新潟県の最南端部に位置する湯沢町は、魚野川や清津川などの清流が北流し、また、谷川岳や苗場山などの雄大な山々に囲まれた、四季が織りなす美しい自然が豊かな町です。湯沢町は日本アルプスのリゾートタウンで、多数の温泉とスキー場があることで知られています。スキー場と高原の植物園アルプの里は、湯沢高原ロープウェイで町と結ばれています。越後湯沢駅にある越後のお酒ミュージアムぽんしゅ館は、利き酒や酒風呂が体験できる日本酒の博物館です。雪国館には、湯沢町の歴史とこの町を舞台にした小説『雪国』に関する展示が行われています。
赤谷湖は、群馬県みなかみ町北部、新潟県との県境にあり、三国街道の難所・三国峠の麓にあり、人々が峠越えの疲れを癒すための宿場町として栄えました。江戸初期から「笹の湯温泉・湯島温泉」と呼ばれ、名湯として賑ってきましたが、昭和33年(1958)に相俣ダム建設のために赤谷湖の底に沈んでしまいます。これらの温泉旅館はその後場所を移し、温泉の名前も改め生まれ変わったのが現在の猿ヶ京温泉です。相俣ダム建設に伴ってできたダム湖である赤谷湖は、夏の緑、秋の紅葉そして春先は桜の名所として知られています。谷川連峰三国連山の雄大な景観も魅力です。赤谷湖沿いには自然遊歩道が整備されており、美しい景観を楽しみながらのウォーキング・ボート遊び・釣りなどが楽しめます。5月には湖上を鯉のぼりが元気に泳ぎ、8月には赤谷湖上花火大会が開催されます。
鈴木牧之が桃源郷と呼んだ秋山郷は、信濃川の支流、中津川の上流域に点在する集落の総称で、長野県と新潟県にまたがる狭谷地帯。迫る山肌と深い雪にとざされ、歴史にとり残された様に昔の生活を色濃く残しています。この秋山郷の人々の暮らしは、自然とともに生き、先人たちの知恵と豊かな温情息づく心のふるさとです。
春はオオヤマザクラとカタクリに囲まれ、新緑の木漏れ日に野鳥の声を聞くのは日常です。秋は錦秋の渓谷に収穫の歓びがこだまします。岩肌に凛とした姿で降り積もる純白の雪は、冬の厳しさと渓谷の美しさを一層引き立てます。豊かな自然と縄文の昔から受け継いだ歴史・文化は、旅するものを魅了して止みません。
新潟県と長野県を跨ぐ20キロほどの中津川渓谷を指して言います。全国に秘境と呼ばれる場所は数多くあるわけですが、「生きている秘境」というのは珍しいのではないでしょうか。秋山郷では、苗場山と鳥甲山の斜面にある小さな13集落が、自然と共存しています。
柏崎市は、新潟県の中越地方西端にある日本海に面した市です。1940年、県内5番目に市制施行されました。 刈羽郡と柏崎地域広域圏の中心地で、国・県の出先機関も数多く置かれています。2022年現在、新潟県内では6番目の人口を擁します。また観光資源として市域の一部は佐渡弥彦米山国定公園に指定されています。
荻ノ島茅葺集落は新潟県を代表する茅葺屋根の民家が密集する集落です。荻ノ島集落のの発生起源は判りませんが、源平の合戦が行われた平安時代末期に、源頼朝と対立し源範頼、源義経の軍に敗れ自刃した木曽義仲の家臣が当地に流れ着き土着したとの伝承が伝えられています。
村なかの豊かなつながり、のどかな風景、それが集落「荻ノ島」です。民家が田んぼを囲んで建ち並ぶ全国でも貴重な環状集落で、四季を通じ多くのスケッチや写真愛好家も訪れます。荻ノ島では豊富な山の清水により、甘みのある美味しい農作物が採れます。
荻ノ島集落の起因は、1908年の大火で史実を記録した古文書のほとんどが焼失しているため不明瞭な部分が多いとされていますが、集落東端の松尾神社境内から縄文時代中期のものと推定される貝塚やつぶて石、矢尻、砂岩の器などが発掘されています。また、今から820年前に、木曽義仲に従う残党が住みついたと古文書に伝えられ、この時既に集落に人々が住んでいたものと推定されます。
荻ノ島集落の地形は、西側には背後に続く上り斜面と沢があり、東南に開けた日当たりの良い扇状地に集落が展開しています。南・東・北の三方に外敵の侵入を阻む谷があり、万一侵入された場合に逃れる背後の山々、暮らしに欠くことのできない沢の水源、日当たりの良い扇状地など集落の源とも言える地形を有しています。
この台地に周辺の素材を活かし、豪雪を克服すると共に、「農」を営む機能を備えた茅葺中門造りの民家が環状に立ち並んでいます。背後の近山、林、茅葺の家並、これらに囲まれた田んぼは、まさに日本昔ばなしに出てくるような情景で、日本を代表する原風景の一つとされています。
