四方山見物53

 



那覇港は、離島県沖縄における生活物資の搬入を主とした流通港湾として、重要な役割を果たしています。港湾管理者は那覇港管理組合ですが、その施設整備において、高度な技術を要する工事は沖縄総合事務局那覇港湾空港工事事務所が直轄事業として担当しています。那覇港は、那覇ふ頭、泊ふ頭、新港ふ頭、浦添ふ頭の4ふ頭に分れています。那覇ふ頭は九州や先島との航路の拠点、泊ふ頭は本島周辺離島との航路の拠点となっており、新港ふ頭は那覇港での取扱貿物の約70%以上を取り扱う那覇港の中心であり、関東や関西なごとの航路、北アメリカとの航路などの拠点となっています。浦添ふ頭は今後本格的に整備されるふ頭で、都市型海洋リゾート施設の整備も計画されています。一方、これら4つのふ頭の一体化を図るため、泊大橋などのふ頭間臨港道路や、那覇港と那覇空港を結ぶ臨港道路の整備にも着手しています。

 

那覇港は、沖縄本島の南西端に位置し、東シナ海に面した歴史的にも沖縄唯一の要港でした。室町時代に成立した琉球王朝は、中国、朝鮮をはじめとする南方諸国との海外貿易によって栄え、県の貿易の拠点として発展して来ました。当時の那覇港内の面積は約4万坪で、三重城燈台下より屈曲しながら陸地に湾入していました。S字形で三面陸地に囲まれ、西北方向に向かって開口していました。港口は非常に狭く、幅員がわずか70メートル 程度で、水深が浅く、地質はおおむね隆起珊瑚礁で、所々に岩礁が起伏しており、大型船の出入港は困難でした。昭和年間に入ってからも、大戦までに2度の拡張工事は行われましたが、第1桟橋に4,500トン級1隻と2,000トン級1隻、第2桟橋に2,000トン級2隻が接岸できる程度でしかありませんでした。して、大戦によって壊滅的な打撃を受けましたが、昭和29年まで米軍によって港の各施設の再建が行われました。

 

ところが高度成長期に入り、港の利用が活発になり、その結果として安謝地先(現在の新港ふ頭)への新たな港の建設という革新的な計画が決定し、政府の財政的援助にも後押しされて着々と整備が進み、昭和47年の復帰時点では、埋立地に建物が建ち貨物船などによる岸壁の利用も目立ちはじめました。かくして、復帰後にはめざましい速さで港の整備が行われ、15年の間には第一線防波堤が概成し、これによって港内における航行船舶の安全性が高められ、また荷役作業も効率よく行われる様になり、港にも新たな活動が生まれるなど重要性がさらに高まってきています。復帰20年目以降になると、コンテナ貨物も至る所に数多く積み重ねられる風景も見られ、また海洋性レクリエーションなども栄んになり、港は物流だけでなく人流の機能も期待されるようになりました。新港ふ頭は旧称安謝新港と呼ばれ、昭和40年代に旧那覇港・泊港の両港における港湾の取扱能力が限界に達したことを受けて整備が開始され、現在は東京、阪神、博多などの各定期貨物船や、外貨の大型コンテナ船など貨物を中心に利用され、平良港、石垣港の先島へも定期航路が開設されています。

 

将来的には、船舶の大型化や県内で展開される諸活動の活性化にともなう物流ニーズの多様化に対応しつつ、港湾荷役の安全性、効率性をより高めるための新たな港湾施設の展開や、長期的視点に立った既存施設の再開発を行い、物流基盤の充実を図っています。那覇ふ頭は、旧那覇港の一部で、15世紀に尚巴志王が琉球三山を統一して以来、日本を始め、海外諸国との貿易港として発展しました。近代的な港としての整備は明治40年頃から始められ、第2次大戦前には1,500~2,000トン級船舶4隻が係留可能となり、戦後は米軍により10,000~20,000トン岸壁が整備されました。昭和28年に、現在のふ頭部分が琉球政府に移管されて、現在の姿となりました。現在は、軽工業品、金属機械工業品などの貨物の取扱いを中心としていますが、将来的には各施設の老朽化、陳腐化した岸壁の再開発を行い、周辺離島拠点として再編・整備を行います。浦添ふ頭は、今後予想される貨物量の伸びに対応し、特に砂・砂利、セメント、雑工業品などの外貿、内貿貨物を取扱うふ頭として整備するとともに、親しまれる港づくりのために人工海浜、マリーナ、緑地、国際交流施設等を一体的に配置することで、沖縄県の国際化に貢献し、那覇市直近の海洋性リゾート空間の形成を図ります。

