沖縄自動車道(英語: OKINAWA EXPWY)は、沖縄県の名護市を起点とし那覇市に至る延長57.3キロメートル (km) の高速道路(高速自動車国道)です。高速自動車国道としては最南端かつ最西端の路線です。略称は沖縄道です。国土開発幹線自動車道の予定路線ではなく、高速自動車国道法第4条第2項に基づく高速自動車国道の路線を指定する政令によって指定された路線です。高速道路ナンバリングによる路線番号は、那覇空港自動車道とともに「E58」が割り振られています。もともと、一般国道329号のバイパス道路である沖縄自動車道(許田IC-石川IC)として建設されたもので、1987年(昭和62年)の那覇IC-石川IC間開通に伴い、石川IC- 許田IC間も同時に高速自動車国道へ格上げされた経緯を持っています。
法定路線としての起点は許田ICですが、キロポストやインターチェンジ番号は終点の那覇IC側から振られ(インターチェンジなどを参照)、那覇方向行きが上り線、許田方向行きが下り線となっています。舗装道路の骨材は基本的に現地の材料が使用されていますが沖縄自動車道で使用されている骨材は沖縄県外のものが使用されています。沖縄自動車道(那覇―許田間)は、2022年 10 月に全線開通して 30 年を迎えました。NEXCO 西日本九州支社では、この 30 周年を機会として、これまで沖縄自動車道が果たしてきた役割・ストック効果を取りまとめ、特設ホームページなどを通じてお知らせするとともに、ご利用いただいた皆さまへの感謝を込めて、「うまんちゅ感謝キャンペーン」をサービスエリアやショッピングモールで行いました(「うまんちゅ」とは沖縄ことばで「皆々さま」の意)。これについては、地元放送局および地元紙などに取り上げられ、沖縄県内の多くの方々に広く PR することができました。
特に、2022年 11 月にイオンモール沖縄ライカムで開催した” うまんちゅ感謝デー” では、親子連れを中心とした累計来場者数が約 1 万人に達し、ストック効果展示パネルの展示コーナーや道路作業車両の体験コーナー等が賑わいを見せました。本稿では、沖縄自動車道がこれまで歩んできた歴史、沖縄自動車道がもたらしたストック効果について、概説します。第二次世界大戦後、米軍政下にあった沖縄は、昭和 47 年 5 月に本土復帰が実現しましたが、道路整備が大きく遅れていたのに加え、モータリゼーションの進展により交通事情が一層悪化していました。そうした中、沖縄の本土復帰を記念する行事として「沖縄国際海洋博覧会」が昭和 50 年に開催されることが決定され、この開催にあたっての膨大な資材運搬や来場者の輸送に耐えうる高水準な道路整備が求められました。
こうして昭和 47 年 9 月、「沖縄縦貫道路(名護―石川間)」の整備方針が閣議で了承され、ルート発表、米側の同意、事業許可を得て、昭和 48
年 6 月に全線起工し、博覧会開催前の昭和 50 年 5 月に異例のスピードで完成しましたその後、人口密度が高く、政治・経済活動の中心である沖縄本島南部の那覇市等と連結してこそ本来の目的にかなうとの考えから、石川から那覇に至る南部区間については「高速自動車国道 沖縄自動車道」として整備することとなり、昭和
54 年 3 月に旧道路公団が施行命令を受け、整備が進められました。また、北部区間(名護―石川間)は、昭和 61年2月4 日高速自動車国道法に基づく路線に取り込まれた。昭和62
年 10 月 8 日、那覇―石川間の開通を以て沖縄自動車道は全線開通を迎え、人口が集中する南部地域と北部地域が連結されることで、ヒト・モノ・サービスの交流が一層促されるようになりました。
その後、昭和 63 年に屋嘉 IC が追加 IC として開通、平成 12 年 6 月 28 日には那覇空港自動車道(南風原南―西原 JCT 間(南風原道路))が一般有料道路として開通し、沖縄自動車道西原ジャンクションにおいて接続した。また、同時に
