四方山見物11

 



 

出羽三山は、山形県の中央にそびえる羽黒山(414m)・月山1,984m)・湯殿山(1,500m)の総称であり、月山を主峰とし羽黒山と湯殿山が連なる優美な稜線を誇ります。おおよそ1,400年前、崇峻天皇の御子の蜂子皇子が開山したと言われる羽黒山は日本有数の修験道の聖地です。修験道とは自然信仰に仏教や密教が混じり生まれた日本独特の山岳信仰です。羽黒修験道では三山の特徴から、羽黒山は現在の幸せを祈る山(現在)、月山は死後の安楽と往生を祈る山(過去)、湯殿山は生まれかわりを祈る山(未来)と見立てられました。生きながら若々しい生命をよみがえらせることができるというその信仰は、江戸時代に庶民の間で現在・過去・未来を巡る『生まれかわりの旅』(羽黒修験道では「三関三渡の旅」と言う。)となって広がりました。

  

出羽神社は山形県の羽黒山山頂に鎮座する神社です。出羽三山は、月山、羽黒山、湯殿山の総称であり、古くから山岳修験の山として知られています。その羽黒神社参道入り口にあるこの天拝石は「この奇岩を通し天を祀ったもので、その昔修験者の行法を行った石と思われる…」とあります。蜂子皇子(はちこのおうじ)が火を灯して天を拝んだともまたこの奇石を通して修験者の行法を行ったともいわれており天拝石はもともと麓桜小路安藤太美彌宅前にあったといわれています



 

随神門より継子坂を下りると祓川に掛かる神橋に出ます。昔三山詣での人々は必ず祓川の清き流れに身を沈め、水垢離をとり三山への登拝の途につきました。朱塗りの美しい神橋は見事な浸蝕谷にかかり、向かいの懸崖から落ちる須賀の滝と相対し、その景観はまことに清々しく美しいです。滝は承応3年(1654)時の別当天宥により月山々麓水呑沢より約8kmの間を引水し祓川の懸崖に落し、不動の滝と名付けました。又、一般的には神域とは随神門と伝えられていますが、ここより山上と山麓を呼び分け、山上には維新まで本坊を始め30余ヶ院の寺院があり、肉食妻帯をしない「清僧修験」が住み、山麓には336坊の「妻帯修験」が住んでいました。



羽黒山の入口、随神門をくぐり参道に入ると、ふっと空気が変わるのを感じます。敷き詰められた石畳の階段を下れば、遠くからせせらぎが聞こえてきます。参道沿いに立ち並ぶのは、樹齢350年から500年を越す老杉。その中へ歩みを進めると、清々しさに満たされてくれます。随神門から山頂までの石段は2,446段、距離にして約2キロが羽黒山の参道です。新たに生まれ出るための産道と伝えられる山道です。羽黒山中興の祖、50代別当天宥が江戸時代の慶安元年(1648)から13年の歳月をかけて敷設しました。かつて観音菩薩を祀った由緒から石段には33個の彫り物が刻まれ、すべて探せば大願が成就するとも。山頂までは約1時間。それを見つけながら登るのも一興です。

 

 

羽黒山参道の祓川を渡って間もなく、左手の杉木立に囲まれた国宝「五重塔」の近くにあるスギの巨木で、根周り10.5m、幹囲8.25m、高さ43mに達する。推定樹齢1000年以上といわれており、スギ並木以前から生育していたものであって、羽黒山で最大にして最古の巨木です。かつて、付近にもう1株「婆スギ」があったそうですが、明治35年(1902年)の暴風で太い方が倒れ、細い方が残りました。どちらが爺で、どちらが婆か論判定まらず、残った方を「親スギ」と呼ぶ事にして決着をつけたと伝えられています。しかし、国指定の天然記念物としては「羽黒山の爺スギ」の名称で登録されました。



山地が国土の4分の3を占める日本では、山を神々が宿る神聖な場所として崇拝する山岳信仰が古くから行われてきました。平安時代になると、山岳信仰と大陸伝来の仏教や道教などの宗教が結びついた「修験道」が成立し、全国各地に広がっていきます。修験道の霊山とされる山々では、修験道の行者である「山伏」が厳しい修行を行っていてました。

