四方山見物46

 



 

現在の大分空港には、国内定期便が羽田、成田、伊丹、中部に毎日24便就航しているほか、国際定期便がソウル、プサン、ムアンに就航しています。航空旅客数は年間約200万人にのぼり、おんせん県おおいたの空の玄関口として重要な役割を果たしています。大分空港の現状の課題は、県中心部である大分市から 空港までのアクセスと考えられ、国内の他空港と比較すると著しく時間を要する状況となっています。また、陸路 しかないため、事故や天候不良(大雪など)等による道路 交通網のトラブル発生時の対応が課題となっています。

 

旧大分空港は、大分駅から北東に2.8kmほど離れた、同市内のほぼ中心に位置していました。 旧空港は1938年、旧大分海軍航空隊基地としてこの地に開設、1957年には国内線空港として供用をスタートしました。空港が現在の位置へ移転となったのは、立地的に滑走路の延長が不可能だったためとされます。旧空港の滑走路の長さはわずか1080mでした。現在の大分空港は3000m滑走路なので、その3分の1です。旧空港は滑走路の両端を大分川・裏川に挟まれ、市街地に近すぎるという地形上の問題があったほか、当時大分地区に臨海工業地帯を作る計画が進んでおり、空港の存在が工業地帯を構成する企業の高炉建設に支障することから、現在地への移転が決定されました。

 

日出町から杵築市へ向かう海沿いの道を通っていると、左手、小高い山の上に見えてくる天守閣があります。杵築市のランドマークとして建つ杵築城です。杵築城は1394年、室町時代の初期に豊後の国を治めた大友氏の家臣である木付頼直氏によって八坂川の河口にある台山の上に築かれました。北は高山川、東は守江湾という天然の要塞に囲まれた城です。築城当時は城主である木付氏の名からと木付城と命名されていましたが、1712年、幕府朱印状に誤って「杵築」と記されたことがきっかけとなり、杵築城になったのだそうです。また戦国時代には大友氏と島津氏の戦いの場にもなった杵築城です。



大群で攻めてきた島津氏の猛攻撃になんと2ヶ月もの期間耐えたことから別名「勝山城」とも呼ばれているほか、地形が牛が臥した形に似ていることから、「臥牛城(がぎゅう)」とも呼ばれています。築城されて以降、震災や天災などで天守が崩壊。1608年の落雷により消失するも、その後再建されました。また城主は前田氏、杉原氏、細川氏、小笠原氏とコロコロ変わりながら、江戸時代、松平氏を最後に「一国一城令」により破却されました。現在の天守は1970年に建築された模擬天守と言われるものですが、一部石垣のみが現存しています。2020年の3月には、城の建物構成や構造がわかる重要な遺産であることから、城郭があった台山地区の城跡と藩主御殿跡が国の史跡に指定されました。

 

風情ある三層の模擬天守閣は、全国各所にある名だたるお城と比べてもとってもコンパクト!日本で一番小さなお城としても親しまれています。杵築城の中は歴史資料館となっています。奥へ進むと、1、2階は杵築城周辺の古地図や、兜、江戸時代に作られた駕籠、幕府に献上したという豊後梅の壺に刀剣など、様々な歴史的価値のある資料や遺品が展示されています。これらの展示を見るだけでも十分楽しいのですが、やはり杵築城一番の見どころは天守からの景色です。3階まで階段を上ると、見えてくるのは杵築市街地や、守江湾、そして天気がよければ国東の山々まで。天守はぐるりと一周回ることができるので、東西南北のパノラマビューを楽しむことができるのです。遠くには城下町にある歴史ある武家屋敷の姿や情緒ある雰囲気も見ることができます。

 

別府市は、九州の東北部、大分県にあり、温泉地として有名です。別府湾と火山帯の間に位置し、二千以上の温泉に恵まれています。鉄輪温泉には、栄養分豊富な温泉、泥湯、砂風呂が揃っています。市内 8 か所(6 か所は鉄輪、2 か所は柴石にある)の「地獄」と呼ばれるスポットを巡る別府地獄めぐりでは、迫力ある源泉を目の当たりにすることができます。西にある鶴見岳へは、ロープウェイで上がれます。

 