ETC の試行運用が沖縄自動車道で開始されました。平成 19 年には喜舎場スマートインターチェンジが社会実験を経て本格運用されました。縄自動車道は、開通以来ヒト・モノ・サービスの交流といった経済活動に大きく寄与し、沖縄の暮らしを支えています。昭和
62 年の全線開通以降、沖縄自動車道の利用台数は年々増加している。昭和 62 年度に約 4 百万台/年だった通行台数は、平成 28 年度には約
38 百万台/年にまで増加しており、この 30 年間で約 10 倍になりました。また、沖縄県の人口は近年も増加していますが、この人口増加と沖縄自動道の通行台数の増加には、強い正の相関があり、沖縄自動車道が地域の足となって利用されていることが伺えます。
さらに、平成27 年に行った沖縄自動車道の利用目的調査では、通勤・通学に利用しているとの回答が 34%と、西日本平均の 20%と比べて非常に多くなっており、地域の足としての利用を裏付けています。一方で、観光分野にも沖縄自動車道は寄与していると考えられます。従来の沖縄本島の観光地は首里や国際通りなどがある南部に集中していましたが、沖縄自動車道の全線開通後、北部の観光地が増加しました。また、沖縄を訪れた観光客数はこの 30 年間でおよそ 4 倍に増加しています。そして、その観光客の約6割がレンタカーを利用しており、うち 7割が沖縄自動車道を利用していることがわかっています。さらに、北部の宿泊施設収容人数が約 3 倍に増加し、本島全域に占める割合が増えていることからも、こうしたレンタカー観光客が沖縄自動車道を利用し北部の様々な観光地へと足を伸ばすことができるようになったことで、観光エリアが拡がったと考えられます。
農畜産業面では、沖縄県は、その温暖な気候を生かし、菊・マンゴー・パイナップル・さとうきび・アグー豚など、さまざまな特産品を有しており、そうした農畜産物の生産・出荷の場面でも沖縄自動車道は活用されています。例えば、沖縄の特産品であるアグー豚は、国内のみならず海外への輸出も増加するなど、ブランド豚としての地位を確立し、知名度を高めています。このアグー豚の生産・出荷の過程において沖縄自動車道を利用することで、揺れが少なく短時間の輸送が可能になり、輸送や出荷の際にかかる豚のストレスを最小限に抑えることができるようになりました。これにより、「南部で飼養した子豚を輸送→自然豊かな北部で飼養し成豚になれば南部へ出荷→南部で加工→各地へ配送」といった安定した品質の生産サイクルが構築されています。
起点となる那覇IC(南風原町)と、北部観光の玄関口である許田IC(名護市)を結ぶ延長57.3キロの沖縄自動車道路。全15カ所あるIC(インターチェンジ)、JCT(ジャンクション)からは沖縄本島の主要観光地へスムーズにアクセスできます。那覇市内の交通渋滞を避けるなら、那覇空港やレンタカーの営業所が集まる豊見城・名嘉地ICから那覇空港自動車道を利用すると便利です。沖縄自動車道と直結しており、利用料は無料です。
沖縄本島の北西部、ジンベエザメのいる「沖縄美ら海水族館」があることで有名な本部町の港「本部港」からフェリーで30分ほどで到着するのが伊江島です。遠くからでも、とんがり帽子のようなかたちの「城山(ぐすくやま)」が見えます。伊江港に到着すると、土産物屋の入るオレンジ色の建物が出迎えます。白い砂浜と青い海が美しい伊江島は、ダイビングスポットとしても人気で、4月後半から5月にかけてユリが咲き誇り、「ゆり祭り」が開かれるそうです。窓を開けて車を走らせると、伊江牛の鳴き声が聞こえたり、城山への登山を楽しむ人たちの声が聞こえたり......。こんなにのどかで自然を楽しめる島ですが、77年前にはアメリカ軍が上陸し、家ひとつ残らないような苛烈な戦闘が繰り広げられました。