 

山形県の中央部に連なる出羽三山は、代表的な霊山の一つです。出羽三山は羽黒山、月山、湯殿山、という3つの山の総称で、その歴史は6世紀末に崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が修行したことに始まると伝えられています。出羽三山では、羽黒山で現世利益を得て、月山で死後の世界を体験し、湯殿山で新たな命を得て生まれ変わるという信仰が形作られていきました。こうした信仰は諸国を巡る山伏を通じ人々に広がり、江戸時代には全国から多くの参拝者が出羽三山を詣でるようになりました。17世紀の名高い俳人、松尾芭蕉もその一人で、芭蕉は「涼しさや ほの三か月の 羽黒山」という句を残しています。

 

その羽黒山の麓に立つのが、東北にある仏塔で唯一国宝に指定されている羽黒山五重塔です。仏塔は、6世紀に中国から仏教が伝来すると、当時の都があった奈良や京都で建てられるようになり、仏教とともにやがて各地に広がりました。伝承によれば、羽黒山五重塔は10世紀に創建され、現在の塔は1372年の再建と考えられています。五重塔は、出羽三山の入口となる随神門を通り、かつて参拝者が身を清めた秡川(はらいがわ)を渡り、羽黒山の頂上へと向かう参道の脇、樹齢300年以上の杉並木の中に立っています。その高さは約29メートル、建物に色彩や装飾を施さない「素木造り」が大きな特徴です。



杉に囲まれた五重塔は、まさに自然と一体化しています。長い年月にわたって風雪にさらされた白い木肌が、素朴な美しさを生み出しています」塔は杉と欅の木で組み立てられており、木材と木材のつなぎ目には、時間が経ち乾燥するほど、しっかり縛り上げる性質を持つ藤蔓で固定されています。金属のくぎは一本も使われていません。五層の屋根は、杉の薄い板を何層にも重ねる「杮葺(こけらぶき)」という技法で葺かれています。屋根の四隅が微妙に上方に反り、軒が深く造られています。この五重塔は、風雪から柱や壁を守る深い軒を支える「組物」も特徴的です。幾つもの木材が複雑に組み合わされた組物は、塔を強固にするだけではなく、装飾的な美しさも見せています。



羽黒山周辺は冬には1メートル以上の雪が積もります。そうした厳しい自然環境に立ち続ける五重塔は、繰り返し補修が行われ、今に受け継がれています。神々が宿る山に静かに立つ五重塔は、自然と深くつながってきた出羽三山の信仰とその歴史を表すシンボルと言えます随神門から山頂まで続く2,446段、約2kmの石段があり、この石段は神社では日本一の段数を誇ります。江戸時代に羽黒山50代別当・天宥てんゆうが、13年の歳月をかけて敷設しました。山頂までは約1時間。石段には33個の彫り物が刻まれ 、すべて見つけると願いが叶うといわれています。高低差約200メートルで左右は樹齢300~500年の杉並木だ。途中には国宝の羽黒山五重塔や埴山姫(はにやまひめ)神社などがある。二の坂茶屋では、ここでしか食べることが出来ない「力餅」が楽しめます。



 

出羽三山は第32代崇峻天皇の皇子・蜂子皇子が593年に開山したといわれています。権力争いの中で、蜂子皇子の身に父と同様、蘇我馬子の毒手が及ぶのを恐れた聖徳太子が宮中を脱出することを勧めました。その勧めと協力により、密かに宮廷を遁れた皇子は各地を遍歴したのち、593年、出羽国由良の浜で神楽を舞う8人の乙女に出会いました。その乙女に促され3本足の八咫烏(やたがらす)に導かれて、老樹が鬱蒼と茂った羽黒の阿久谷(あこや)に辿り着いて修行した後、出羽三山を開山したといわれています。



