新潟市の北東約60kmにある関川村。隣はもう山形県です。村の中央を清流「荒川」が流れ、夏にはアユ釣りや川遊びを楽しむ親子連れでにぎわいます。村の中心部には豪農の館で知られる国の重要文化財をはじめとした18世紀の町並みが残り、生活の中に歴史がとけ込んでいます。豊かな自然を体験できるキャンプ場、豊富な温泉など、四季を通じて遊び心を満たせる村です。
関川村は新潟県の北東部に位置する、人口約5,100人の小さな村です。いわゆる平成の市町村合併には参加せず、「小さくてもキラリと光る村」を目指して、村民と行政で力を合わせて村づくりを進めています。村は山々に囲まれ、村の中心には平成の名水百選に選ばれた荒川が流れています。荒川の両岸には温泉街や風情ある街並みがあります。JL米坂線や整備された道路網など、都市部へのアクセスも良好。温泉やキャンプ場など充実した時間を過ごせる環境もあり、自然に囲まれた静かな環境が広がっています。
関川村は日本海側と内陸を結ぶ交通の要衝にあり、先史時代より荒川沿いに道ができて発達してきました。今から約500年前、米沢の戦国大名、伊達種宗が羽越国境の大里峠を開き、そこにつながる道が次々と整備され、十三峠ができました。新発田または村上の城下町を起点にこの十三峠を越え米沢城下町に至る街道は米沢街道と呼ばれ、その宿駅として、また荒川舟運の拠点として盛えたのが関川村の下関・上関です。その中心地には国指定重要文化財「渡邉邸」と「佐藤邸」、県指定文化財「津野邸」、村指定重要文化財「東桂苑」と四つの豪壮な建物が並び、江戸~明治期の街道の風情を今に伝えるこの街並みは平成19年「美しい日本の歴史的風土100選」に選ばれました。
米沢街道の歴史を感じられる峠道や丸山公園では四季折々の草花や紅葉が楽しめます。また、日帰りで楽しめるハイキングから飯豊連峰最北端 日本二百名山の杁差岳と登山コースも豊富です。
渡邉家三代善久は、享保十一年(1726)財政難に苦しんでいた米沢藩に融資、その後幕末までに総額十万両以上を用立てました。その功により五代英良以降、同藩の勘定奉行格の待遇を受けました。その後、七代善映のときには、寛政十年(1798)に四百五十石の知行が与えられました。また、七代善映は、上杉鷹山公から弓矢の玩具を拝領しています。この弓矢は、幼き頃鷹山公が手遊びをしていたもので、天明6(1786)年、幼少の善映登城の折に拝領したもので、現在は歴史とみちの館に展示されています。
渡邉家の初代儀右エ門善高は、村上藩の郡奉行をしていいましたが、藩主国替えのとき、家督を譲り桂村に隠居、その後寛文7(1667)年に現在の場所に転居して以来の旧家です。三千坪の広大な敷地に堀と塀をめぐらし、五百坪の母屋には、厳選された無節の柱や丸桁などが惜しみなく随所に使われています。往時には十二あったとされる蔵のうち、残っている六つの蔵もまた豪農を思わせる作りとなっています。
母屋の最も特徴的な造りの一つが、石置木羽葺屋根です。屋根には木羽二十万枚と石一万五千個が使われています。この母屋と土蔵は、昭和二十九年に国の重要文化財に指定されました。また、庭園は回遊式となっており、元禄末期から享保初期にかけて京都から遠州流の庭師を招いて構築されたもので、昭和三十八年に国の名勝に指定されています。
廻船業や酒造業、新田開発などで富をなした渡邉家は、財政難に苦しんでいた米沢藩に幕末まで融資して、米沢藩勘定奉行格の待遇を受けました。文化14(1817)年に建てられた主屋(国指定重要文化財)は、石置木羽葺屋根撞木造りで、屋根には木羽20万枚と石1万5千個が使われています。江戸中期、京都から遠州流庭師を招いて築かれた回遊式の庭園は国の名勝に指定されています。
