滝沢ダムは、秩父市の大滝地域(旧・大滝村)にあります。荒川の支流・中津川をせき止めて作ったダムで、ダム湖の名前は「奥秩父もみじ湖」です。ダムの堰堤は、高さが132m、長さが424mです。2005年(平成17年)に試験湛水が始まり、2008年(平成20年)に管理開始となりました。滝沢ダムには本体両側に階段があります。また、本体内部を通って見学できるエレベータもあります。これらによりダム下の「下流広場」とダム堰堤上を移動することが可能です(定期点検や天候、その他により利用できない場合があります)。
すぐ隣を国道140号線の新道が通っており、雁坂トンネルを通じて秩父と山梨県が結ばれています。ダムのすぐ下流には、国道140号線の巨大なループ橋があります。半周ずつの2つの橋があり、東側半周の「大滝大橋」と西側半周の「廿六木大橋」をあわせて、「雷電廿六木橋」と呼ばれています。雁坂峠は日本三大峠の一つといわれており、険しい山越えの道でしたが、平成10(1998)年に雁坂トンネル有料道路が開通しました。山梨市と埼玉県秩父市を結ぶトンネルであり、主要幹線道路の国道140号として、第1次緊急輸送道路に指定されています。
雁坂トンネルは、トンネル内での事故を防止するため、歩行者や自転車、危険物を積載した車両の通行が禁止されています。標高1,200mという厳しい気象条件下における日本最大規模の山岳トンネルであり、安全かつ快適な交通確保を追求しました。防災設備、トンネル警報板、監視用テレビ設備、非常電話等の施設を設置しています。これらの施設は、管理事務所内の監視室で24時間常駐体制で監視し、維持管理を図っています。トンネル本坑で火災事故が発生した際の避難場所及び救急活動のため、本坑に併設された避難坑が整備されています。
秩父にあるループ橋で、345mの大滝大橋と270mの廿六木大橋をあわせて「雷電廿六木橋(らいでんとどろきばし)」と言います。山の上にある奥秩父もみじ湖と下流側の高低差およそ120mを、巨大なループを描いて登っていきます。デザインの美しさが評価され、グッドデザイン賞をはじめ、数々の賞を受賞しました。橋の中腹には「廿六木望郷広場」という展望スペース、そして橋の上にも駐車スペースがあるので、ぜひ車から降りて、その世にも珍しいループ橋の様子を写真に収めたいですね。またすぐそばにある「滝沢ダム」の堰の上からは、「雷電廿六木橋」の全景を眺めることができます。
雷電廿六木橋は、廿六木大橋(最大スパン75m、橋長270m)、大滝大橋(最大スパン125m、橋長345m)の二つの橋梁と、その間の145mの土工区間を合わせてループ形状を形成している一体の構造です。約125mの高低差をループで登るため、道路の勾配は55%から7%であり、秩父の方から登っていくと、道路の曲がり具合が良くわかり、気持ちが高揚しながら高低差を登っていく様で、実に快適です。ループの形状も一定の曲率の円形ではなく、それ故、単調に感じません。この橋梁の最大の特徴は、コンクリートのエイジングをテーマとした造形デザインです。ひとつには、高さが30m~50mに及ぶ、幅6.5mの橋脚4基にほどこされたエッジをきかせた下見板風の表面の造形です。
施工が丁寧に行われたと感じさせます。完成後12年を経ていますが、橋脚表面の汚れも目立たず、すっきりとした外観を保っています。また、断面を「く」の字型とし、天端に水切りを考慮したアルミ製高欄を設置し、縦溝に雨水を集約している壁高欄にも配慮のあとがみられます。この壁高欄は、向きに応じて風化の度合いが異なってきています。この雷電廿六木橋には、橋梁の完成後に整備された滝沢ダム提体の通路も含めて多数の視点場、駐車場施設があります。特に、ダム提体の上から見下ろすループ全体の形状、下流側の駐車場からダムに向かって見上げた時の橋脚を中心とした景観は、すばらしいです。
道の駅大滝温泉は埼玉県の西部に位置し山梨県からの入口になる。秩父地方の西端で急峻な山と、日本のV字渓谷が顕著にみられる大滝地区にあります。埼玉の秘境への入口に位置する大滝温泉は荒川の畔にあり、深さ1,000mから湧き出す大滝温泉を使用した、日帰り温泉「遊湯館」を中心にお食事処や特産品販売センター歴史民俗資料館が併設されています。