羽黒山の山名は、皇子を導いた大烏に因んで名付けられたといわれ、現在の世を生きる人々を救う仏を祀り、出羽三山の中で里宮としての役割を持つことから「現在の世を表す山」といわれています。三山を巡る『生まれかわりの旅』の入り口で、西の祓川と東の立谷沢川に挟まれた海抜414mの緩やかな丘陵です。山頂に建つ出羽神社は三神合祭殿と呼ばれ、月山、羽黒山、湯殿山の三神を祀り、積雪のため冬期間参拝が困難な月山、湯殿山神社の里宮としての役割をなしています。スギ並木参道にそびえ立つ国宝五重塔を筆頭に重要文化財や史跡・名勝なども多いです。

 



 

 

羽黒山スキー場は、山形県鶴岡市にあるスキー場で、出羽庄内の羽黒山中腹南斜面にあり、地元庄内平野の人々に親しまれているファミリー向きのゲレンデ。正面に望む月山の雄大な景観が素晴らしい。レンタル、スクールも完備しています。スキー、スノーボードが全面滑走可能です。初級、中級、上級に分かれた7つのコースがあります。ちびっこゲレンデもあり、ソリなども楽しめます。ナイター設備はありません。



 

田麦俣集落は、庄内と内陸を結ぶ六十里越街道の要所であり、湯殿山信仰が盛んになるにつれて、宿場的性格を帯びてきました。このような環境の中に、この地方独特の建築様式を誇る茅葺屋根の民家がたくさん建てられるようになりました。「旧遠藤家住宅」は、かつて田麦俣集落に数多く見られた兜造り多層民家の代表的なものです。屋根の妻側から見た姿が、武者のかぶった兜の姿に似ていることから呼ばれている、「兜造り」の屋根が美しい建物であり、昭和49年4月山形県有形文化財に指定されました。鶴岡市内の致道博物館でも、移築された多層民家(旧渋谷家住宅)が見学できます。



 

開山千四百年の月山・羽黒山・湯殿山を巡る「生まれかわりの旅」は、江戸時代に「出羽三山詣」として庶民に流行しました。参拝者は山菜の「精進料理」を食べて入山し、下山後は三山ゆかりの温泉につかって俗世に戻り、地酒や旬の食材、海の幸で今を楽しむ「精進落とし」の流儀を楽しみました。この鶴岡市の旅の文化は「詣でる つかる いただきます」として今も受け継がれています。出羽三山の一つである湯殿山は生まれかわりを祈る未来の山とされて崇められてきました。中腹にある湯殿山神社は「語るなかれ」「聞くなかれ」といわれ、本宮は撮影禁止、裸足で参拝する神秘的な場所。 新緑や紅葉等、四季の変化を楽しむ登山コースとしてもおススメです。



 

 



月山は、山形県のほぼ中央に位置し、羽黒町、立川町、西川町とに境を接しています。地質的には花崗岩、第三紀層を基盤にして、月山中央火山、姥ヶ岳火山、御浜火山、湯殿山火山等々からなる複式火山です。なかでも、月山火山は規模も大きく、1500m以上の東側に火山の原形を残し、緩やかな半月型の優美な姿を形成しています。この山姿から臥牛(がぎゆう)山とか犂牛(くろうし)山ともいわれています。一方、西側は古い爆裂火口壁で、溶岩流と噴出物の重なり合った荒々しい縞模様を望むことができます。

 

弥陀ヶ原から山頂へと続く表参道の途中に小さな崖が何カ所か見られます。これは、月山火山が間欠的に噴出した溶岩流の末端にあたる所といわれています。8合目の弥陀ヶ原は溶岩台地上の広い湿地帯で、肘折コースの念仏ヶ原とともに高山植物の豊富な所として知られています。



日本海から近いため、冬の季節風は多量の積雪をもたらし、東側に大雪城をはじめとする雪田や越年雪を残します。月見ヶ原の雪田は、小型のカールのような凹地で、典型的な雪窪地形をなしています。さらに、その内部には、半月形の月食堤や階段状砂礫といった氷河周辺に発達する地形が見られます。そして、この雪が亜高山針葉樹林を極度に貧弱にしてきました。東北という位置もさることながら、月山の多雪さを物語っています。

 