別府市は、九州の北東部、瀬戸内海に面した大分県の東海岸のほぼ中央に位置し、阿蘇くじゅう国立公園に属する由布・鶴見岳の麓で裾野をなだらかに別府湾へと広げる扇状地特有の地形により、緑豊かな山々や高原と波静かな別府湾に囲まれた美しい景観を誇り、大地から立ちのぼる「湯けむり」は別府を象徴する風景として市民はもちろん観光客からも親しまれている歴史と文化あふれる国際観光温泉文化都市です。



また、市政のさらなる飛躍・発展のため、地域資源である別府の歴史・伝統・文化・産業を磨き別府の誇りを創生する取り組みを推進しています。本市は、豊富な温泉、美しく特色ある自然や景観、国際色豊かな大学、充実した医療・ 福祉、発信力のある文化・芸術などのイベント、そして、多様な人材など、魅力ある資源 を豊富に有している。 それらの資源が国際観光温泉文化都市という特性をいかし、本市が 育んできた多様性と受容性の礎となっている。今日の別府の地名は、 荘園時代に新開地の開墾、 領有に際して必要とされた免符である 「別符」 が 「別府」 と書かれるようになり、 これが地名となったものであると言われています。

 

市内には、別府八湯と呼ばれる8つの温泉エリアが点在し、毎分約10万2千リットルを湧出する温泉は、医療、浴用などの市民生活はもとより観光、産業などにも幅広く活用され、古くから日本を代表する温泉地として賑わっています。人口は、県内では大分市につぎ2番目となる約11万4千人ですが、市内には約3,000人の留学生が勉学に励んでおり、日本でも有数の異文化あふれる国際交流都市としても成長を続けています。



また、市政のさらなる飛躍・発展のため、地域資源である別府の歴史・伝統・文化・産業を磨き別府の誇りを創生する取り組みを推進しています。本市は、豊富な温泉、美しく特色ある自然や景観、国際色豊かな大学、充実した医療・ 福祉、発信力のある文化・芸術などのイベント、そして、多様な人材など、魅力ある資源 を豊富に有している。 それらの資源が国際観光温泉文化都市という特性をいかし、本市が 育んできた多様性と受容性の礎となっている。今日の別府の地名は、 荘園時代に新開地の開墾、 領有に際して必要とされた免符である 「別符」 が 「別府」 と書かれるようになり、 これが地名となったものであると言われています。

 

大分県別府市は県東部中央に位置する人口約11万人の市です。東に面した別府湾を除き周囲は自然豊かな山間部に囲まれています。源泉数と温泉湧出量が日本一の温泉の街で、市内に全部で8つの温泉があることから「別府八湯」と呼ばれています。入浴だけでなく、お湯の色が真っ赤な温泉や真っ青な温泉、泥の噴出する温泉など様々な温泉が見られる「地獄めぐり」が人気で、散策におすすめです。この他、山間部には街を一望できる「鶴見岳」や、人気の遊園地「城島高原パーク」などもあります。 鉄道はJR日豊本線が街の沿岸部を走ります。一般バス路線も運行しており、市街地の西側に大分自動車道も通っているため車での移動も便利です。

 

別府湾周辺に住む人々の間では、およそ400年前、地震とそれに続く津波によって、別府湾に沈んだ瓜生島の話が語りつがれてきました。しかし、それを裏付ける史的資料が十分でなかったため、学問の対象として真面目にとりあげられることはほとんど無く、瓜生島沈没は伝説の域を出ませんでした。ところが、面白いことに、自然科学者の間ではこの事件が事実として認められ、たとえば、わが国で出版されている自然科学のデータ集としてもっとも定評のある「理科年表」には、このことが記載され続けてきました



こうした状況の下で、加藤知弘大分大学教授を中心に結成された瓜生島調査会の活動を通して、「津山氏世譜」などの新史料が発掘され、瓜生島伝説は岡藩の飛び地・沖の浜港の消滅として装いを新たに蘇ることとなりました。しかし、一級とされる史料が欠如していることに変わりはなく、文献学的調査法の限界が明らかとなりました。これを打開し新たな展開を求めて、自然科学的手法による調査が計画され、1977(昭和52)年に湾底の地層を調べるための音波探査機ユニブームが導入されました。これを用いての調査の目的は次の二つでした。①別府湾底に埋没しているであろう沖の浜港の痕跡の探索。②別府湾一帯の地下構造の解明。このうち②は、事件を引き起こした地震の発生と深く関係しています。すなわち、原因(地震)と結果(沖の浜港消滅)に、両面から迫ろうとしたわけです。