川越市は、埼玉県の中央部よりやや南部、武蔵野台地の東北端に位置し、109.13平方キロメートルの面積と35万人を超える人口を有する都市です。都心から30キロメートルの首都圏に位置するベッドタウンでありながら、商品作物などを生産する近郊農業、交通の利便性を生かした流通業、伝統に培われた商工業、豊かな歴史と文化を資源とする観光など、充実した都市機能を有しています。遠く古代より交通の要衝、入間地域の政治の中心として発展してきた川越は、平安時代には桓武平氏の流れをくむ武蔵武士の河越氏が館を構え勢力を伸ばしました。室町時代になると、扇谷上杉氏の下、太田道真・道灌父子が現在の初雁公園周辺に河越城を築き、川越の中心がここに移ります。その後、小田原北条氏の支配の確立にともなう家臣団の城下への集住が進み、初期の城下町が形成されました。江戸時代には、江戸の北の守りとともに舟運を利用した物資の集積地として、川越地域は重要視されました。
大正11(1922)年には埼玉県内で初めて市制を施行し、昭和30(1955)年には隣接する9村を合併し現在の市域となりました。平成15(2003)年には埼玉県内で初めて中核市に移行、令和4(2022)年12月に市制施行100周年を迎えました。川越市、栃木県栃木市、千葉県香取市(旧佐原市)は、江戸との舟運で栄え、江戸情緒を残す蔵造りの町並みと江戸天下祭の影響を受けた山車祭りがあることから「小江戸」と呼ばれています。埼玉県の南中部に位置する川越市は「小江戸川越」とも呼ばれており、人口約35万人の中核都市で、都心へも30分程度でアクセスできるため、ベッドタウンとしても人気が高い街です。 川越市には多くの商業施設がありますが、一方で、神社仏閣などの歴史ある建物も現存しているため、近年では観光地としても人気が高い場所でもあります。
川越市役所前には、太田道灌の像が建てられています。観光客の方は割りと素通りされる傾向があるので、是非注目してあげてください。ちなみに太田道灌像は、「蔵造りの町並み」と「川越城本丸御殿」を結ぶ観光コースの途中にあります。太田道灌は、川越城、江戸城を築城した室町時代の武将です。ちなみに、この像が建てられている場所は、元々川越城の大手門があった場所。像のすぐ脇にはそのことを示す碑も建てられています。
江戸時代に記された書物によれば、鷹狩りをしていた道灌は、雨が降ってきたので農家で蓑を借りようとしました。ところが、農家の娘は蓑ではなく山吹の花を黙って差し出したので、「花がほしかったのではない」と道灌は怒って帰ってしまったそうです。この話を聞いた人からは、「娘は、『七重八重 花は咲けども山吹の みの(蓑)ひとつだに なきぞ悲しき』という古い和歌に『お貸しできる蓑はございません』ということを託したのでは」と言われ、道灌はたいへん驚いたそうです。それを機に道灌は歌に関心を持つようになり、後に歌人として名を成したと伝えられています。
川越城は太田道真、太田道灌父子によって築かれた城で、関東七名城のひとつです。日本三大夜戦のひとつ「河越夜戦」の舞台となった城でもあります。江戸時代には川越藩の藩庁が置かれ、江戸の北側の防衛線として重要視されました。松平信綱(知恵伊豆)や柳沢吉保など幕府の要職についた歴代藩主が多く、特に江戸時代中期までは「老中の居城」でした(老中数7名は全国でも最多の藩のひとつ)。1848年(嘉永元年)に建られた本丸御殿の一部が現存しています。本丸御殿大広間が現存しているのは、日本では川越城の他には高知城のみで、大変貴重な遺構です。
川越城は長禄元年(1457年)、扇谷上杉持朝の家臣であった太田道真・道灌父子によって築城されました。当時、北武蔵の覇権を巡って争っていた古河公方 足利成氏との戦いに備えてのものであったといわれています。天文6年(1537年)、川越城は小田原北条氏の手に落ち、その武蔵国支配の拠点となりました。天文15年(1546年)には有名な河越夜戦で、扇谷上杉氏をはじめとする連合軍を撃退しています。