「日本の農村百選」にも選出され、田を囲むようにかやぶきの民家が建ち並ぶ村の情景は、日本昔ばなしに出てきそうな日本を代表する原風景の一つです。2つの茅葺きの家で宿泊や食事ができます。大皿に盛られた沢山の地元の野菜・山菜を使って、母ちゃんが作ったごっつおを囲炉裏を囲んで時間を忘れ、じょんのび味わえます。
高柳町荻ノ島の松尾神社の境内に推定樹齢700年を超える大杉があります。それは、1株2本立で、主木は更に2本に分岐し3本の樹形をなしています。荻ノ島夫婦杉は、新潟県柏崎市にある巨大な杉。一本の杉が大きく二本に分かれてるために夫婦杉、または二本杉と呼ばれる。松尾神社の境内にある。柏崎市の天然記念物に指定されています。
本土から佐渡島まで海を渡るカーフェリー「おけさ丸」。おけさ丸は佐渡汽船の車を乗せることができる大型船で、船内の見どころが満載です。おけさ丸の船内は、歴史の古い船にもかかわらず、きれいに保たれています。おけさ丸に乗船すると、目の前に広がるのは円形のエントランスで、華麗で手の込んだ雰囲気です。おけさ丸は、現在使用されている佐渡汽船のなかで最も大きいフェリ―です。
日本海は、西太平洋の縁海で、日本列島、朝鮮半島、沿海州などに囲まれた海です。ユーラシア大陸と樺太の間の間宮海峡(タタール海峡)、樺太と北海道の間の宗谷海峡でオホーツク海と繋がっており、北海道と本州の間の津軽海峡では太平洋と、九州と対馬の間の対馬海峡東水道、対馬と韓国の間の対馬海峡で東シナ海と繋がっています。
佐渡はアルファベットの「S」や「Z」のような形をしていて、北に1,172メートルの金北山をはじめとする大佐渡の山地、南は645メートルの大地山をはじめとする小佐渡の山地、中央部に国中平野が広がっています。島の面積は約855平方キロメートル、海岸線は約280キロメートルあり、日本では東京23区や淡路島、海外ではグアム島やプーケット島の約1.5倍の大きさがある、日本海側最大の島です。
佐渡の気候は海洋性で、四季の変化に富んでいます。夏は高温多湿で、冬は雪国のイメージがある新潟県の離島ということから、寒い印象を持たれますが、佐渡沖を流れる対馬暖流の影響を受けるため、積雪は本土よりも少ない状況です。
人口は約51,000人(令和4年3月末)で、四方を海で囲まれている島では豊かな土壌と気候を活かした農業や漁業などが営まれています。農業の中心は米作りを中心に、おけさ柿、ル レクチエ、りんごなどの果樹栽培が盛んです。また古くから幻の牛といわれる佐渡牛などの畜産業にも取り組んでいます。
漁業ではカニ、エビ、イカ、ブリ、マグロなど様々な種類の魚介類が水揚げされるほか、加茂湖や真野湾で育てられる牡蠣や、日本海の荒波が育んだアワビ、サザエ、海藻類など、まさに海産物の宝庫です。
佐渡金銀山400年の歴史を伝える史跡。江戸金山絵巻(宗太夫坑)コースでは、人形を使って当時の採掘作業を忠実に再現。明治官営鉱山(道遊坑)コースには、明治期以降の近代化産業遺産群が残ります。さらに「東洋一の選鉱場」「日本初の西洋式竪坑」などの施設をガイド付きで巡るコースもあり、壮大なスケールに驚かされます。
「史跡 佐渡金山」には、江戸から明治、そして平成の操業停止に至るまでの長い歴史を物語る数々の遺構が、豊かな自然の中に溶け込んで至るところに残されています。そして、広大な敷地に点在する坑道跡、採掘施設、製錬施設など、そのほとんどが国の重要文化財、史跡、近代化産業遺産に指定されています。400年に亘る先人たちの営み、鉱山技術や生産システムの変遷のほぼすべてを見ることができる、世界でも例のない大変貴重な遺産です。この「史跡 佐渡金山」を含む「佐渡島の金山」は2022年に日本の世界文化遺産候補としてユネスコへ推薦され、現在は本登録に向けて準備が進んでいます。
佐渡金山は、1601年に山師3人により開山されたと伝えられています。1603年には徳川幕府直轄の天領として佐渡奉行所が置かれ、小判の製造も行われ江戸幕府の財政を支えました。1869(明治2)年に官営佐渡鉱山となり、西洋人技術者を招いて機械化・近代化が図られました。1889(明治22)年には、宮内省御料局管轄の皇室財産となり、模範鉱山として日本産業の近代化に貢献しました。