 

大分・別府湾にかつて、南蛮貿易で栄えた島があったと云います。だが慶長元年(1597年)、大地震で一夜にして沈み、島に住む700人が亡くなったと伝わっています。島があったとされる場所は、大分川河口の西大分港付近です。江戸後期の史料によると、東西約4キロ、南北約2キロの島で約1千の家が軒を連ねていました。1977年、瓜生島に興味を持った大分大の加藤知弘教授(故人)が「瓜生島調査会」を結成し、海底調査を行いました。そのメンバーだった京都大名誉教授(地球熱学)の由佐悠紀さん(76)は、「砂州があり、満潮になると陸から離れ、干潮になるとつながる島だったようです」。

 

今から約1200年前、貞観九年正月、鶴見岳噴火と共に出来た熱泉のひとつが海地獄です。水面が海のようなコバルトブルーに見えることからその名が付けられるようになりました。温度は約98度あり、泉脈まで深さは200メートル以上と言われています。泉質は酸性、水面が青く美しく見えるのは、温泉成分に“硫酸鉄”を多く溶解しているためです。

 

噴気(蒸気・ガス)や熱湯、熱泥が吹き出す自然湧出の源泉を周遊する「地獄めぐり」。そのなかで1,300年前の鶴見岳の爆発によって誕生し、湯の色が海の色に見えることから「海地獄」と名付けられたコバルトブルーの池は、神秘的ですが実は摂氏98度もある熱湯地獄です。雄大な別府の景観に映える迫力満点の噴気が訪れた観光客を楽しませてくれます。「地獄めぐり」を代表する最も敷地の広い遊覧施設で、日本一の大鬼蓮や源泉かけ流しの足湯、温泉たまごや地獄蒸し焼きプリンなど、別府ならではの恵みも満喫できます。



地獄めぐり内で、源泉湯でゆでた旨味たっぷりの温泉たまごを食べられるのは「海地獄」だけです。一方、山地獄やかまど地獄は、噴気で蒸した「蒸したまご」です。また、卵、牛乳、砂糖だけを使用した名物「地獄蒸し焼きプリン」は濃厚な味が人気です。施設内では、アマゾン地方原産の大鬼蓮(おおおにばす)や熱帯性睡蓮を栽培しています。日本一大きいといわれる大鬼蓮の花は専用の温室で育てられ、最も大きくなる夏のみ池に浮かべられます。お盆の3日間は、20kgまでの子どもが大鬼蓮に乗ることができるイベントも開催しています。

 

鶴見岳・伽藍岳の東麓の扇状地に広がる別府温泉は、日本有数の温泉地として知られており、その温泉は、鶴見岳・伽藍岳の地下のマグマが熱源と考えられています。別府温泉では、地中から吹き出る熱湯、熱泥、噴気などを間近で見られる場所もあり、国内外の観光客の人気を集めています。なかでも別府は数多くの温泉が湧出していることでは日本一の温泉です。別府湾一帯から、九重・阿蘇を経て島原半島を含む広大な地域は、地盤が沈む地溝帯で、この地溝を中心に約3万年前に活性化した火山活動は地熱温泉活動をもたらしました。

 

この火山活動により別府の地形には、二つの大きな断層が生じています。別府は、海あり山あり高原ありの環境、高速道路も鉄道も航路もあるアクセスの良さのほか、食材の豊富さ、温暖な気候など非常に好条件の立地に、世界第一位の源泉数、第二位の湧出量を誇り、「パーフェクト」とか「理想的」と形容したい温泉地です。別府温泉は、8世紀初頭に編まれた「伊予国風土記」のなかではじめて登場します。 鎌倉時代には療養所が作られた記録が、江戸時代には温泉場のにぎわいの記述があります。

 

1000年以上前、別府温泉の地は噴気・熱泥・熱湯などが一気に噴出したことで、近寄ることができない嫌われた土地でした。人々は、この土地を「地獄」と呼んでいたとされています。 そのことが由来となり「地獄温泉」と呼ばれるようになりました。おそらく私たちの身近な温泉や、地熱地域各地で見られる地獄のような噴気地、あるいは活発に噴煙を上げる火山のように、地表で見られる活動を想像されるでしょう。地下にある高温のマグマは、長い時間をかけて地下水を加熱して対流を起こし、やがて地表にも噴気地や温泉を作るようになります。