現在の渡邉邸は度重なる火災のあと、文化14年(1817)に再建され、周囲に堀と塀を巡らせた3,000坪の広大な敷地に、500坪の撞木造りの母屋、6棟の土蔵、庭園が配置されています。昭和29年(1954)に母屋、金蔵、米蔵、味噌蔵の3蔵が、昭和53年(1978)に宝蔵、新土蔵、裏土蔵、塀3棟と慶応3年(1867)に描かれた屋敷図、宅地、米蔵の附としての棟札3枚が、それぞれ国の重要指定文化財に指定されました。また、江戸時代中期に京都から遠州流庭師を招いて構築した庭園が、昭和38年(1963)に国の名勝に指定されています。建物は昭和39年(1964)の新潟地震や昭和42年(1967)の羽越大水害、近年の白アリ被害などで老朽化が目立ってきたため、6年の歳月をかけて平成26年(2014)、平成の大修理を完了しました。
初代儀右衛門善高は、村上藩主松平大和守直矩の家臣で郡奉行をしていましたが、藩主が姫路へ国替えのとき、家督を嗣子に譲り、桂村に隠居。寛文7年(1667)現在地に転居しました。2代目三左衛門善延は廻船業を営み、酒造業を開業して財を成し、3代喜久は、享保11年(1726)財政難に苦しんでいた米沢藩に融資を行い、幕末まで10万両以上用立て、その功により5代目以降米沢藩勘定奉行格の待遇を受けました。
7代善映は寛政10年(1798)450石の知行を与えられ、米沢9代藩主上杉鷹山公の藩政改革におおいに貢献し、10代善郷は、大正7年(1918)米坂線の誘致に尽力し、昭和11年(1936)の全通に至りました。11代萬壽太郎は、六三三制実験校誘致、診療所の開設、財団法人渡邉家保存会の設立など多くの社会貢献をしました。12代和彦は、平成20年(2008)から6年かけて平成の大修理を決断実行しました。このように渡邉家代々の当主は、米沢街道宿場町の利を生かした事業を展開して財を成し、それを大名貸や神社仏閣の再建、私財を投じた公共事業の推進など、地域の政治、社会、文化の発展に多大な貢献をしてきました。
建物は街道に面し平行に建つ棟(前棟)と直角に建つ棟(後棟)の二つの棟からなり、屋根はT字型の「撞木造り」です。母屋の通用口から入ると、採光のため吹き抜けになっている土間が広がります。大座敷、二之間、納戸座敷は繊細な数寄屋風の造りで、壮大さと繊細さを合わせ持つ建築です。部屋の数は約40室、便所7ケ所、浴室4ケ所と大規模なお屋敷で、最盛期には70名ほどが暮らしていました。また屋根は石置木羽葺屋根と呼ばれるもので、杉の薄板(木羽)を重ねて並べ、押さえの石を置いた独特の造りとなっており、渡邉邸の石置木羽葺屋根は木羽20万枚、置石1万5千個が使われ、日本最大規模を誇ります。
土蔵は、慶応3年(1867)の屋敷図を見ると12の蔵があったことが分かりますが、現存するのは、米蔵、味噌蔵、金蔵、宝蔵、新土蔵、裏土蔵の6棟で、いずれも国指定重要文化財です。庭園は、江戸時代中期、京都から遠州流の庭師を招いて築かれました。渡邉家は廻船業を営んでいたことから、石材の多くは紀州・小豆島・京都鞍馬石など関西方面のものが使用されています。
庭園は、広さは1275平方メートルで心字池を中心に穿ち築山を配し、小規模ではありますが池泉回遊式になっており、江戸中期、京都より遠州流庭師を招き構築されました。剛毅・繊細両面をうまく組み合わせた配置で、築山に枯滝、州浜に石灯籠、北側に井戸囲い、座敷側には手水鉢を設けるなど巧みに見せ場を作り出しています。また、渡邉家が廻船業を営んでいた影響もあり、石材の多くは小豆島・紀州・京都鞍馬山等関西方面のものが使用されています。庭園に面した大座敷(書院造)では米沢藩などの重臣や文人墨客・明治の貴顕者がこの庭を目出風流を感じた事でしょう。この庭園は昭和38年10月11日に国の名勝に指定された。
東桂苑は、明治38年に、当時の建設技術の粋を集め、渡辺家の分家として建築されたものです。木造2階建て入母屋造りの堂々としたたたずまいが印象的です。純和風の風情ある庭園との調和も楽しめます。昭和57年、関川村が管理することになり、村民から愛称を募集して「東桂苑」と名付けられました。
国指定名勝の渡辺邸から徒歩3分にある分家です。渡辺邸を眺めたあとだと見劣りするので、先に訪れることをお薦めです。障子と本座敷の間に縦に畳を並べた空間があり、縁座敷と呼ばれています。縁座敷は13畳あり、資料では畳縁と記載されていました。縁座敷とは本座敷と縁側との間につくられる座敷の事です。