島の「芳魂之塔」には沖縄戦で犠牲となった島民と軍人およそ約3500人がまつられています。疎開せず島に残った住民は約3000人といわれていますが、その半数にあたる1500人が命を落としたといいます。島をすぐ占領できると考えていたアメリカ軍が上陸したのは1945年4月16日。日本軍司令部でさえ「1日で玉砕する」と考えていたため、島の武器は乏しく、戦力差は圧倒的だったといいます。予想に反して、6日間も持ちこたえた伊江島での戦い。島の中心部には、その戦闘の激しさを体現する当時の建物「公益質屋跡」が残っています。日本兵も住民も男女問わず、手投げ弾や竹やりを手に、アメリカ兵に突撃しました。米軍側にも200人ほどの死者が出たといいます。
米軍が21日に伊江島を攻略したと宣言した後も、住民たちはガマでの集団自決(強制集団死)によって命を奪われました。島の北東部に今も残る「アハシャガマ」では、4月22日、日本兵が機雷とともに飛び込み、避難していた住民たちを含む150人が亡くなりました。「生きて捕虜になって恥をさらすな」「米軍に捕まったらひどい目に遭う」といった教育を受けていた住民たちは、避難したガマで、爆破に巻き込まれたり、親が子どもに手をかけたり家族で殺し合ったりして亡くなりました。同様の集団自決は、ほかの離島や沖縄本島のガマでも起きています。1948年8月6日には、米軍の上陸用舟艇(LCT)に積まれていた未使用砲弾などが荷崩れを起こして港で爆発。伊江島の住民たち107人が亡くなり、戦後最大の事故となりました。米軍の基地にも苦しめられました。改めて伊江島の地図を見返すと、西側には米軍演習場基地があって「立ち入り禁止」になっています。激しい地上戦を生き延びた島民は、米軍に収容されて慶良間諸島などに強制移送されました。
ソテツを食べてしのぐなど生活環境は苦しく、栄養失調や疫病で亡くなった人もいたといいます。さらに、2年ぶりに島に戻ってきた村民たちは、米軍の飛行場が建設され、家ひとつ畑ひとつ残っていない様子を目にしました。米民政府は1953年から沖縄で農民の土地を接収していきます。伊江島でも土地を奪われ、ブルドーザーで住宅が壊され、農作物が焼き払われました。畑を耕し自給自足の生活を送ってきた伊江島の人びとは、「乞食行進」として沖縄本島を歩き、島の窮状を訴えました。この動きが、沖縄の土地を守っていこうとする活動「島ぐるみ闘争」の導火線になりました。1961年には「伊江島土地を守る会」が結成され、基地のそばに「団結道場」が建設されました。
1975年に開催された沖縄国際海洋博覧会を記念して、1976年8月に本部町の博覧会跡地に設置された国営公園です。現在では沖縄本島北部の観光拠点として中心的役割を果たし、さまざまなイベントが催されています。広い敷地内にはジンベエザメが複数飼育されている沖縄美ら海水族館や、熱帯ドリームセンター、海洋文化館、イルカショーを行っているオキちゃん劇場など多彩な施設が揃っており、公園内を電気遊覧車で周遊することができます。
海洋博公園は、1975年(昭和50年)に開催された沖縄国際海洋博覧会を記念して、1976年(昭和51年)に博覧会跡地に設置されました。内閣府では、「太陽と花と海」を基本テーマとし、沖縄の気候や自然、歴史・文化を活かした公園整備を行っています。公園の3つのエリアのうち、「沖縄文化・センターゾーン」では、東南アジア諸国の海洋民族とのかかわりを示す生活用具、漁撈具等が展示されている「海洋文化館」、琉球列島古来の民家群及び民家庭園を再現した「おきなわ郷土村」、沖縄最古の歌謡集である「おもろさうし」にうたわれている植物のうち代表的な22種類を展示植栽した「おもろ植物園」等があります。
「オーシャニックゾーン」では、ジンベエザメ、マンタなど大型のサメ・エイ類を飼育している世界最大級の「沖縄美ら海ちゅらうみ水族館」、海洋博当時からのイルカショーが人気の「オキちゃん劇場」、メキシコ政府から贈られたマナティーを飼育展示している「マナティー館」、ウミガメの産卵から成長まで観察できる「ウミガメ館」、イルカの能力や人工尾びれのイルカ(フジ)を観察できる「イルカラグーン」、白砂を敷きつめた人工ビーチの「エメラルドビーチ」などがあります。「熱帯亜熱帯環境ゾーン」では、一年を通じて花を絶やすことのないよう世界的な規模の温室を設け、ランや熱帯果樹・花木等熱帯性の植物を演出展示している「熱帯ドリームセンター」、外国人に人気の「熱帯・亜熱帯都市緑化植物園」などがあります。