 

泊ふ頭は、旧称泊港と呼ばれ、本島北部地域(山原)や久米島、座間味島、渡嘉敷島などの周辺離島との連絡港として発展し、戦後に米軍による改修を終えて、昭和29年に那覇市に移管されました。現在は、陳腐化したふ頭の再開発を行っており、効率性、安全性、快適性の高い港湾空間の形成を図リ、離島定期船と大型旅客船の発着する交流の場をめざしています。泊大橋は、那覇、泊、新港の3つのふ頭を結び、港湾取扱貨物の背後地との集散、ふ頭間の連携を円滑にするとともに、主要国道58号の混雑緩和を目的として建設されました、臨港道路の一部です。那覇港のほぼ中央にあたる泊ふ頭の入口をまたぎ、市民の親水空間としてのカラー歩道、展望バルコニー、パネル高欄を整備するとともに、パノラマの景観は県内でも名所の一つとなっています。

 

浦添第一防波堤は、外海からの荒波をさえぎり、港内の静穏を保ち、安全な船舶の航行や港湾荷役を行うための施設で、防波堤支端部は水深-30m以上と大水深となっていることから、現行の構造形式では経済的に不利となること及び、潜水作業の困難性等総合的判断から、より経済的、合理的な新しい構造形式が検討され、消波ブロック被覆上部斜面堤(斜面部スリットタイプ)に決定されています。しかし、現状では確立された設計手法がないことから、波力等の現地観測を行い、模型実験等各種の検討結果を踏まえつつ今後の手法改善を行う予定です。那覇港は、今から約500年前、中国との交易船の出発地点として開いたのが始まりといわれており、琉球王国の表玄関として、中国、東南アジア、朝鮮、日本との交易の拠点として発展してきました。現在も人流・物流の海の玄関口として発展を続けております。那覇クルーズターミナルより、徒歩約20分の圏内にはお土産店、飲食店が集まる国際通りがあります。また、壺屋焼きの窯元が集まる壺屋やちむん通り、「那覇の台所」と言われる那覇市第一牧志公設市場などの観光スポットも点在しています。南国ムードがたっぷり、国内外から様々な人・もの・文化が流入し、交流の場として賑うロマンに溢れる港です。

 

沖縄島の南西に位置し、東シナ海に面する。古琉球以来、琉球王国随一の港として沖縄島中南部や宮古・八重山など国内海上交通の要所となっていたほか、日本や中国・東南アジア諸国など海外交易の拠点ともなっていた。那覇津・那覇泊のほか、那覇川などとも称された。近代以降も沖縄県の表玄関として整備改修が進められた。一九七二年(昭和四七年)五月、独立した港湾であった那覇・泊とまり・那覇新港の三港湾が那覇港として一つにまとめられ重要港湾に指定された。九六年(平成八年)に浦添うらそえ埠頭地区(浦添市)が追加された。港の発祥については諸説あって定説はない。一三―一四世紀の英祖・察度両王統の時代とする説、一四世紀末―一五世紀の察度・尚巴志政権の時代とする説などがあります。

 

英祖・察度の浦添政権の港を牧港まちなとう(現浦添市)や安謝あじやとするか、また英祖が奄美諸島からの入貢のため泊とうまい御殿を創建したとの「琉球国由来記」の説に従って泊とするか、あるいは日本僧禅鑑が漂来したとされる那覇港とするか、さらに察度王代の後半、首里城に高世層理を建造し王都を首里に移したことから(同書)、港も那覇港となったと解するなど様々な推測が成立ちます。また海外交易に従事した職能集団(のちの久米村人)の拠点は、初めから那覇の一角の久米村くにんだであったのか、浦添近くであったのかなど、おのおのどう解するかによって判断は分れていくこととなります。

 