 

大分県別府市及び由布市にまたがる鶴見岳・伽藍岳は、南端の鶴見岳(標高1375m)から北端の伽藍岳(標高1045m)まで約5㎞にわたって溶岩ドームが連なる火山群です。有史以降では、伽藍岳が771年に水蒸気噴火を起こし泥流が発生、867年の水蒸気噴火では泥流、噴石、降灰などがあったとされています。その後、長い間噴火はありませんでしたが、1949年に鶴見岳の標高1100m付近で多数の噴気孔が出現し、高さ約10mの噴気を上げているのが発見された。1974年から翌年にかけては、同じ地点で高さ約100〜150mの噴気が上がり、周囲には小噴石が飛散しています。



ここでは現在も噴気活動が続いています。1995年には、伽藍岳の珪石採掘場跡にある噴気孔が次第に大きくなり、やがて土手の高さ約1m、火口の長径約10m、短径約7m、深さ約4mの楕円状の泥火山※を形成、現在も活発に噴気を上げています。鶴見岳・伽藍岳の東麓の扇状地に広がる別府温泉は、日本有数の温泉地として知られており、その温泉は、鶴見岳・伽藍岳の地下のマグマが熱源と考えられています。別府温泉では、地中から吹き出る熱湯、熱泥、噴気などを間近で見られる場所もあり、国内外の観光客の人気を集めています。(※泥火山とは、地下からガスや水とともに砂泥が噴出し、地形的高まりを作る現象です。火山と関係のない油田地帯などでも見られます。)

 

血の池地獄は日本で一番古い天然の地獄で、一言で表すなら「赤い熱泥の池」です。地下の高温、高圧下で自然に化学反応を起こし生じた酸化鉄、酸化マグネシウム、などを含んだ赤い熱泥が地層から噴出、堆積するため池一面が赤く染まります。豊後風土記に“赤湯泉”と記された、日本最古の天然地獄「血の池地獄」です。これぞ地獄と言うに相応しい煮えたぎる熱泥は、噴き出される蒸気まで赤く染めています。地獄から噴出する真っ赤な粘土で作られる“血の池軟膏”は、血の池地獄だけで販売されており、湿疹ややけど等の皮膚病によく効くとお土産に人気です。平成21年には、龍巻地獄、海地獄、白池地獄と共に、国の名勝に指定されました。

 

1300年以上前から存在し、日本で最も古い天然の“地獄”といわれる「血の池地獄は、ひと言で表現するなら“赤い熱泥の池”です。奈良時代に編纂された『豊後国風土記』には、「赤湯泉」の名で登場しています。広さは1300平方メートル、深さは30メートル以上、温度は摂氏78度で、酸化鉄や酸化マグネシウムを含んだ赤い熱泥が噴き出しています。発見当時は、赤湯泉や赤池などと呼ばれていましたが、仏教思想の地獄観に基づいて“血の池地獄”と呼ばれるようになりました。



 

大分県別府市大字野田にある、温泉が湧出する池。JR日豊本線亀川駅の西南西・約1.5kmにあります。池の浅瀬に堆積した沈殿物が“赤い血の色”に見えるので、この名で呼ばれるようになりました。国の名勝に指定されています。血の池地獄は、かつてはたびたび爆発を起こし、周囲の山にも被害をもたらしていたと云います。その後、爆発を防ぐために池のかくはん作業を行うようになり、爆発は起こらなくなりました。近くには、血の池の源泉からそのままひいた掛け流しの足湯「血の池足湯」もあります。

 

最初の記録は、8世紀前半に編纂された『豊後国風土記』の速見郡の項に登場します。漢文で書かれていますが、その現代語訳を以下に掲げます。赤湯泉郡役所の西北にあります。この湯泉の穴は郡の西北の竈門(かまど)山にあります。周囲は15丈余り、湯の色は赤くて泥があります。これを使って家屋の柱を塗ることができます。泥は流れて外に出てしてしまえば、変じて清水となり、東の方に下って流れます。それで赤湯泉と云います。15丈=約45mです。字句の通りでは、現在の大きさより小さいですが、一辺15丈なら、ほぼ同じです。