沖縄道を北部に向かって最後のサービスエリアがここ「伊芸サービスエリア」です。金武湾をはさんで海中道路の真っ赤な橋や平安座島、宮城島、 伊計島が一望できる展望台もあるので1つの観光名所になっています。車椅子の方や足が不自由な方が上がれるようにスロープも設置されています。伊芸サービスエリア(上り線)は日本最南端のSAです。小高い丘に位置しており眼下に金武湾が一望でき、天気のいい日は勝連半島と平安座島や伊計島をつなぐ海中道路も見ることができます。刻々と変化するエメラルドグリーンの、海の絶景のビューポイントとして、つかの間の休憩で心と体を癒してくれます。
伊芸SAがあるのは、沖縄県国頭郡金武町でです。国頭郡の読み方は「くにがみぐん」で、金武町は「きんちょう」です。ちなみに国頭郡の人気観光スポット「美ら海水族館」から那覇方面へ走れば、約1時間で伊芸SAに到着するので、ちょうどいい休憩スポットとなっています。赤瓦とシーサーという沖縄感100%の屋根 & 爽やかな青空 & 小高い丘に位置しているため眼下に金武湾が一望できるという抜群のロケーションは見事です。沖縄本島を縦断している沖縄自動車道の起点・許田[きょだ]ICから、那覇方面に向かうと最初にあるサービスエリアです。冬でも暖かくエリア内には、色とりどりの花が咲き、眼下にはエメラルドグリーンの海が広がる南国情緒あふれています。
ハイビスカス・ヤシの木など南国の花木がいっぱいのサービスエリアで、沖縄の雰囲気を満喫できます。雄大な太平洋や金武湾を眺めることができる美しい景観も評判です。体が不自由な方のための駐車スペースやトイレも完備しています。レストランには沖縄名物の沖縄そばをはじめ、伊芸ラフテー定食や島豆腐と豚肉野菜あんかけといったここでしか味わえないようなメニューがたくさんあります。屋外ではソフトクリームやサーターアンダギーなどの販売を行っています。黒胡麻のお菓子「ごまふくろう」や沖縄県のベニイモを使用した「紅いもタルト」、シークワーサーが酸味がたまりません。
ルネッサンスビーチは、沖縄本島のリゾートエリア恩納村に位置するエメラルドグリーンのプライベートビーチです。環境省が選定する「快水浴場100選」特選にも選ばれ、「ルネッサンス リゾート オキナワ」の敷地内にあります。宿泊者以外でも入場料を支払えば入場可能です。マリンスポーツが充実していて、ここでは1年を通して海水浴やシュノーケリングなど、40種類以上のマリンアクティビティを楽しめます。イルカやエイとふれあうドルフィン&フィールドプログラムもあります。初心者から本格派まで、楽しめるビーチです。
沖縄海岸国定公園に指定される本島西海岸エリアの中でも、七色に変化する海の美しさは格別です。景勝地の真栄田岬や夕暮れ時にはサンセットが望め、自然に恵まれたロケーションも魅力です。ビーチに近接するラグーンではドルフィンプログラムを実施します。これ以上ないというほど多彩なアクティビティが揃います。沖合に浮かぶニライカナイ島へも行ってみたいです。整然と並んだパラソルの美しさは別格です。ビーチ撮影は「空と海」だけの公図にしがちですが、草木や人を入れると雰囲気のある写真になります。人気のドルフィンプログラムではホテル敷地内で暮らしているイルカと一緒に泳ぐことができます。
ホテル、ルネッサンスリゾートオキナワ内にあるプライベートビーチ。環境省が選定する「快水浴場100選」の特選にも選ばれたビーチで海水浴を楽しむことができます。ダイビング、ジェットスキー、フライングジェットボード、シュノーケリングなど40種類以上のマリンプログラムが用意されておりマリンアクティビティを思う存分楽しめます。またイルカと一緒に泳げるドルフィンプログラムも開催しています。宿泊者は無料で利用できますが、一般客も有料で入場可能です。トイレ、シャワー、ロッカーなどの施設も充実しています。