首里城公園は、沖縄の復帰を記念する事業の一環として、戦災によって失われた沖縄のシンボル的存在である「首里城」を復元し、貴重な沖縄の歴史・文化・観光の拠点となる都市公園を目指して、内閣府が沖縄県と協力して整備を進めているものです。首里城は約14世紀の半ばに築かれ、1429年に北山、中山、南山をはじめて統一した尚巴志(琉球王国の初代国王)が、首里城を拠点にしたと伝えられています。以来、首里城は、第1尚氏王統、第2尚氏王統と約450年もの間、王城として使用されてきました。また、首里城は琉球王国時代に中国や日本との長い交流の歴史があったため、随所に中国や日本の建築文化の影響が見られます。

 

首里城は歴史上数回の焼失と復元を繰り返していますが、1945年(昭和20年)にも沖縄戦においてアメリカ軍の攻撃により全焼しました。終戦後、首里城復元の構想が強まり、1986年(昭和61年)に国営公園として復元整備することが閣議決定されました。そして、沖縄本土復帰20周年にあたる1992年(平成4年)11月3日に正殿、瑞泉門などの復元完成により一部開園されました。2000年(平成12年)には史跡「首里城跡」が「琉球王国のグスク及び関連遺産群」の一つとして「世界遺産」に登録されました。その後も整備が続けられ、2019年(平成31年)2月に御内原・東のアザナエリアが開園し全面開園となりました。2019年(令和元年)10月31日に火災が発生し正殿等の主要施設が焼失するに至りました。政府は、火災後速やかに関係閣僚会議を立ち上げ、首里城復元に向けた検討を進め、2019年(令和元年)12月には、「首里城復元に向けた基本的な方針」、更に、2020年(令和2年)3月には「首里城復元等の復元に向けた工程表」を決定しました。この工程表に基づいて、正殿について、2022年(令和4年)11月に首里城正殿復元整備工事起工式を行い、2026年(令和8年)の復元を目指して取り組んでいます。



沖縄、那覇市の東部にある首里城は14世紀末に創建されたといわれている琉球独特の城です。首里城を中心として琉球王国が成立したのは1429年であり、1879年沖縄県の誕生により首里城の明け渡しまでの間、琉球王国が続いていたとされています。大正14年(1925年)及び昭和8年(1933年)には首里城の正殿及び歓会門、守礼門などが国宝に指定されましたが、昭和20年(1945年)太平洋戦争末期にアメリカ軍の激しい攻撃により、首里城は破壊され、ほぼ消滅してしまいました。戦後、わずかに残った遺構の上に、アメリカ統治時代の昭和32年(1957年)に園比屋武御獄石門が復元されたのをはじめとして、以後、復元作業が続けられ、平成元年(1989年)から正殿の復元に着手、平成4年(1992年)にはほぼ復元が完了し公園として公開されることになりました。なお、現在(2002年)でも一部復元作業が行われているようです。

 

首里城は1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城として栄えました。1945年の沖縄戦では、アメリカ軍の攻撃により首里城は全焼。その後、琉球大学のキャンパスとして利用されましたが、1979年に年琉球大学が西原町のキャンパスへの移転に伴い、復旧事業により1992年に正殿を中心とした建物が沖縄の本土復帰20周年を記念して復元され、世界遺産にも登録されました。しかし、2019年10月31日に発生した火災で再び首里城は焼失。現在、再建プロジェクトが進行中で、正殿は令和8年に完成予定です。首里城は、1429年から1879年まで琉球王国の国王の居城でした。王城は、琉球の政治、外交、文化の中心として栄え続けました。発掘調査の結果、首里城は14世紀の末頃までには築かれていたことが明らかになっています。首里城は、地形を巧みに活用して内郭と外郭に分けて築かれています。城壁は琉球石灰岩の切石で築かれ、その総延長は約1,080mです。城壁の高さは、6~15mにもなり、その厚さはおよそ3mです。歓会門が大手門(正門)で西側城壁にあります。城内には正殿・北殿・南殿などの重要な建物が御庭(うなー)を囲んであり、正殿は、1925年に指定されました。しかし、これらの建物群は、沖縄戦ですべて焼失し、1972年から復元整備が実施されています。

 

首里城の創建は14世紀ころと言われていますが、詳しいことは分かっていません。その後、1406年に尚巴志が琉球王国支配のための居城として以来、1879年、最後の国王・尚奉が明治政府に明け渡すまで、約500年にわたって琉球王国の政治・外交・文化の中心として栄華を誇りました。首里城には中国や日本、東南アジアなどとの交易から様々な文物がもたらされ、漆器、染織物、陶器、音楽など、琉球独特の文化が花開いたのです。1945年の沖縄戦で灰燼に帰した首里城は、1992年、沖縄の本土復帰20周年を記念して復元されました。鮮やかな朱色に彩られたその姿は、王国の歴史・文化の息吹を伝える殿堂であり、沖縄のシンボルそのものといえるでしょう。

