼岳が望める事ができます。ここから散策コースは宿泊施設が集まる右岸コースとカラマツ林が続く左岸コースに分かれ田代橋で合流します。右岸コースではウェストン碑に注目。明治26年(1893)に外国人で初めて北アルプスの前穂高岳に登頂したイギリス人宣教師で、「日本アルプスの登山と探検」を出版し日本アルプスの名を世界に広めました。



田代橋から上高地自然研究路を抜けると田代湿原に出ます。木道を歩くと視界が開け、湿原越しの穂高連峰が望めます。さらに木道を進むと田代池があり、樹林の中にほっかりと開けた池で、霞沢岳が顔を覗かせます。サワグルミ、ハルニレの林を抜けて、白い砂礫の道を過ぎるといよいよ大正池に到着です。大正4年(1915)に焼岳の噴火で泥流により、梓川がせき止められ誕生しました。立ち枯れの木々が水面に映える幻想的な光景は、いくら見ても見飽きることがありません。河童橋からは往復2時間の距離ですが、脚力に自信がない人や、明神池まで足を伸ばしたい人は大正池バス停で降りて、河童橋を目指すと良いでしょう。

 

長野県松本市のR158の前川戸トンネルを抜けて直ぐの所にある落差10mの滝ですが、平湯から乗鞍高原へ向かう場合の方向転換する場所にあるため道路脇に駐車が可能です。少し奥まった所に落ちているため見落としてしまいそうな滝ですが、水の流れは綺麗でした。落差は約10mで水量はは適度、滝単体としてそれなりの見応え感があります。ただ、マイナス要素として国道脇という立地のため、絶え間なく車の往来があり落ち着いて眺めることができないのが残念です。逆に言えば誰でも気軽に観ることが出来ますので、ちょっと立ち寄れるのに便利です。専用の駐車場はありませんが、すぐ横に路肩&滝の対向に折返し所があります。



現在、ダムができて水没した本来の親子滝はもう見ることはできなくなっています。今見えている国道脇の親子滝はその三つの滝の内の一つの上流にあたる無名滝であったと思われます。昔のダムができる前の3つの滝が並んだ親子滝とは違うのです。昔、バス乗車のガイドをされていてダムができる前の当時を知る方にお話を聞くことができました。ダムができる前、バスは険しい崖を登り下りして奈川渡~前川渡~上高地へと行く、途中、親子滝の前を通過するときにはバスを止めて滝のガイドをしたのだそうです、親子滝は谷底を走る道路から見上げる滝だった、そしてバスガイドの説明する観光ポイントだったんだと感慨深く語られました。現在は本来の親子滝の上流にあたるこの滝を親子滝といいます。



松本城の北隣に鎮座する神社です。ルーツは松本城主・松平康長の子である虎松(松平永兼)を祀っていた暘谷大神社で、寛政9年に今宮八幡宮と片宮八幡宮、天保2年には共武大神社と淑慎大神社を勧請して合祀し「五社」となり、昭和28年に五社が若宮八幡宮を合祀したのを機に現在の松本神社となりました。このことから現在でも地元では五社と呼ばれいます。御神木は大欅で、境内ではなく表の道路の中央分離帯に立っています。松本神社は、昭和28年(1953年)に五社と若宮八幡を合祀して名称が松本神社となりました。今回の指定物件は、そのほとんどが五社のものです。五社は、戸田家初代の大名になった戸田丹波守康長と正室徳川松姫との間に生まれ、病弱で若く没した松平孫六郎永兼の霊(暘谷)、戸田家の遠祖一色兵部少輔の霊(神号片宮)と戸田宗光の霊、松平丹波守康長(共武)と正室徳川松姫の霊(淑愼)の五柱の神を合祀した神社です。

 

松本城の城主は、6家23人がその任に当たりましたが、この間、何度か時代の大きな波に洗われました。例えば初代石川氏は改易という大きな処罰を受けました。水野家も断絶は免れたもののその危機に遭遇し、家臣は離散し城下は荒れて文化は衰退しました。特に戸田家に至っては幕末明治維新の洗礼を受け時代の波に翻弄されました。とりわけ明治初年の廃仏毀釈により、松本城下はもとより、藩領一円にわたって寺院の破壊が行われ、仏教文化は荒廃しました。こうした歴史の流れのなかにあって、今日、わずかではありますが、松本神社に伝わっている宝物は、松本城主と深い関わりがあるもので、貴重な文化財といえます。松本神社は寛永13年(1636)に明石藩(兵庫県明石市)2代藩主松平丹波守光重が明石城の城内に叔父である虎松(松平孫六郎永兼・松平康長と松姫の子供)の御霊を勧請して創建したのが始まりとされます。

 

松本神社の前身である暘谷霊社は江戸時代初期に松平光重によって創建された神社です。祭神の1柱である松平庸直は戸田氏嫡流である松平康長の3男として生れ、長兄永兼と次兄忠光が亡くなった事から嫡子となり寛永9年(1632)に康長が死去した事で家督を相続し松本藩主に就任しています。寛永10年(1633)に播磨明石藩に移封となり、寛永11年(1634)に江戸から上洛途中の東海道鈴鹿関で死没、嗣子が無かった為、末期養子として甥の松平光重(次兄松平忠光の嫡男)が家督を継ぎ、事無きを得ました。光重が家督を継いで数年後、明石城で夜な夜な妖怪が出没し悪事を働く事から、巫女に占わせると、幼少で亡くなった叔父である虎松(松平孫六郎永兼・松平康長と松姫の子供)が祟り、明石城の城内に祭れば守護神になると出た為、戸田松平家の祈願所である弥勒院に社を設けて祭ったのが始まりとされます。