沖縄本島北部西海岸のリゾートエリア恩納村の南端にあるルネッサンス リゾート オキナワのプライベートビーチは、はるか遠くに本部半島を望み、ホテルの建物の下に広がる弓状の白い砂と青い海の典型的なリゾートビーチです。沖縄海岸国定公園内に位置し、環境省選定の「快水浴場百選」では県内で3カ所しかない「特選」にも選ばれている良質の海岸です。ここではダイビング、ジェットスキー、フライングジェットボード、シーウォーク、グラスボートなど40種類以上のさまざまなマリンアクティビティを思いっきり楽しむことが出来ます。特にグラスボートは沖縄の伝統的な爬龍船(はりゅうせん)をかたどったユニークなデザインです。また、「イルカと楽しく遊びながら学べる」をテーマにしたドルフィンプログラムを開催しているので、イルカとふれあいたい人にはおすすめです。
ダイビングポイントの真栄田岬を望むことのできるルネッサンスビーチは、リゾートエリア恩納村の南端に位置する「ルネッサンス リゾート オキナワ」併設のビーチで、快水浴場百選の「特選」にも選ばれたエメラルドグリーンのビーチでは、ホテル独自のマリンメニューが約50種類楽しめます。
ダイビングポイントの真栄田岬を望むルネッサンスビーチは、リゾートエリア恩納村の南端に位置する「ルネッサンス リゾート オキナワ」内のプライベートビーチ。ダイビングやシーウォークのほか、船室が1.2m海中に沈むグラスボードでのクルーズなど50種類以上の多彩なマリンメニューが揃っています。なお、ホテル内のビーチのため、外来のゲストは施設利用料として大人3500円、小学生2500円が必要、幼児無料となっています。宝探しイベントトレジャーハンティングや水上バイクの水圧で海上へ飛び立つフライングジェットボード、上空からの景色を楽しむこともできます。
海岸線は全域が沖縄海岸国定公園に指定され、ビーチより景勝地「真栄田岬」が望め、夕刻からは地平線に沈む夕陽、満点の星空と自然を満喫することができます。年末大晦日には、カウントダウンパーティーが盛大に行われ、新年と同時に盛大に花火が打ち上げられます。透きとおる海水と七色に変化する海面、風光明媚な沖縄海岸国定公園内の恵まれた自然環境の中に位置し、美しい白い砂浜が印象的なビーチです。
また、結婚式のパレードがビーチ前で行われるなど、多彩なイベントが催されています。恩納村漁業協同組合関係者及び、ダイビングスタッフによるオニヒトデ駆除・定期的な国道58号線沿いの清掃・毎朝のビーチ清掃を積極的に行なっています。また、イルカや自然と遊べる自然体験プログラムとして「ドルフィンプログラム」や「フィールドプログラム」を開催し、環境教育をプログラムとして提供しています。
日本の最南端に位置する沖縄県には日本本土のような火山性の温泉はなく、1,000m以上の深さまで掘削し、地下深くから汲み上げるという「大深度掘削」によるものでいくつか存在しています。土岐ら(2017)によると、竹富海底温泉(竹富島、八重山地方)が沖縄で唯一火山性の温泉である可能性があり、いくつか研究論文がありますが、それ以外の沖縄の温泉に関する学術的データはほとんど存在していません。沖縄県の統計では、令和4年3月31日時点で20の源泉が確認されています。
日本の47都道府県別でみると大分県が5,102と最も多く、次いで鹿児島県が2,751、北海道2,215、静岡県2,208と続くなかで、沖縄県は圧倒的に少なく、日本で最も温泉の少ない県となっています。沖縄の温泉成分は、地下深くの地層の中に閉じ込められた太古の海水(化石海水)を汲み上げることで、海水が断層や破砕帯を通して時間をかけて地下にしみ込んだものが主です。含よう素-ナトリウム-塩化物強塩泉が最も多く5源泉、次いで、ナトリウム塩化物泉が3源泉、ナトリウム塩化物強温泉が2源泉、ナトリウム塩化物強塩泉が2源泉、ナトリウム-炭酸水素塩泉が2源泉となっています。