しかし天正18年(1590年)、豊臣秀吉の小田原征伐に際し、川越城は前田利家の軍勢に攻められ陥落しました。江戸時代に入ってからは、寛永16年(1639年)に藩主となった松平信綱の手によって近世城郭へと大改修されました。現存する本丸御殿は嘉永元年(1848年)、時の藩主 松平斉典まつだいらなりつねによって造営されたものです。
大唐破風の屋根が特徴的な川越城本丸御殿は、開館時には中に入ることができます。玄関から入って幅の広い廊下を通り、大広間などを見て回ります。この本丸御殿は、ドラマ「JIN-仁-」のロケ地にも使用されました。御殿に隣接して家老詰所も復元されています。本丸御殿から西の方角へ5分ほど歩くと、中ノ門掘跡があります。これは西大手門から攻め込まれたときに、敵が直進できないように設けられた3本の堀のうちの一つです。平成21年に復元され、旧城内に残る唯一の堀跡となっています。
本丸御殿の東に位置する三芳野神社は川越城の天神曲輪に建てられ、「お城の天神さま」と親しまれてきました。この三芳野神社に通ずる細い参道は、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発祥の地と言われています。
川越城の見どころは、東日本で唯一は現存のまま残されている本丸御殿と「小江戸」として呼ばれた町並みの散策です。本川越駅から商店街を北に向かえば、小江戸を彷彿させる「蔵造りの町並み」や「時の鐘」が見え、室町時代から江戸時代にかけて長く威容を誇った川越の城下町を垣間見えます。本丸御殿に向かう道すがら、中ノ門堀跡や富士見櫓跡などの遺構も確認できます。現存する建物や城郭はあまり残っていないものの、ところどころに名残のある建造物や跡地を散策しながら当時の様子を想像する、そんなイマジネーションを刺激する街を堪能してみてみるのはいかがでしょうか。
喜多院は、埼玉県川越市にある天台宗の寺院です。山号は星野山です。良源を祀り川越大師の別名で知られています。建物の多くが重要文化財に指定され、寺宝にも貴重な美術工芸品を多く有しています。広大な境内は池や掘を廻らせた景勝地となっています。1月3日の初大師、節分、長月護摩講塔、七五三、菊祭りなど諸行事はむろん、四季折々の行楽客で賑わっています。
天台宗川越大師喜多院は、仙芳仙人の故事によると奈良時代にまでさかのぼるかもしれません。伝えによると仙波辺の漫々たる海水を法力により除き、そこに尊像を安置したといいますが、平安時代、淳和天皇の勅により天長7年(830)慈覚大師円仁により創建された勅願所であって、本尊阿弥陀如来をはじめ不動明王、毘沙門天等を祀り、無量寿寺と名づけました。
その後、元久2年(1205)兵火で炎上の後、永仁4年(1296)伏見天皇が尊海僧正に再興せしめられたとき、慈恵大師(元三大師)をお祀りし官田50石を寄せられ関東天台の中心となりました。正安3年(1301)後伏見天皇が東国580ヶ寺の本山たる勅書を下し、後奈良天皇は「星野山-現在の山号」の勅額を下しました。更に天文6年(1537)北条氏綱、上杉朝定の兵火で炎上しました。
慶長4年(1599)天海僧正(慈眼大師)は第27世の法灯を継ぎますが、慶長16年(1611)11月徳川家康公が川越を訪れたとき親しく接見しています。そして天海の意見により寺領4万8000坪及び500石を下し、酒井備後守忠利に工事を命じ、仏蔵院北院を喜多院と改め、又4代徳川家綱公のとき東照宮に200石を下すなど寺勢をふるいました。
寛永15年(1638)1月の川越大火で現存の山門(寛永9年建立)を除き堂宇はすべて焼失しました。そこで3代将軍徳川家光公は堀田加賀守正盛に命じてすぐに復興にかかり、江戸城紅葉山(皇居)の別殿を移築して、客殿、書院等に当てました。家光誕生の間、春日局化粧の間があるのはそのためです。その他慈恵堂、多宝塔、慈眼堂、鐘楼門、東照宮、日枝神社などの現存の建物を数年の間に相次いで再建し、それが今日文化財として大切に保存されています。尚、明治維新の神仏分離令からは東照宮、日枝神社は別管理となっています。