明治38年建築。国指定重要文化財渡辺家の分家にあたり、日本瓦葺寄棟造りの堂々とした風格のある建築物です。秋には、地元郷土料理を味わう「食地」やお茶会などが開催されます。この建物は、旧米沢街道の特徴ともされる撞木造りの様式ではなく、通りから一歩引いて建てられています。これは、各座敷から見える景色を重要視したもので、座敷からの山並みの景色も是非ご覧いただきたいです。映画「峠 最後のサムライ」では撮影地になりました。
東桂苑(渡辺家御新宅)も分家とはいえ1600坪と広大な敷地を有し、母屋の北側に池泉回遊式庭園が配されています。昭和57年、関川村が管理する際に村民から募集して付けられた名称が東桂苑。苑という名の通り、見事な庭園もあり紅葉が見事です。
佐藤邸は米沢街道沿いに屋敷を構える有力地主の家で、江戸時代には村の庄屋を勤めていました。敷地の正面、街道に面して茅葺屋根の主屋を建て、その背後に新座敷、上土蔵、米土蔵、新土蔵を配し、裏口に門長屋を構えています。主屋は街道に向けた妻の左右に座敷を突出させているので、屋根の形が丁字形となり、特色のある外観となっています。広い敷地と規模の大きな主屋、土蔵などの附属屋がそろった佐藤家は、江戸時代からの有力地主層の住宅としての形態をよくとどめていて貴重です。
渡辺家とともに18世紀の町並みを形成。明和2年の建築で、かやぶきの豪壮な感じの建物。先祖は地域の庄屋を務め、渡辺家に次ぐ大地主でした。建物は、この旧米沢街道の特徴でもある、撞木造りで通りに面して素晴らしい姿を見せています。明和2年(1765年)の建築。渡邉邸とともに18世紀の町並みを形づくっています。茅葺屋根の豪壮な屋敷の雰囲気が庄屋の面影を伝えています。平成3年には国の重要文化財の指定を受けました。
鷹の巣は、清流荒川のほとりにある、ひのき・けやき・ならの森林に囲まれたキャンプ場があります。 磐梯朝日国立公園鷹の巣集団施設地区として、環境省が直轄で施設の整備を行い、関川村が管理を行っています。 キャンプのほか、森林浴、林間学校、探鳥会、昆虫採取にも最適の場です。
笹川流れは、新潟県村上市にある海岸で、国の名勝および天然記念物に指定されている地域です。日本百景にも選定された県下有数の海岸景勝地です。笹川流れの笹川とは集落名で、この笹川より沖合いの岩場まで潮流が見られたことが名の由来とされています。
澄み切った碧い海が美しく、日本屈指の透明度を誇る笹川流れ。11km続く海岸では、日本海の荒波の浸食によりできた奇岩、岩礁や洞窟など、変化に富んだ風景が広がり、豪壮な景観は国指定の名勝及び天然記念物となっています。笹川流れの美しい景色を堪能するなら、遊覧船は外せません。眼鏡岩、恐竜岩といった数々の奇岩が出迎える雄大な造形は圧巻です。約40分間の船旅では、途中カモメに餌付けをすることもでき、お子様も楽しめます。間近に迫るカモメはかなりの迫力です。
新潟県の県北村上市にある瀬波温泉は、日本海のそばにある開湯100年を超える温泉街です。明治37年に石油掘削中に熱湯が噴出したのが始まりです。 その豊富な湯量と別名「熱の湯」と言われる95℃の熱量を誇ります。 その昔、温泉噴出の前夜にお狐様がコンコンと鳴き温泉の噴出を予見したといわれます。
村上城は、標高135mの臥牛山に築かれた城で、築城年代は不明ですが、16世紀前期には城が存在していたものと考えられます。戦国時代には本庄氏の本拠地として、永禄11年(1568年)の上杉謙信との篭城戦など、幾たびも戦いが繰り広げられました。江戸時代に入ると、村上氏・堀氏・松平氏らの城主によって城の改造と城下町の建設が行われ、村上城は北越後の中心拠点として整備されました。その後も、たびたび城主が交代しますが、享保5年(1720年)以後は内藤氏が代々城主を務め、明治維新を迎えます。
現在、天守櫓・門などの城郭建造物は存在しませんが、城跡一帯には戦国時代に築かれた竪堀・虎口などの遺構と、江戸時代に築かれた石垣の遺構が混在して残り、その姿が貴重であるとして、平成5年に村上城跡は国史跡に指定されました。また、平成12年からは、破損がみられる臥牛山上の石垣を積み直す修理工事が開始され、現在も継続して工事が行なわれています。山麓から山頂までは徒歩約20分で、小鳥のさえずりと豊かな緑に包まれた城跡は、訪れた人の憩いの場となっています。