 

歴史ブームが続き、全国のお城に注目が集まっています。そもそも沖縄の城は「グスク」と呼ばれ、本土とはまったく異なる歴史と文化で成り立っているのが特徴の一つです。グスクはかつて「御城」とも書かれ、12世紀から16世紀にかけて、沖縄の各地を支配していた「按司(あじ)」と呼ばれる豪族層が築いた城のことを指しています。沖縄本島は、1322年ごろから1429年までは「三山時代」と呼ばれ、北山・中山・南山の3つの国が支配していました。その後、勢力分布の変遷により1429年に琉球王国が成立、明治維新後の廃藩置県で滅亡するまで存在したのです。沖縄のグスクは、本土の城のように重厚な城郭はありませんが、優美で雄大な石垣を持ちます。

 

高度な石積みの技術で作られた、緩やかなカーブを持つ曲線城壁が特徴です。この複雑な曲線は、間近まで迫った敵を側面からの攻撃で撃退することが目的でした。また、本土の城のように「お堀」はありません。沖縄のグスクは大陸の宮殿の影響を大きく受けており、石垣や城壁の一部にあるアーチ状の「門」から出入りします。また、グスクによっては、門の上に楼閣状の建物が作られているものもあります。祈りを捧げる大きな広場があることも、大きな特徴といえるでしょう。かつて琉球王国が成立し、独自の文化が花開いた沖縄には、現在も県内に200から300は存在すると言われるグスクの中でも、琉球王朝の王城だった首里城は、沖縄県内では最大規模のグスクです。

 

沖縄の方言では「スイグシク」とも呼ばれる、琉球王朝のシンボル的存在です。首里城の創建は14世紀頃と推定されており、約450年間続いた琉球王国の政治の中心であり、中国との外交貿易の場として重要な役割を果たしていました。明治維新による琉球王朝滅亡後も首里城は存在していましたが、残念ながら当時の建物は1945年の太平洋戦争で破壊されました。その後、1980年代から本格的な復元が始まり、1992年に正殿などが復元され、現在は「首里城公園」として、周辺も含め一帯整備されています。

 

斎場御嶽は那覇空港から車で約50分、沖縄本島南部の南城市の知念半島に位置しています。琉球創世紀の神話として伝わる開闢(かいびゃく)伝説のなかでも特に重要な聖地として、琉球国王をはじめ沖縄の人々が長く大切に守ってきました。神域にあたる深い森の中に複数の拝所が点在し、1時間程度で見学できます。神聖な祈りの場所なので、慎んだ行動を心がけましょう。また、敷地内は滑りやすい上、石畳など貴重な遺構を傷つけてしまう可能性があるので、ヒールや厚底靴はNG。過度な肌の露出は控えた服装で訪れましょう。御嶽内では飲食も禁止されています。

 

はるか海の彼方にある神の世界・ニライカナイからやってきたアマミキヨが久高島に降り立ち、国づくりを始めたという神話が、もっとも有名な琉球開闢伝説です。アマミキヨは久高島から海を渡って沖縄本島にもやってきて、斎場御嶽をはじめとした琉球七御嶽をつくりました。さらに、玉城城、知念城などの城(ぐすく)もつくり、子孫が代々国王になったと伝えられています。斎場御嶽は久高島から近い場所にあることから、アマミキヨが本島で初めて足を踏み入れた場所。御嶽内には視界が開け、海に浮かぶ久高島を望める久高島遥拝所もあり、崇拝の対象になっています。

 

御嶽内に入る参道の入り口にあたり、かつてここから入場できるのは王府関係者に限られていました。右側に置かれた6つの香炉は御嶽にある拝所の分身とされ、中に入れない一般の人々はこの場所で祈りを捧げていました。すぐそばには木々の先から久高島が眺められる久高島遥拝所もあります。いにしえから多くの人々が拝んだすばらしい眺め!御門口から登っていくとすぐ左手に現れる最初の拝所があります。“大広間”や“一番座”という意味をもつ、神社でいうと本殿にあたる場所です。奥の巨岩に向かって拝みます。巨岩の前面には、石畳が敷かれた祈りの場(ウナー)が設けられています。最高神女・聞得大君(チフィジン)の即位式をはじめ、格式高い儀式がここで行われていました。大庫理を過ぎると参道が2つに分かれます。右手の道には後で行くので、順路通りに直進しましょう。