小江戸巡回バスは川越駅西口発着で、蔵の街、氷川神社、喜多院、菓子屋横丁などの川越の観光名所を走る路線バスです。 どのバス停からも観光名所へ徒歩1分以内。 川越散策には大変便利です。 歴史ある川越の街並みに合わせたクラッシックなボンネットバスも人気です。
観光の起点は、川越、本川越、川越市のいずれの駅です。ただし、主要な観光スポットは市の中心部に集中しているとはいえ、徒歩で全てを巡ろうとすると5~6kmの距離を歩かなければなりません。途中で休憩をしたり、食事をしたりすると、あっという間に1日が過ぎてしまいます。このため川越には、主な観光スポットを巡回するバスが運行しています。「小江戸名所めぐりバス」と「小江戸巡回バス」です。これを使って移動するのが便利です。東武鉄道系列が運営する小江戸名所めぐりバスは、1日乗車券が400円(小児半額)と大変お得。また指定された範囲の市内なら東武の他の路線バスにも自由に乗車できます。運行本数は、平日は約1時間おきですが、休日には約30分に1本です。
人口約35万3千人、広さ109.1 km²で、古くから産業、経済、文化、観光などの中核都市として発展してきました。都心から30km圏内に位置し、「蔵造りの町並み」や「時の鐘」、「菓子屋横丁」といった観光スポットが多く、これらの通りを着物で歩けば、古き良き川越の町をさらに身近に感じることができます。市の花は「山吹」。 川越城を築城した武将であり築城家、また和歌の名手とも称えられた太田道灌の逸話に登場する花です。春には市内の彼方此方で可憐な黄色い花を見ることができます。市の鳥は「雁」。 雁は古くから川越地方を表す和歌にも多く詠まれた渡り鳥。川越城は別名を「初雁城」ともいいました。なお、市内には「初雁」の名を持つ中学校や高校、企業などが複数あります。
長禄元年(1457)、太田道真・道灌父子により河越城が築城されました。以降川越は武蔵国を代表する城下町として年々発展していきます。明治に入り、川越は穀物や織物、たんすなどを主な特産物として、埼玉県一の商業都市として発展しました。大正11年(1922)年は、埼玉県で最初の市制を施行し、令和4年(2022)年に100周年を迎えます。神社仏閣が多いことも川越の特徴の1つです。入母屋造りの本殿に、江戸彫りと呼ばれる関東特有の精緻な彫刻がある「川越氷川神社」をはじめ、徳川家光の命により江戸城内の紅葉山から客殿、書院、庫裏などが移築されている「喜多院」。また、子育て・安産をはじめ、人々の願いを叶えてくれる「呑龍上人」が祀られている「蓮馨寺」などがあります。その他、半日程度で気軽に巡ることができる「小江戸川越七福神めぐり」なども人気のコースです。
川越総鎮守氷川神社の「例大祭」と「神幸祭」また絢爛豪華な「山車行事」によって構成される川越最大のお祭りです。慶安元年(1648)に当時の川越藩主・松平信綱が、氷川神社に神輿・獅子頭などを寄進し祭礼を奨励したことが始まりであり、各町の山車同士が向き合い囃子を競い合う「曳っかわせ」が最大の見どころです。「川越氷川祭の山車行事」として国の重要無形民俗文化財に指定されているほか、平成28年には日本の山・鉾・屋台行事のひとつとしてユネスコ無形文化遺産に登録されました。また川越まつり以外にも、埼玉県や川越市の指定を受けた無形民俗文化財の行事があり、伝統を受け継ぐ活動を行っています。寛永の大火を受けて喜多院の再建に伴い、江戸城の建造物が舟運を通じて川越へ運ばれ移築されることに始まった新河岸川の舟運は、川越の繁栄をもたらしました。また、新河岸川から、荒川、隅田川を越えて終点は浅草(花川戸)まで結ばれ、江戸との繋がりはより深まっていきました。川越からは米や麦などの農産物や木材などを江戸へ、江戸からは、織物や塩、酒などの荷のほか江戸の文化(祭りなど)も川越に入ってくるようになりました。