その後1896(明治29)年に当時の三菱合資会社に払い下げられ、日本最大の金銀山として拡大発展を遂げました。平成元年3月(1989年)残念ながら、資源枯渇のため操業を休止し、400年近くに及ぶ長い歴史の幕を閉じました。佐渡金山の金鉱脈は、東西3,000m、南北600m、深さ800mに広がっていました。この金脈を追い求めて、江戸から平成まで388年間に産出した金は78トン、銀2,330トンにのぼり、まさに日本最大の金銀山でした。開削された坑道は、まるでアリの巣のように拡がり、総延長は何と約400km(佐渡~東京間)に達しています。
佐渡金銀山400年の歴史を伝える史跡。江戸金山絵巻(宗太夫坑)コースでは、人形を使って当時の採掘作業を忠実に再現。明治官営鉱山(道遊坑)コースには、明治期以降の近代化産業遺産群が残ります。さらに「東洋一の選鉱場」「日本初の西洋式竪坑」などの施設をガイド付きで巡るコースもあり、壮大なスケールに驚かされます。
佐渡トキ保護センターは、佐渡島中央部に広がる国中平野の東側、新穂地区の平野部の一角にあり、トキの野生復帰に向けて、トキの飼育繁殖に取り組んでいます。また、近くの山麓には佐渡トキ保護センター野生復帰ステーションがあり、トキの飼育繁殖のほか、放鳥に向けた野生順化訓練を行っています。
佐渡トキ保護センターは、「トキ」の保護増殖に取り組むための施設として、新潟県佐渡市に設置されました。平成15年10月に日本の野生産最後のトキ「キン」が死亡しましたが、平成11年1月に、中国から「友友(ヨウヨウ)」「洋洋(ヤンヤン)」のペアが贈呈されて以来、飼育下での繁殖が順調に進み、平成20年以降、佐渡島内で放鳥を実施しています。
ハアー佐渡へ 佐渡へと草木もなびくヨ 佐渡は居よいか 住みよいか
ハアー来いと 云うたとて行かりょか佐渡へヨ佐渡は四十九里 波の上
ハアー波の 上てもござるならござんせヨ 舟にゃ櫓もある櫂もある
ハアー北は 大佐渡 南は小佐渡ヨ 中は国仲 米どころ
ハアー佐渡の 三崎の四所御所ざくらヨ 枝は越後へ 葉は能登へ
タライ舟が考案されたのは明治の初めごろで、洗濯桶から改良に改良を重ね現在のたらい舟になったと言われています。見え隠れする岩礁の多い小木海岸で、小船より安定感があり、小回りが利いて自由に操作できるように考案されたのが始まりです。たらい舟は磯ねぎと呼ばれる漁で、サザエ・アワビ・ワカメなどを獲るのに使用されました。現在でも小木海岸では、たらい舟を使った磯ねぎ漁が行われています。
たらい舟は長さ150cm、幅130cm、高さ50cmほどのたらい状の木舟で、大樽を半分に切って用いたことから「ハンギリ」とも呼ばれています。成立は江戸時代後期と推定され、佐渡小木海岸(国記念物)の複雑な磯(岩礁)における見突漁や海藻採取などに使用されてきました。
このたらい舟の製作は、まず長さ160cmほどの杉板数枚を竹釘で接合して楕円形に切り取り、ウラと呼ばれる舟底を作ります。次にクレと呼ばれる長さ50cmほどの杉板を竹釘で接合して円柱状の側面を組み立てます。これに真竹のカリタガを2本かけてからウラを入れます。次にホンタガ3本を真竹で編んでかけ、最後にウラをはめ込んで完成となります。
また、舟は部材を密着させて水の侵入を防ぐ必要がありますが、たらい舟の製作では和船の製造技術に加え、木の腐りにくい面を水に接するように部材を配置したり、タガと竹釘で部材を接合したりするなど、桶樽の製作技術をふんだんに取り入れている点も特徴的です。
<佐渡情話>
越後の国柏崎の吾作は漁に出て遭難し、佐渡に住む茂平とお光の親子に助けられました。お光の看護で健康を取り戻した吾作は夫婦になる約束をして柏崎に帰りました。吾作を恋しく思うお光はたらいの舟に乗って柏崎へ通い始めました。これをお光に横恋慕する七之助が知り、舟を壊したので、吾作のもとに通えない悲しみからお光は正気を失い、健康が回復せぬまま吾作の子を産みました。
吾作が戻った時もお光は気を病んだままでしたたが、佐渡に流罪となった日蓮上人の祈とうにより、正気に戻ることができました。佐渡の民話や民謡「佐渡おけさ」をもとに鈴木米若が創作した浪曲。特に冒頭の節は佐渡の浜辺の情景を活写して大衆の心をとらえ、この作品が人気作たる所以となりました。