 

そして、行き止まりになっている場所にある拝所が「寄満」です。王府用語で“台所”を意味しますがここで調理をしたわけではなく、その年の農産物の豊凶を占ったとされています。御嶽のもっとも奥にある、見学ルートのフィナーレを飾る拝所です。巨岩が重なり合ってできた三角形のトンネルは、斎場御嶽のシンボル的存在です。あたりは緑に囲まれ、神聖で厳かな空気に包まれています。以前は観光客でもトンネルの先まで入れましたが、2022年現在は外から眺めるだけで、三庫理内は立入禁止となっています。トンネルの手前には、鍾乳石からしたたる水で吉凶を占ったとされる、シキヨダユルアマガヌビー(奥側)とアマダユルアシカヌビー(手前側)の2つの壺が置かれています。壺の中に入っているのは神聖な水で、触れることは禁じられているので注意しましょう。琉球王国の最高神女(のろ)である聞得大君(きこえおおきみ)の就任儀式「御新下り(おあらおり)」も斎場御嶽で行われました。首里城から多くの神女を従えた大行列で、途中何ヶ所かの御嶽に祈りを捧げながら訪れたといいます。



また、国家の繁栄や五穀豊穣を祈願して国王が御嶽を巡礼する「東御廻り(あがりうまーい)」の重要な参拝地でもありました。斎場御嶽にある6つの拝所の中には、首里城内の部屋と同じ名前の拝所もあり、国家との関わりの深さを示しています。斎場御嶽の入口にあたる「御門口(うじょーぐち)」から石畳の参道を登っていくと、隆起した巨大な岩があります。ここが最初の拝所で、大広間の意味を持つ「大庫理(うふぐーい)」です。さらに進むと、「寄満(ゆいんち)」があります。寄満という言葉は、琉球王府では「台所」を意味する言葉ですが、斎場御嶽においては、貿易が盛んだった当時の琉球王国に、世界中から数々の交易品が「寄せて満ちる」場所とされています。そして一番奥の拝所は22の巨岩が寄りかかってできた三角の空間が特徴的な「三庫理(さんぐーい)」。その隣には、2本の鍾乳石から滴り落ちる水を受け取るための壺が置かれています。この水は、神聖な水として聞得大君が最高神職に就任する「御新下り」などに使用されていました。

 

太陽があがる東側は、琉球誕生の神話にまつわる場所が数多くあります。その中でも久高島は、琉球の大地をつくり、人々を生み出したとされる創世神・アマミキヨが降り立った場所と伝えられ、五穀発祥の地、神の島といわれています。斎場御嶽にはその久高島からの霊力が集まると考えられ、琉球随一の聖域として崇められていました。三庫理の三角トンネルを抜けると、樹木の茂みの向こうに、東の海に浮かぶ久高島が望めます。御嶽とは、南西諸島に広く分布している「聖地」の総称で、斎場御嶽は琉球開びゃく伝説にもあらわれる、琉球王国最高の聖地です。

  

御嶽の中には六つのイビ(神域)がありますが、中でも大庫理・寄満・三庫理は、いずれも首里城内にある部屋と同じ名前をもっています。当時の首里城と斎場御嶽との深い関わりを示すものでしょう。はるかなる琉球王国時代、国家的な祭事には、なる白砂を「神の島」といわれる久高島からわざわざ運び入れ、それを御嶽全体に敷きつめました。その中でも、最も大きな行事が、聞得大君の就任式である「お新下り」でした。斎場御嶽は、琉球国王や聞得大君の聖地巡拝の行事を今に伝える「東御廻り」(アガリウマーイ)
の参拝地として、現在も多くの人々から崇拝されています。



 