かつて川越地域周辺で織られていた「川越唐桟」。さまざまな種類の縦縞が美しく、極めて細く美しい木綿の糸で織られ、まるで絹のような風合いで、江戸町人の装いに欠かせないものとして当時大流行しました。今では着物の他に、かわいい小物などを市内の土産物店などで購入することができます。明治26 年3 月17 日に発生した「川越大火」により街の3 分の1 が焼失してしまいましたが、この際に蔵造りの建物だけは焼け残り、蔵の防火性に気づいた商店主らは以後、こぞって蔵造りを採用しました。その後、行政や市民団体の尽力により、平成11 年(1999)に重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。また、大正〜昭和期の看板建築なども多数残されており、今でも店舗として使用されています。蔵造りの町並みにひときわ高くそびえる川越のシンボル「時の鐘」。江戸時代初頭から城下の町に時を告げ、庶民に親しまれてきました。度重なる火災で鐘楼や銅鐘が焼失し、現在建っているのは4代目に当たります。昔と変わらず今も時を告げており、その音色は平成 8年、環境省の「残したい“日本の音風景100選”」に認定されました。
素朴で昔懐かしい味を今に伝える菓子作りの店が立ち並びます。昭和初期には70軒以上の店があったといわれており、その後店舗数は減ったものの、人情味あふれる横丁の情緒は今もなお残されています。ニッキやハッカ、お団子などの懐かしい香りが漂う菓子屋横丁は、平成13年環境省の「かおり風景100選」にも選定されました。川越では様々な名産品が楽しめます。有名なさつまいもも昔からこの地域で栽培されていた農産物。また、昔からお茶の栽培が盛んだったことから、最近では「河越抹茶」ブランドが大人気。市内の至る所でスイーツやグルメに使われています。さらに川に囲まれた地域であることから、川越では昔から地元の人々が通う老舗の鰻屋が多数あります。市の南西部では葉物野菜、北東部では米の生産がさかんに行われています。特に小松菜やホウレンソウ、かぶなどの出荷量は非常に多く、川越は首都圏の食料供給地としての役割も担っています。また、ブランドにもなっている川越いもは芋掘り観光が行われるとともに、さまざまなスイーツが開発され、多くの観光客にも喜ばれています。
龜屋は天明三(1783)年の創業以来、二百三十余年、川越の地で菓子づくりを続けてまいりました。宝暦六(1756)年。現在の長野県中野市上笠原の武家の三男に生まれた初代は、武士の道を捨てて商人になることを決意しました。何故初代が武士の身分を捨てたのかは詳しく伝わっていませんが、家督を次ぐことのできる長男でなかったからと考えられています。十代半ばでひとり故郷を出た初代は、当時の関東では江戸に次ぐといわれた町「川越」で菓子屋を営むことにします。亀屋新井清左衛門方にて十余年の菓子づくり修行ののちに独立し、天明三年(1783年)、二十八歳の時、ついに現在の本店の場所に自らの店を開きました。その際に修行先から暖簾を分け受け、「龜屋」と屋号をつけました。
川越の和菓子職人が作る江戸っ子好みの和菓子が評判となり、暖簾分けによって生産する種類を増やしていき、明治時代初期に、今でも続く菓子屋横丁が誕生します。最盛期は約70軒が軒を連ねていましたが、大手メーカーの大量生産や洋菓子流行によって一時は衰退。それでも、町を愛する人々の手によって菓子屋横丁は復興し職人たちは再びこの地で和菓子作るようになりました。伝統的な技法を大切にしながら、現代の人々の生活にも目を配る川越の菓子作りはこうして生まれたのです。100年ほど前、秩父地方が貧困に苦しんでいたとき、大豆の品種改良に取り組んだ結果、旨味(アミノ酸)と甘み(ショ糖)が非常に高い「秩父借金なし大豆」が生み出され、貧困から脱することができたそうです。しかし、「秩父借金なし大豆」は機械収穫に向かず作り手がいなくなり、近代では長く幻の豆となっていました。小江戸まめ屋は契約農家とともに復興栽培に取り組み、その幻の大豆の製品化に成功したのです。