また、江戸時代の“絵入り百科事典”と言われる『和漢三才図会(寺島良安著)』の「巻 第56 山類」の「地獄」の項に、日本の地獄として、山頂から噴煙をあげる10カ所の火山が挙げられ(そのひとつは鶴見岳)、番外的に「赤江地獄」の名称で以下のように紹介されています。(現代語訳)豊後(速見郡野田村)に赤江地獄というのがあります。十余丈四方に真赤な湯が血のように流れて谷川に入りますが、まだ冷えきっていない処にも魚がいて、いつも踊り游いでいいます。また、一つの不思議であります。(注)現在とほぼ同じ大きさです。

 

池を上から見ると、一辺が約45mの“三角むすび”の形をしています。当時の図中の曲線群は、1976年8月に測られた等深線で、実線は2m間隔で描かれていますが、一番浅い点線は1m深、池底近くの点線は25m深を表しています。このように、池の東半分は浅いテラス状になっていて、赤色沈殿物はここに溜まっています。これに対し、中央から西半分はロート状の深い穴になっていて、その最深部(26m深)付近から高温の熱水が湧き上がっています。1976年8月の測定では、136.8℃でした。



日本屈指の温泉地として知られる大分県別府。色や泉質が奇妙な温泉を地獄に見立て、それらを見てまわる「地獄めぐり」は観光の定番です。8カ所ある地獄のうち、一番歴史が長く、日本最古の温泉と言われているのが、ご覧の血の池地獄です。赤く染まっているのは、酸化鉄や酸化マグネシウムを含んだ赤い熱泥が、地層から噴出し堆積しているためです。深さは30メートル以上、湯温は約78度。発見された当時は「赤湯泉」、「赤池」などと呼ばれていましたが、仏教が伝来すると、地獄と呼ばれるようになったのだそうです。

 

お湯がグラグラと煮えたぎる様子こそおどろおどろしいですが、赤い熱泥が昔から皮膚病の薬として重宝されたり、軟膏として限定販売のお土産になったりするなど、地元にしっかり恩恵をもたらしています。源泉からそのまま引いた掛け流しの足湯もあり、訪れる人にとっても、ここはけっして地獄ではなさそうです。園内には無料で楽しめる足湯があり、入浴ついでに10円玉を磨いてみると、化学反応でピカピカになります。まさに温泉効果を実感できるだろう。血の池地獄のお土産としておすすめしたいのは、地獄の粘土で作られた皮膚病薬「血の池軟膏」です。殺菌効果が高く湿疹やかゆみなどの皮膚トラブルに効果的で、リピーターも多いと云います。また、映える写真を撮りたい人は、血の池軟膏売り場左の階段を登ると地獄全体を一望できるスポットがあります。国の名勝に指定された絶景を楽しめます。

 

藤と言えば日本古来の花木と言われ、万葉集にも歌われています。その日本を代表する原種・野田藤、色ごとに、うす紅、むらさき、白と順に藤色が移りゆきます。最後は日本では栽培が難しいと言われているきばな藤(マメ科キングサリ属)が見頃を迎え、1ヶ月以上も藤の花がお楽しめます。樹齢160年におよぶ600畳敷の大藤棚3面と世界でも珍しい八重の大藤棚、庭木仕立ての藤、80m続く白藤のトンネル、きばな藤、そしてスクリーン仕立ての藤、夜には池に映る水鏡の藤と、息を呑むほどの美しさです。移送の上、植栽した当時は72㎡の藤棚は10倍以上の1,000㎡にも拡がり、世界一美しい藤と言われるほどになりました。 この生命力と美しく華やかな世界をお楽しめます。

 

血の池地獄の園内には、樹齢約250年の大藤があります。天然記念物に指定されています。幹周りは175センチ、枝面積は162平方メートル。東西12メートル、南北1135メートルの大棚です。



 

大分県別府で有名なのは温泉と地獄巡りです。メジャーな地獄ではなく、かなり小さくマイナーな地獄があります。それが坊ちゃん地獄です。別府の地獄めぐりは有名ですが、「坊ちゃん地獄」はそこには入っていない小さな地獄です。「明礬 湯の里」への階段を上がる手前くらいにひそかに存在しています。鉱泥の下からボコボコと湧き出していて、美容と健康に効能があるそうです。明礬温泉を凝縮した感じです。どろの中からボコッボコッと沸き出す温泉です。この泥は美容に良いそうです(活断層を傳って噴出する噴気で長い歳月で熟成された鉱泥は美容と健康に効能があります。)がこの地獄自体が熱湯なので触れません。