ひめゆり学徒隊とは、1945年3月末、看護要員として沖縄陸軍病院に動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒222名と引率教師18名のことです。米軍の侵攻により5月末には沖縄本島の南部へ撤退しました。6月18日に突然解散命令が出され、数日の間に死亡者の約80%に当たる100名余りが命を落としました。太平洋戦争末期の1945年3月23日、米軍上陸間近の沖縄で、当時の沖縄師範学校女子部(女師)と沖縄県立第一高等女学校(一高女)の教師・生徒が看護要員として動員されました。戦後、「ひめゆり学徒隊」と呼ばれる生徒たちです。戦場で負傷した日本兵たちの看護にあたるため、15歳から19歳の少女たち222名および教師18名、合計240名が戦場の病院に送り込まれたのです。彼女たちは小高い丘の中腹に掘られた洞くつ(人工壕)を使用した戦場の病院で、負傷兵の看護や死体処理などにあたっていました。

 

戦局の悪化に伴い、5月下旬沖縄本島南部に撤退。6月18日、米軍の激しい攻撃の中、突然の解散命令で戦場に放り出されます。約3か月間で136名が命を落としました。この悲劇は、沖縄戦の悲惨さの象徴としても語り継がれてきました。1989年には、ひめゆり同窓会を母体とする財団法人(現ひめゆり平和祈念財団)によって「ひめゆり平和祈念資料館」が設立されます。ちなみに、この資料館は民間の施設で、運営の支えとなる公的資金は受けていません。ひめゆり同窓会は自ら建設資金造成のために奔走し、学徒生存者たちは展示資料づくりに力を注ぎました。同窓会のみなさんは「あのような悲惨な戦争を二度と起こしてはならない」という思いで一丸となり、資料館設立にこぎつけたのです。



ひめゆりの塔は、ひめゆり学徒隊の最後の地の一つである伊原第三外科壕の上に建てられた慰霊碑です。同壕は沖縄陸軍病院第三外科勤務の職員やひめゆり学徒隊が南部撤退後に避難した壕で、1945年6月19日朝、米軍の攻撃により、多くの生徒や教師が亡くなりました。「ひめゆりの塔」は沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒の鎮魂のために、沖縄戦の翌年1946年に建立されました。ひめゆり平和祈念資料館は、その「ひめゆりの塔」に隣接して1989年に開館した資料館です。沖縄戦に看護要員として動員されたひめゆり学徒隊の戦争体験を伝えるために、ひめゆり同窓会が設立しました。

 

沖縄戦で亡くなったひめゆり学徒227名の遺影や遺品、生存者の証言映像や手記が展示されています。また、ひめゆりの塔のそばのガマ(伊原第三外科壕)の実物大模型があり内部を見ることができます。ひめゆり学徒の戦争体験を通して、戦争の悲惨さや平和の尊さを学ぶことができる平和学習の場になっています。ひめゆり平和祈念資料館は、戦争の悲惨さや平和の大切さを後世に語り継ぐために、1989年6月23日に開館しました。ひめゆり学徒の遺品、写真、生存者の証言映像、南風原の陸軍病院壕の一部や伊原第三外科壕内部を再現したジオラマなどを見ることができます。ひめゆりの塔や資料館には、現在も多くの人が訪れ、平和への祈りを捧げています。

 

平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、海岸線を眺望できる台地にあります。公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されています。国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地であり、観光の要所ともなっています。また、休日には多くの家族連れが繰り出し、広い芝生で球技を楽しんだり、ピクニックやレクリェーションの場として利用されています。



平和祈念公園は本島南部の「沖縄戦終焉の地」糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にあります。公園整備は琉球政府時代に着手、復帰後昭和47年から都市公園として本格的な整備を進めています。公園内には沖縄戦の写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、沖縄戦で亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ「平和の礎」、戦没者の鎮魂と永遠の平和を祈る「平和祈念像」、そして摩文仁の丘の上には国立沖縄戦没者墓苑や府県、団体の慰霊塔が50基建立されています。国内外の観光客をはじめ、慰霊団、修学旅行生等が多く訪れる聖地であり、観光の要所ともなっております。また、休日には多くの家族連れが繰り出し、広い芝生で球技を楽しんだり、ピクニックやレクリェーションの場として利用されています。これら、増加する公園利用者の多様なニーズに対応した施設内容の一層の充実を図るとともに、世界の恒久平和を祈念し、平和の情報発信の機能を併せ持つ公園として整備を進めています。

 