埼玉県川越市、川越市川越伝統的建造物群保存地区に選定される蔵造りの町並み(川越一番街商店街)にある蔵造りの商家が、宮岡刃物店。一生使えるという包丁などを販売。天保13年(1843年)創業で、現存する建物は、明治26年の川越大火後の、明治30年築。宮岡家住宅として、川越市の文化財に指定されています。防火対策の観音開き扉、そして雨水を落としやすくするための傾斜の急な屋根が印象的です。屋根の箱棟の両端に付いているのは、鬼板(鬼瓦)を包む影盛。鬼瓦を大きく見せるため、左官職人が鬼瓦と棟の接合部分、鬼瓦の周囲に漆喰を盛り上げて二重構造にした鬼瓦です。宮岡刃物店の屋号は「町勘」で、暖簾に記される屋号紋は「マルに丁」です。ローマ字の「T」に間違えられますが、漢字の丁で、ここで売られるオリジナルの刃物には「町勘」の屋号が刻印されています。
「呉服かんだ」は、昭和25年創業、今年創業70年になる着物専門店です。蔵造の街並みで有名な川越一番街商店街の中程に立地し、休日には観光客が大勢訪れる賑わいのある老舗呉服店です。「唐桟」とは、江戸時代、東南アジアからもたらされた縞木綿のことです。特色は、平織りで、極めて細い双糸を使うことで、木綿でありながら、絹そっくりの風合いを持っています。江戸時代、遠い南の国からもたらされたエキゾチックな縦縞の「唐桟」は、粋で、人気を博しました。しかし、それは大変に値段が高く、庶民のものではありませんでした。ところが、安政の開国以後、わが国では、どうしても紡げなかった極めて細い木綿糸が、産業革命以後の欧米諸国から安く輸入できるようになりました。川越商人は、いち早く、この点に着目し、当時絹織物の産地として栄えていた川越の機屋に「唐桟」を織らせました。これが川越唐桟のはじまりです。それは、良質で安価だったため、爆発的に売れ、「唐桟」といえば「川越」と言われ、川越唐桟には「川唐」の愛称まで生まれました。
「荻野銅鐵店は、川越にある金物屋さんです。荻野銅鐵店は明治時代に創業された歴史ある金物屋で、店舗自体も川越大火後の明治26年に建てられたものです。少し見にくいのですが、屋根の上に「徳町 荻野銅鐵店」と書かれています。荻野銅鐵店の店舗は入口の左右がショーウィンドウになっており、実際の商品を見ることができます。置かれているお品は、金属製の美しい置物や仏像、香炉、水差しなど様々。個人的に、フクロウの置物が可愛くて気になりました。レトロな建物の雰囲気も相まって、明治時代にタイムスリップしたかのような気持ちになれます。
時の鐘は、寛永4年(1627)から同11年(1634)の間に川越城主酒井忠勝が、多賀町(いまの幸町)の現在の場所に建てたものが最初といわれています。創建された江戸時代の初期から、暮らしに欠かせない「時」を告げてきた小江戸川越のシンボルです。現在の鐘楼は、明治26年(1893)に起きた川越大火の翌年に再建されたもの。3層構造で、高さ約16メートル。平成8年に、時の鐘は環境庁主催の「残したい“日本の音風景100選”」に選ばれました。今から400年ほど前の寛永年間、川越藩の第2代藩主・酒井忠勝により創建された小江戸川越のシンボル、「時の鐘」。その名の通り、町じゅうに時間を知らせる時計の役割を果たしていました。歴史を感じさせる情緒あふれる立ち姿の「時の鐘」は、川越市指定文化財に指定されています。
その当時、江戸ではすでに時の鐘が鳴らされていたようで、日本橋石町の時の鐘が最も古く、江戸城内での武士たちの規則正しい生活のために役立てられていたようです。また時の鐘は、時を知らせるだけではなく、火の見やぐらとしての役割も担っていました。人々の安全を静かに見守る時の鐘は、日常生活と密接に結びつき、親しまれてきました。やがて桶大工の職人が多く住んでいた川越にも、半刻(1時間)ごとに鐘の音が鳴り響くようになりました。現在の「時の鐘」は4代目で、明治26年(1893年)の大火のあとに再建されたものです。木造のやぐら造りは3階建てで高さが約16メートル、鐘は電動式となりましたが、午前6時、正午、午後3時、午後6時、いまなお行く人に時を知らせてくれます。