 

明礬温泉は別府八湯の中でも最も高いところにあり、最も落ち着きのある温泉地といわれています。江戸時代に明礬(湯の花)が採取されてきた山の温泉街です。大昔の住居のようなかやぶき小屋が並んでいるのが湯の花小屋で、明礬温泉の風物詩です。別府石の石垣が築かれ、湯の花小屋が建ち並び、湯けむりの立ち込める明礬温泉の景観は、鉄輪温泉とともに別府の湯けむり・温泉地景観として国の重要文化的景観に、また別府明礬温泉の湯の花製造技術は、国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

江戸時代から日本有数の湯の花の採取地として栄え、現在も入浴剤として使用される湯の花を製造するわら葺きの「湯の花小屋」が立ち並んでいます。湯の花を利用した石鹸や化粧品なども造られています。硫黄分をたっぷり含んだ温泉が豊富に湧出し、湯治向きの宿や日帰り入浴施設が山里に点在しています。「別府温泉保養ランド」の露天鉱泥湯は、美肌を求める女性客で賑わっています。「岡本屋売店」で販売する温泉噴気で蒸した「地獄蒸しプリン」も温泉みやげの名物になっています。



伽藍がらん岳東麓にあります。現在大分自動車道が温泉の近くを通りますが、かつては別府と安心院あじむを結ぶ豊前道(佐田往還)に沿った温泉場でした。別府八湯の一つで、泉質は硫酸塩泉の自然湧出泉で泉温は摂氏60~70度です。当温泉には地蔵じぞう湯・鶴寿かくじゆ湯が古くからありました。地蔵湯は弘安年間(1278~1288)に沙弥道忍(大友頼泰)が湯坪を造り地蔵像を安置したことが始まりと伝えられています。鶴寿湯は寛文年間(1661~1673)に森藩主が領内の明礬製造を巡見した時に新しく浴室を造り、鶴寿泉と命名したと伝えられています。

 

日本一の湧出量を誇る別府八湯のひとつ「明礬温泉」は、鶴見山麓にある標高の高いエリアに位置し、山間部に旅館や観光施設が集中している温泉郷です。成分の濃い泉質の湯治場や、マニアックな野天風呂も近くに点在する明礬温泉は、温泉好きにはたまらない聖地。温泉グルメやコスメも見逃せません。

 

絶景を望む大露天岩風呂からは、明礬大橋や鶴見岳、高崎山を一望することができます。敷地内には、明礬温泉のシンボルである茅葺き屋根の“湯の花小屋”が立ち並び、江戸時代から続く“ミョウバン”製造の工程を見学することができます。オリジナル商品が並ぶ売店、郷土料理が味わえるレストランなどもあり、ゆっくりと過ごせます。天然の入浴剤「薬用 湯の花」も販売しています。

 

天然の入浴剤「薬用 湯の花」の製造直売所です。敷地内には明礬温泉のシンボルでもある“湯の花小屋”が立ち並び、風情たっぷり。「薬用 湯の花」の製造工程が見学できる小屋や絶景を望む大露天岩風呂、当店オリジナル商品が並ぶ売店、郷土料理が味わえるレストランなどもあり、一日ゆっくりとお過ごせます。天然の入浴剤「薬用 湯の花」をはじめ、その成分を配合した当店オリジナルの温泉(スパ)・コスメ、大分の名産・特産品など数多くそろっています。



別府明礬温泉の湯の花製造技術は、大分県別府市の明礬温泉で江戸時代より行われている湯の花製造の技術です。この技術は、湯の花小屋という製造施設をつくり、その内部で噴気と青粘土を利用して湯の花の結晶を作り出す技術であり、製品である湯の花は薬として利用されたり、入浴剤として利用されてきました。明礬温泉は、別府市の西部に位置し、別府市野田および別府市鶴見を合わせた地域の通称で、江戸時代にはここで湯の花に灰汁を加えて煮て精製した明礬も製造されていたことからこの名があります。明礬の製造は寛文4年(1664年)に渡辺五郎右衛門によって始められたといわれ、その製品は「豊後明礬」と呼ばれ、染色、止血、皮なめし、顔料などに広く利用され、全国一の生産量を誇っていました。

 