摩文仁の丘陵地を南に望み、南東側に美しい海岸線を眺めることのできる平和祈念公園は、休日ともなると多くの家族連れがくりだし、広い芝生で球技を楽しむ等、子供達の歓声で賑わいます。“沖縄戦終焉の地”糸満に整備された広い敷地には、沖縄戦の記録写真や遺品などを展示した平和祈念資料館、国立沖縄戦没者墓苑をはじめ各県の慰霊塔などがあり、人類の恒久平和をアピールしています。1995年に除幕した「平和の礎」には、国籍や軍人、非軍人を問わず、沖縄戦で戦死した全犠牲者23万8千人余の氏名が刻まれており、戦争で失った肉親や知人の名前を探す来園者が大勢見受けられます。 平和学習で修学旅行生が訪れます。平和祈念公園の正式名称は、沖縄県営平和祈念公園。沖縄戦終焉の地となった沖縄本島南部の糸満市摩文仁(まぶに)にあります。約40ヘクタールの広大な公園内には、国立沖縄戦没者墓苑や各都道府県の慰霊塔・碑があり、戦没者への慰霊を捧げるとともに、平和の礎・平和祈念堂・平和祈念資料館などを通じて平和の尊さを体感する場所です。平和祈念公園内には4つのゾーン(平和ゾーン、霊域ゾーン、平和式典ゾーン、園路広場ゾーン)があり、そのなかでも最も多くの観光客が訪れる場所が平和ゾーンです。

 

平和ゾーンには、沖縄戦終結50周年の1995年に建てられた「平和の礎(いしじ)」や、戦没者の鎮魂と恒久平和を祈る「沖縄平和祈念堂」、沖縄戦に関する資料が展示された「沖縄県平和祈念資料館」などがあります。なかでも、「平和の礎」には、国籍や軍人、民間人の区別なく、沖縄戦などの戦没者の氏名が刻銘されており、沖縄の風土と歴史の中で培われた「平和のこころ」を感じられます。「平和の礎」は、「鉄の暴風の波濤が平和の波となってわだつみ(海神)に折り返して行く」というコンセプトで、海に面した平和の広場を中心とし放射線状に配置されています。沖縄の歴史を知る上で、決して忘れてはならない史実が沖縄戦。特に日本軍と住民が追い詰められ、悲劇の地となった沖縄本島南部には、多くの戦跡が点在しています。なかでも近くにある「ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館」とともに、沖縄戦の実相を知ることができるスポットが、「平和祈念公園」です。本土復帰50周年を迎えた今、改めて沖縄の歴史を学びに行きましょう。

 

沖縄本島南部の糸満市は沖縄線終焉の地で、この平和祈念公園は平和の象徴になっています。広大な公園の中には、沖縄平和祈念資料館、平和祈念堂があり、戦争の資料、平和への祈りが各施設で紹介されています。中央部には平和の礎と呼ばれる沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ記念碑が、海に向かって並んでいます。その先には平和の広場があり、美しい海を望む事ができます。他にも国立沖縄戦没者墓苑、各県の慰霊碑等が広大な公園内に点在しています。那覇マラソンの中継地点でもあり、その日はスポーツの祭典とばかりに、ジョガーと観客で賑わいます。多目的広場もあり、多種多様なスポーツを楽しむ事も出来る公園です。沖縄修学旅行で訪れた人も多い「平和祈念公園」は、第二次世界大戦の沖縄戦終焉地となった場所に整備された公園です。園内には、象徴的な「平和の礎」や「平和の火」、「平和祈念資料館」など追悼や平和を祈念した様々な施設があるほか、芝生広場や大型遊具など家族でゆっくり遊べる場所も多いんですよ。今回は平和学習や慰霊のためだけでなく、観光や遊びにと様々な理由で訪れることができる平和祈念公園の主なスポットや施設、園内循環EV電気バス、公共機関でのアクセス方法、無料駐車場情報まで幅広くご紹介します。

 

沖縄本島の南端部にある「平和祈念公園」は、国内外の戦没者すべての人々の追悼と、世界の恒久的な平和を祈念して整備されました。前述にもあった第二次世界大戦の沖縄戦終焉地となった糸満市摩文仁(まぶに)地区にあるため、「摩文仁の丘」とも呼ばれています。平和記念公園の中央部、海を望む断崖絶壁の高台には、波紋のように刻銘碑が並べられた「平和の礎」があります。平和の礎は、沖縄戦などで亡くなった全ての方の名前が刻まれた祈念碑。1995年6月23日、太平洋戦争・沖縄戦終結50周年を記念して建設され、国内外約25万人の名前が刻銘されています。この刻銘碑が「平和の広場」を中心に波紋のように並べられたデザインは、悲惨な戦争を風化させることなく、世界に向けて平和の波が広がるようにという願いが込められています。平和の礎中央には「平和の火」が灯されています。この「平和の火」は、3つの火が合わさったもの。沖縄戦における初の上陸地として知られる座間味村阿嘉島で採取した火に、広島県の広島平和記念公園内にある「平和の灯」、長崎県の「誓いの火」を合わせた火が「平和の火」として灯されています。