日光街道「草加の宿」今、なお残る千本松原は、江戸時代から「草加松原」「千本松原」と呼ばれ、明治10年には約800本あったと言われる松も、昭和40年ごろには自動車の通行量の増加による排気ガスの影響で60数本まで減少しました。その後、市民団体の熱意により設立された松並木保存会による保護などにより、現在は約600本まで回復しています。昭和30年以前の松並木を入口からのぞき込めば、左右は太い幹が壁となって連なり、仰ぐ梢は張り出す枝や葉に覆われ長大なトンネルを形造っていました。
現在、車道は西側に移設、並木道には石畳の遊歩道が整備され、百代橋や矢立橋など県道をまたぐ歩道橋も架けられ、安全で快適なウオーキングコースとなっています。「日本の道百選」、「利根川百景」、「美しい日本の歩きたくなる道500」に選ばれるなど、多方面から注目される並木道になっています。草加松原遊歩道では、毎年、夏の風物詩「草加朝顔市」が開催されます。遊歩道の南側に位置し、綾瀬川舟運の船着き場を再現して整備された「札場河岸公園」内には、草加の地を訪れたとされる松尾芭蕉の像、松並木や綾瀬川を一望できる五角形の望楼など、宿場情緒あふれる建造物が立ち並びます。マンションなど高い建物と共存する松並木。草加駅を起点とする散策コースは、草加名物の煎餅のかおりを楽しみながら散策ができます。
東武スカイツリーライン獨協大学前〈草加松原〉駅から旧日光街道(県道足立越谷線)に出ると、綾瀬川沿い一帯に美しい松並木が広がります。平成26年3月18日に国の名勝(おくのほそ道の風景地)に指定をされました。634本の松が植樹された約1.5キロメートルにも及ぶこの松並木は、ゆったりとした石畳の散策道に整備されており、市民の憩いの場となっています。草加松原遊歩道の南側に位置し、綾瀬川舟運の船着き場を再現して整備された「札場河岸公園」内には、草加の地を訪れたとされる松尾芭蕉の像や県指定文化財に登録される甚左衛門堰のほか、松並木や綾瀬川を一望できる五角形の望楼など、宿場情緒あふれる建造物が立ち並びます。松尾芭蕉の記した「奥の細道」にちなんで名付けられた二つの太鼓型の橋「百代橋」と「矢立橋」は、草加市のシンボルとなっています。
草加宿を訪れた文学者・正岡子規や俳人・水原秋桜子の句碑なども建てられています。「日本の道百選」や「利根川百景」にも選ばれる草加松原は、日光街道有数の宿場町として栄えた草加宿の面影を今に残し、名実ともに草加市を代表する観光名所となっています。春は桜の名所となり、市の伝統行事である朝顔市や市民まつりの会場としても賑わいを見せる草加松原は、市民らの手によって今も大切に守られ続けています。
綾瀬川に沿って1.5キロメートルの松並木が続きます。県指定文化財「甚左エ門堰」や「松尾芭蕉像」など、のんびり散歩しながら草加の歴史に触れてみましょう。太鼓型の2つの歩道橋「百代橋」と「矢立橋」の名前は、松尾芭蕉の「奥の細道」より引用されたものです。観光スポットとしてはもちろん憩いの場としても人気です。綾瀬川に沿った松並木迫力の矢立橋は必見!です。百代橋は、草加松原の歴史的景観を保存するため,埼玉シンボルロード整備事業の一環として架けられた橋です。 国指定名勝「おくのほそ道の風景地 草加松原」に架かり、橋上からは東京スカイツリーの高さに因んだ634本の松並木を俯瞰できます。
長さ62.5m、幅3.5m、高欄は木目調で,街道の雰囲気に合わせた常夜灯が設けられています。長さは「矢立橋(96.3m)」と比較すると「百代橋(63.5m)」は短いのですが [草加]市内を散策していると気付かれるとおもいますが [草加]市内のマンホールのデザインとして「百代橋」が使用されています。又「矢立橋」の橋途中に見られる装飾は[日光街道・草加宿]の陶板画となっていますが 絵柄的に多少稚拙感がありますので「百代橋」の《松ぼっくり》をモチーフとした装飾の方が好きだと言う方も結構いるかも知れません。遊歩道には松尾芭蕉の奥の細道からその名を引用したという太鼓型の2つの歩道橋「百代橋(ひゃくたいはし)」「矢立橋(やたてはし)」が架かっており、草加のシンボルとなっています。