湯の花も享保年間(1716年~1736年)には製造されていたといわれ、明治以降、安価な中国産に押されて明礬が製造されなくなると、湯の花の製造のみが続けられてきました。湯の花の製造工程は、湯の花小屋づくりと小屋の内部で湯の花を結晶化させる作業に大きく分けられます。さらに湯の花小屋づくりは小屋床の製作と屋根の製作に、湯の花を結晶化させる作業は青粘土の敷きつめと噴気の調節と湯の花のかきとりに分けることができます。これらの作業に要する人数は特に決まっていませんが、湯の花小屋づくりは数人で行う場合が多く、湯の花の結晶を作りだす作業は1人で行うこともあります。明礬温泉一帯は、地熱地帯で地下30cmほどのところに温水脈があり、随所に温泉の蒸気である噴気孔を探して、その近辺一帯60平方メートルほどをスコップや木槌を使って平らに固めて基礎とします。

 

次に噴気孔から小屋床まで土管を延ばして噴気を取り入れます。この土管の途中には噴気が抜ける穴をつけておき、取り込む噴気の量を調節できるようにしておきます。次に小屋床に縦横に溝を掘って噴気道をつけ、噴気がまんべんなく行き渡るようにします。噴気道の先には排出用の土管を設置し、ここでも噴気の排出量を調整できるようにします。さらに小屋床の表面に噴気が一定の強さで噴き出すように栗石と呼ばれる小石を敷き詰めます。最期に小屋床一面に藁を敷きつめて、その上に土を敷いて木槌などで叩いて固めます。屋根は、まず、小屋床の周囲に柱台となる石を配置し、その上に柱を立て切り妻屋根の形につくり、藁や芽で葺く。屋根の高さは高いところで4メートル程です。こうして完成した湯の花小屋の内部は、小屋床から噴気が一定の強さでまんべんなく噴き出し、内部の温湿度も常時一定に保つことができるようになっており、また雨風を防ぐこともできることから、湯の花の結晶ができやすい環境になっています。

 

湯の花小屋が完成すると、明礬温泉周辺の山から採取したギチと呼ばれる青粘土を小屋床一面に20cmほどの厚さに敷き固めます。すると、10日前後で硫酸塩の結晶、すなわち湯の花が青粘土の表面に発生します。最初に発生した湯の花は不純物が多く含まれていることから、かきとらずに木槌などで、固めます。さらに30日前後して再び湯の花が発生すると、不純物などが少ない白い部分だけを選んで左官用の鏝や木の棒などでかきとります。かきとった湯の花は通気性のよい叺に入れて保管します。不純物を含む赤や黄色の部分は再び固めたり、除去したりします。湯の花が結晶化する過程をみると、まず噴気が藁と土の層を上昇する過程で冷えて水になります。それと同時に噴気に含まれていた硫化水素や亜硫酸ガスが酸化して硫酸となり、この水に溶けこみます。それが上昇して青粘土の層に入ると、青粘土に含まれているアルミニウムや鉄と化合して硫酸塩となり結晶として表面に現れます。これが明礬温泉で湯の花とよばれているものです。

 

こうして結晶化させた湯の花をかきとると、再び湯の花が発生するまで30日前後待つことになりますが、その間も常に湯の花小屋内部の温湿度などを観察し、適宜噴気の強さを調節して温湿度を一定に保っています。小屋内部の温度は摂氏45℃くらいが適温といわれていますが、実際は経験によっています。一度、青粘土を敷き固めると長い場合は1年間ほど湯の花を摂取できますが、青粘土に含まれるアルミニウムなどの量によっては2カ月ほどで湯の花を結晶化させることができなくなることもあります。結晶化させることができなくなると、再びその上に青粘土を敷き固めます。青粘土を数度敷き固めると表面に噴き出してくる噴気が弱くなり、噴気量の調節だけでは結晶化させることができなくなることから青粘土や土、藁、栗石をすべて剥いで、小屋床から再びつくりなおし、新たな青粘土を敷く事になります。



なお、湯の花小屋の屋根も三年もすれば傷みが激しくなるため葺きかえます。また、噴気孔から出る噴気自体が弱くなった場合は、湯の花小屋そのものを解体して新しい湯の花小屋をつくります。この際、栗石などの用材は再利用することが多いです。次の湯の花の発生を待つ間は、噴気の調節や湯の花の発生具合の観察に加えて、こうした小屋床の再製作や湯の花小屋の修理・製作等にも携わることになります。