 

当初は新宮と称していましたが、元禄11年(1698)に暘谷霊社に改め、享保11年(1726)に後裔である松平光慈が松本藩に入封する際、松本城内である当地に遷宮し、さらに第6代藩主松平光行が寛永9年(1797)に三河国田原(現在の愛知県田原市)から片宮八幡宮(祭神:一色義遠)、今宮八幡宮(祭神:戸田宗光)を勧請合祀、天保2年(1831)には7代藩主松平光年が共武大神社(祭神:松平康長)と淑慎大神社(祭神:松姫)を合祀して五社と呼ばれるようになりました。

 

藩主縁の人物が祭られていた事から家臣達も篤く信仰し、境内には寄進奉納された盥盤や石灯籠などが建立され信仰の篤さが窺えます。松本神社は創建以来、神仏習合し戸田松平家の祈願所である弥勒院(真言宗)が別当寺院として祭祀を司ってきましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令と廃仏毀釈運動により廃寺となっています。大正3年(1914)に松本城の内堀の傍らに鎮座し松本城鎮守社だった若宮八幡宮(松本城を築いた島立貞永)を境内に遷座、これを機に社殿の向きが西から南向きに改められ、昭和28年(1953)に社号を松本神社に改めています。松本神社は特に縁結びの神として信仰され現在でも多くの参拝者が訪れています。



片宮八幡宮の祭神である一色義遠は三河守護職一色義範の子供で、義遠の跡を継いだのが戸田松平家の遠祖とされる戸田弾正左衛門尉宗光である事から信仰の対象になったと思われます。今宮八幡宮の祭神である戸田弾正左衛門尉宗光は三河・尾張に版図を広げた、戸田氏中興の祖とされる人物で一色氏を強制隠居させ養子になる事を画策し正当性を得ると大きく勢力を拡大しています。共武大神社の祭り神は上記の松平庸直。淑慎大神社の祭神である松姫は徳川幕府初代将軍の徳川家康の養妹で戸田康長の正室、本来跡継ぎである永兼を産んだものの24歳の若さで死没しています。

 

諏訪地域の東端、八ヶ岳と赤石山脈(南アルプス)北端の入笠山に挟まれた、標高900-1400メートルの高原地帯に位置し、山梨県と県境を接しています。富士川水系と天竜川水系の分水界があり、富士川の上流で甲六川が富士見町と北杜市小淵沢町の白州町地区の境目にある国道20号(甲州街道)の新国界橋の橋の下で釜無川に合流します。富士見町南部で立場川が合流した後、南東方向に宮川が北西方向に流れていき最終的に諏訪湖へ注がれます。標高が高いため、夏は冷涼で、冬の寒さは厳しいです。ケッペンの気候区分では亜寒帯湿潤気候に属します。

 

長野県の玄関口である富士見町は雄大な八ヶ岳、南アルプスの入笠山に抱かれた高原の町です。 年平均気温は10℃程度で、夏は避暑地として涼しく過ごすことができます。八ヶ岳や南アルプス、富士山を眺めながら、四季折々の景色が楽しめます。東・西にそれぞれ連なる山々に挟まれた地形ですが、遠くに富士山を望めることから「富士見」の名が付きました。 昭和30年、富士見村、本郷村、境村、落合村が合併し、この4ヶ村からも共に日本一の富士山を望めることから「富士見町」の名称となりました。生活圏の標高は700~1,200m、夏は冷涼な気候で避暑地になり、冬は寒いですが、太陽光が降り注ぐ高い晴天率を誇ります。八ヶ岳や南アルプス、富士山を眺めながら、四季折々の景色が楽しめます。周辺にはペンションや別荘地が多く、週末には多くの利用者でにぎわいます。

 

富士見町( 長野県諏訪郡 )は、長野県の南東、山梨県との県境に位置しており、東に八ヶ岳、西に南アルプス、北に中央アルプス・北アルプス、そして、南に富士山と、日本有数の山々が見渡せる抜群のロケーションに位置しています。富士見町の歴史は古く、縄文時代の遺跡が多く確認されており、"井戸尻遺跡" として国の史跡に指定されています。また、山梨県との県境 "蔦木宿" は江戸から43番目の宿場として栄え、今もその保存活動が行われています。富士見町は、文人や歌人にも広く愛されていました。特に"アララギ"の歌人たちによってしばしば歌会などが開催されていた他、詩人・尾崎喜八、井伏鱒二や田宮虎彦、唐木順三など多くの作家たちがこの高原の地に別荘を構えました。近年、豊かな自然や都市部との交通アクセスの良さから、日帰り登山やトレッキング、また、Uターン・Iターン、田舎暮らし、新規就農、子育てなどで注目を集めています。