旧岩間家住宅は、東西方向に棟を持つ直屋・寄棟造りの茅葺き住宅で、平成7(1995)年に現在地に移築復原されました。建設当初は連棟式の長屋形式の住宅であったものを、安政5(1858)年に一戸建の武家住宅に大改造しました。茅葺き屋根の梁間が二間と小さく、背面の増築した下屋根が大きいことでも伺い知ることができます。
旧岩間家住宅は、現在の新潟県村上市飯野2丁目にあったものを現在地に移築復原したものです。旧所在地は、江戸時代に五軒町と呼ばれていたところで、町人町(細工町)と接していました。明治初年の城下絵図によると、この岩間家の位置に「須貝勝太郎」と記されていることから、もとはこの村上藩士・須貝勝太郎の屋敷であったと推測されます。なお、岩間氏の先祖は山形県の旧新庄藩の武士であったと伝えられており、この屋敷については昭和23年に取得し現在に至っていますが、住宅部分については村上市へ寄付されました。また、この岩間家住宅は平成4年9月21日に村上市の有形文化財として指定されましたが、茅葺屋根等の破損と老朽化が激しく、一時的な補修では建物の維持が図れないということから、同年12月に、移築復原を前提とした解体と部材の保存格納が行われました。
新潟県新発田市の郊外「まんだらの里」という宗教施設の中にある温泉パークが二王子スパークです。まんだらの里は龍王山天法輪教海寺という真言宗のお寺と二王子温泉病院という大きく立派な病院、ケアハウスやデイサービスセンター、二王子温泉公園などがある大きな施設です。
園内は池や庭園が続く公園で、怪しいと言えば怪しいけど落ち着いた雰囲気のある散歩コースになっていました。ところで一見したところどこにも温泉らしさはないのですが、ずっと奥に進むと「川蝉」という食事処&浴場がありました。玄関をあがってすぐにあるのが「あみだの湯」。こちらは岩風呂の露天風呂です。目の前には田んぼが広がり開放感もばっちりです。夏場だったのですが、かなりぬる目で一度入ると寒くてなかなか出られない程でした。
新発田城は、別名「あやめ城」とも呼ばれ、初代新発田藩主溝口秀勝侯が慶長3年(1598年)に築城し、3代宣直侯のときに完成しました。新発田城は一般に多くある山城とちがって、政治・経済の中心として交通の便利さを考え、平地につくった平城です。石垣がすき間なくかみ合うようにきちんと積まれる「切込はぎ」と呼ばれる美観を重視した技法でつくられ、白と黒が美しい海鼠壁で仕上げられています。 春の桜の季節、真冬の雪をすっぽりかぶった様子、四季折々の風情があります。
城の表門前に、すっと立っているのが堀部安兵衛の像。赤穂義士の討ち入りで中心的な役割を果たした安兵衛。像の顔は、しっかりと江戸を見つめています。新発田城はかつて本丸、二の丸、三の丸からなり、堀や石垣に囲まれ、新発田川の水を巡らせた平城で、11棟の櫓と5棟の門が並び壮観な景観を呈していました。中でも、天守閣の代わりを果たしていたのが三階櫓です。3匹の鯱を配するという独特の櫓で、全国にも例がない大変珍しいものです。平成16年には、この三階櫓、辰巳櫓が復元されました。
「表門」「旧二ノ丸隅櫓」は当時のままの姿で残され、国の重要文化財に指定されています。また、実質的な天守とされる「三階櫓」のほか「辰巳櫓」も復元され、日本100名城のひとつに選ばれています。全国で唯一、丁字型の屋根に3匹の鯱を配した三階櫓は自衛隊敷地内のため内部には入れませんが、その特徴ある外観は必見です。公開されている「本丸表門」、「旧二ノ丸隅櫓」や「辰巳櫓」ではじっくりと城の魅力を堪能できます。表門前には新発田出身の赤穂義士堀部安兵衛の銅像があり、その脇に立つ安兵衛茶屋では「御城印」や「日本100名城 城カード」の販売を行なっています。また、白と黒が美しい海鼠壁で仕上げられいる点も見どころのひとつです。新発田城は別名「菖蒲城」、「舟形城」、「狐尾曳ノ城」と呼ばれています。