山頂の月山神社には、農業の神「月読之命」を祭り、開山は崇峻天皇第一皇子の蜂子皇子とされています。山頂とはいっても目立った頂はなく、ヒナウスユキソウ、クロユリ、ハクサンイチゲ、チングルマなどが咲き誇り、神泉池をのせる広大な高原です。鍛冶小屋跡への下り口の所に松尾芭蕉「雲の峰いくつ崩れて月の山」の句碑が立っています。

 

 



7月から8月にかけては、五穀豊穣、家内安全、海上安全を願う白衣に金剛杖の道者で今でも大いに賑わっています。登拝路は、八方七口といわれていましたが、月山高原ラインの羽黒口、国道112号の六十里越街道からの姥沢口と仙人沢有料道路経由の湯殿山口が整備されています。いずれの登山口からも2~3時間の登高で容易に山頂に立てます。また、近年のレジャーブームを反映して、4月になると雪に埋まったリフトを掘り起こして、スキー場がオープンする姥ヶ岳南・東斜面や姥沢を中心に夏まで多くのスキーヤーで賑わいます。しかし、リフトで運び上げられた人々と、多雪で守られてきた植生のバランスの崩れが年々大きくなっています。

 



 



鶴岡市羽黒町松ケ岡の湿地帯に自生しているミズバショウが見頃を迎えている。ミズバショウはサトイモ科の多年草。白い花のように見えるのが仏炎苞(ぶつえんほう)と呼ばれるもので、葉が変形したもの。中心の黄色い円柱状の部分が小さな花の集合体です。ミズバショウは旧羽黒町の「町の花」で、鶴岡市と合併してからは市の「推奨花」となっています。松ケ岡の自生地には遊歩道が整備され、間近で花を見ることができます。ここ数年、花が小ぶりになっており、数年前に周囲のアシを刈り取ったことや水の流れが悪くなったことが原因ではないかといわれています。管理する認可地縁団体「松ケ岡開墾場」では、花が終わる来週から排水路の工事を行い、群生地として維持していきたいとしています。

 

 

 

大山上池・下池は、山形県鶴岡市大山にあるため池です。江戸時代に治山治水の水害対策と農業用貯水池として築造された池で、現在もその役割を果たしつつ、その美しい景観は、訪れた人々を和ませてくれます。 年間を通して2万羽を超える渡り鳥が飛来し、渡り鳥に重要な湿地であることから、2008年に国指定大山上池・下池鳥獣保護区に指定され 、平成20年に「ラムサール条約」に登録されました。また、2010年3月25日に農林水産省のため池百選にも選定された。下池の堤防にある「おうら愛鳥館」では、コハクチョウやガン・カモ類などの多くの渡り鳥を観察できます。また、下池には周囲を散策できる遊歩道も整備され、1年を通して自然の移り変わりを観察できるなど、豊かで貴重な自然を、思う存分体験できます。

 

龍王尊 善寳寺は、海の守護神・龍神の寺として全国的に知られており、四季を問わず多くの参拝者が訪れます。 境内には五重塔などの貴重な建築物が数多くあり、裏手には、二龍神の棲み家と伝えられる貝喰の池。 深い緑の中に神秘的な雰囲気を漂わせています。天保4年(1833年)に再建された龍王殿や安政2年(1855年)に寄進された五百羅漢堂、文久2年(1862年)に再建された山門、1883年(明治16年)に建立された五重塔などの諸堂のほか、菱田春草「王昭君の図」(国の重要文化財)などを保有しています。

 



神秘的な雰囲気の漂う貝喰の池は、姿を顕した二龍神が身を隠したという伝承が今も語り継がれています。時おり、急な雷雨にみまわれるなど不思議な現象もあり、1990年頃には、この貝喰の池に住むコイが人面魚のようだと話題になりました。約1100年前から続く古刹、善宝寺。本堂の裏手の山に囲まれた貝喰の池は1990年6月に突如、日本中の注目を集めるようになりました。人間の顔の模様をしたコイ、人面魚が住むと、週刊誌が取り上げると、一目見ようと観光客が殺到し、休日には1万人以上が訪れることもありました。