これら以外は、ナトリウム塩化物温泉、ナトリウム-塩化物強塩温泉、単純温泉(低張性・中性)、単純温泉(低張性・弱アルカリ性)、単純温泉、温泉法第2条の該当する温泉(炭酸水素イオンが該当)がそれぞれ1箇所ずつとなっています。沖縄の温泉の利用形態を調査分類した結果によりますと、源泉をホテル施設内に有するか、ホテル敷地内に有し、主に観光客向けに利用しているものを「ホテル付帯施設型」とし、13箇所が該当しました。単独の施設として主に地域住民や観光客にも開放して利用しているものを「独立温浴施設型」とし、3箇所が該当しました。公共施設として利用しているものを「公共施設利用型」とし、1箇所が該当しました。
高齢者の介護予防や機能維持向上を目的に利用しているものを「老健施設併設型」とし、1箇所が該当しました。スポーツクラブ内に有しているものを「スポーツクラブ付帯施設型」とし、1箇所が該当しました。これらの利用形態のほかに未利用の温泉が2箇所となっています。山田温泉は、温泉の少ない沖縄では珍しく1916年(大正5年)に海中に自然湧出しているのが発見された由緒ある温泉です。昔から薬水として地元の人に利用され、以前は「山田温泉」という旅館が存在していました。しかし、1988年にリゾートホテルが建てられ、温泉もホテルの施設の1つとして組み込まれました。
かつては日帰り入浴も可能でしたが、2008年のリニューアル以降、同ホテル内で3~4連泊以上あるいはルネッサンスフロアおよび和室スイート宿泊者しか利用することができません。沖縄で多分一番有名な温泉、山田温泉は、沖縄中部、恩納村のビーチ沿いにあるホテル、ルネッサンスリゾートオキナワの中にある温泉です。ルネッサンスリゾートホテルは、プールやプライベートビーチ、海の中の展望レストランなどある本格的なリゾートホテルで、山田スパ(温泉浴場)だけでなくタラソスパもあります。また、すぐ横の海はダイビングの山田ポイントとしても知られていて、実際潜りましたが魚も多くてきれいな海でした。特に「ニモ」のモデルのクマノミ、そのニモのパパと一緒に旅した魚のツノダシを見る事が出来ました。
ルネッサンス沖縄は、全室オーシャンビュールームのバルコニー付でエメラルドグリーンの海が一望できます。イルカと触れ合えるプログラムやスライダー付インドアプールもあり、お子様連れのお客様も施設内でお楽しみ頂けます。エントランスロビーは開放感あふれる南国の雰囲気。マリンメニューは一年中利用でき、レストランも豊富に揃ってます。リゾートステイを楽しんでいただくためのルネッサンスからのおもてなしClub Savvyは宿泊日や連泊数によってステイタスを設けてさまざまなおもてなしをご用意しています。2階にある温泉から中に入ります。入口前にはちょっとしたソファがおいてあって、休憩+待ち合わせ場所になっていました。なぜか微妙な洋風家具と、和風な温泉ムードがちぐはぐな感があります。肝心の温泉ですが、浴室内の真ん中に石張りの浴槽がひとつあり、その両側壁にシャワーが20個ほどついています。
泉質は含硫黄ナトリウム塩化物炭酸水素塩泉で、やや白濁、かすかに硫黄臭のする滑らかないいお湯ですが、循環しています。お湯もいいし、タオルやアメニティ付で、なかなかいい温泉だと思います。すいている時間を狙って入ることをお勧めします。「ルネッサンス リゾート オキナワ」は、温泉が少ない沖縄では珍しい天然温泉が楽しめるホテルです。由緒ある温泉「山田温泉」を利用できるのは、クラブフロア宿泊客と連泊すると受けられるClub Savvyのゲストのみ。一般的な大浴場のように混雑を気にせずに、プライベート空間でゆったりと癒しの時間が過ごせます。窓の外には美しい沖縄ブルーの海が広がり、時間帯によって異なる景色を眺めながらの温泉はまさに極楽。半露天風呂のため潮風を感じながら温泉に浸かれる、リゾートならではの開放感を満喫できます。女性用脱衣所には洗面台とは別に個別スペースがあり、焦らずにドライヤーやお化粧など身支度ができるのがうれしいポイントです。