国家や人種、思想などを超越した平和を祈念して建てられた「沖縄平和祈念堂」は、園外からも見ることがきる高さ約45mある七角形の塔です。「沖縄県平和祈念資料館」は、沖縄戦時中の数々の資料展示から世界平和を考え、歴史的な教訓を学ぶ上で貴重な資料館になっています。再び戦争を起こさないためにも過去の戦争について日本人なら一度は訪れてほしい場所のひとつ。施設内には常設展示室や平和祈念ホール、子ども・プロセス展示室、ミュージアムショップなどがあります。常設展示室には、沖縄戦争を体験した方の証言映像や実物の資料が展示されていて、リアルな戦争の恐ろしさを実感...。5つの部屋に分かれており、それぞれ沖縄戦に至るまでの歴史や経緯をまとめた「沖縄戦への道」、沖縄戦を住民の視点から描いた「住民の見た沖縄戦『鉄の暴風』」、沖縄戦で住民が受けた被害を描いた「住民の見た沖縄戦『地獄の戦場』」、沖縄戦を体験した住民による証言集「住民の見た沖縄戦『証言』」、戦後の米軍占領下になってからを描く「太平洋の要石(かなめいし)」をテーマに資料が集められています。

 

「黎明之塔(れいめいのとう)」は、平和記念公園内の摩文仁岳の頂上付近にある慰霊塔。沖縄戦で指揮を執った旧日本軍第32軍司令官牛島満中将と参謀長長勇中将が祀られています。摩文仁の丘には黎明之塔のほかにも、各県の慰霊塔など約50の慰霊塔や慰霊碑が建てられています。「子ども広場」は、平和記念公園の北西部にある多数の遊具がある広場です。小さい子どもが遊べる遊具から、「命の卵」と呼ばれる巨大な遊具まであり、日中は楽しそうな子どもの声が聞こえてきます。「子ども広場」の周りは芝生で囲まれていて、ビニールシートを広げてピクニックをしている家族や、ボールを蹴ったりキャッチボールをしたりしている家族で大賑わい。家族で訪れたらぜひ子ども広場に寄ってみてください。平和そのものといった光景がそこにはあるでしょう。



平和祈念公園内は歩いても巡れますが、園内を循環しているEV電気バスを利用するとラクですよ。EV電気バスは、太陽光で充電したクリーンエネルギーで走るバス。公園案内所⇒平和の丘⇒摩文仁の丘⇒沖縄県平和祈念資料館⇒公園案内所と循環しています。9時~17時まで運行していて、運賃は大人も子供も1乗車100円。1日券はありませんので、遠くへ移動する時にEV電気バスを利用するのがおすすめです。平和祈念公園へバスでアクセスする場合、那覇バスターミナルから89番などのバスで、糸満ロータリーまで約45分。82番のバスに乗り換えて「平和祈念堂入口」で下車します。バス停すぐ北の平和記念公園入口交差点を右折。両側の駐車場を見ながら少し歩くと、次のブロック左手に平和祈念公園案内所が見えます。



糸満市は本島最南端に位置し、嘗て沿岸部の漁民は「サバニ」と呼ばれるくり舟で南洋各地まで出漁した糸満海人で知られるほか、内陸部では畑作を中心とした農業畜産も盛んな地域です。また、各地域には旧暦文化に根差した各種の伝統行事も数多く残るとともに、沖縄戦の激戦地であった事から多くの戦跡も存在しています。

 

糸満市の海は、干潮時には美しい珊瑚礁の海でイノー観察を楽しめる自然海岸です。県内有数のダイビングスポットでもあります。鎖国中の幕末に、中濱萬次郎ことジョン万次郎がアメリカから帰国する際に上陸したことから「ジョン万ビーチ」とも呼ばれています。初夏から夏にかけて、ウミガメが産卵に訪れる浜としても知られています。