温泉の少ない沖縄では珍しく大正年間に発見された由緒ある山田温泉。大正5年(1916年)に海中に自然湧出しているのを発見された由緒ある温泉。また昭和63年(1988年)にリゾートホテルが建てられ、温泉もホテルの施設の1つとして組み込まれた。 平成20年(2008年)にリニューアルし、古くより地元の人に愛されていた。以前は日帰り入浴ができたが、現在はリゾートホテル専用施設で、宿泊者のみ利用可能となっている。
第2次世界大戦前は農村地域でしたが,県営鉄道嘉手納線の終点で,農林学校,製糖工場,警察署などがあり,郡の文化・経済・教育の中心でもありました。沖縄戦の際,旧日本陸軍が建設した中飛行場は,1945年アメリカ軍に占領されて拡張され,嘉手納基地となりました。基地は嘉手納町,北谷(ちやたん)町,沖縄市にまたがる約20km2を占め,アメリカ空軍太平洋航空軍団の中枢基地となっています。
嘉手納飛行場は、沖縄県中頭郡嘉手納町・沖縄市・中頭郡北谷町の広大な面積に拡がる極東最大のアメリカ空軍基地です。嘉手納空軍基地、あるいは単に嘉手納基地と呼ばれることも多いです。1945年4月、アメリカ軍やイギリス軍からなる連合国軍が沖縄戦で旧日本陸軍中飛行場を接収し、その後さらに拡張した基地です。
嘉手納基地は、沖縄県の本島中部にある北谷町、嘉手納町、沖縄市の2市1町にまたがり、総面積は2018年3月末現在で約19.85平方キロメートルあります。米空軍基地としては極東で最大かつ最も活発な運用がなされている飛行基地です。他の米軍基地と比べると、横田基地(東京・立川市等)が約7.1平方キロメートル、厚木基地(神奈川・綾瀬市等)が約5平方キロメートル、民間空港では国内最大と言われる羽田空港(東京・大田区等)が約15.2平方キロメートル、成田空港(千葉・成田市)が約11.4平方キロメートル、関西国際空港(大阪・泉佐野市)が約10.7平方キロメートルですから、嘉手納基地の大きさが突出したものであることが判ります。
東京であれば新宿区がすっぽり収まり、荒川区と台東区の合計よりやや小さく、大阪であれば此花区とほぼ同じ広さ、中央区と浪速区、天王寺区の3区の合計よりも広い面積となります。市域でみれば、おおよそ富士見市(埼玉)、長岡京市(京都)、宜野湾市(沖縄)などの全市域と同じ面積です。嘉手納基地は、北西部の飛行場地区と南東部の居住地区からなり、飛行場地区には全長3689m、幅91mと全長3689m、幅61mの2本の滑走路が据えられています。また飛行場地区には、駐機場、エンジン調整場、消音装置、シェルターなどの軍事基地があり、居住地区には、住宅、学校、図書館、劇場、ゴルフ場、野球場、スーパーマーケットなどの施設があります。
沖縄本島中部の嘉手納町、沖縄市、北谷町にまたがる嘉手納飛行場は、約3,700mの滑走路を2本有する極東で最大かつ最も活発な米空軍基地です。第5空軍指揮下の第18航空団のホームベースとして、防空、反撃、空輸、支援、偵察、機体整備等の総合的な役割を担っています。その他、居住地区には、学校、図書館、野球場、ゴルフ場、映画館、スーパーマーケット等、多種の米軍向け支援施設があります。また、国道58号西側の嘉手納マリーナ地区は、米軍人等の福利厚生施設となっています。同飛行場は、3市町の振興開発の妨げになっているばかりでなく、航空機騒音により住民生活へ悪影響を与えています。
なお、平成8年12月のSACOの最終報告において、嘉手納飛行場におけるMC-130航空機を、平成8年12月末までに海軍駐機場から主要滑走路の北西隅に移転することが合意されたことに伴い、同年12月中旬までに海軍駐機場から約2,500m離れた滑走路北西側への移転が完了しました。そのほか、SACOの最終報告では、海軍の航空機(P-3C)についても、現在の海軍駐機場から、主要滑走路の反対側に移転することが合意されていますが、まだ実現していません。