四方山見物6

 



「アスピーテ」とは、楯を伏せたような形の火山を示す名称です。岩手と秋田の両県にまたがり、八幡平を横断する全長約27kmのドライブウェイで、茶臼岳の山腹を縫って走る道から南に岩手山が眺められ、樹林の中に青い湖沼やアオモリトドマツの枯れた木々が八幡平ならではの景観を作り出しています。4月中旬、冬期間の通行禁止が解除となる八幡平アスピーテラインは、まだ道路の両側に数mの雪が残り、「雪の回廊」となります。通行可能期間4月中旬から11月上旬。ただし、凍結の危険があるときは通行止めになることがあります。

 

 

 





十和田八幡平国立公園の一部である八幡平は、岩手・秋田両県にまたがり、奥羽山脈の脊梁を成す山を中心とする高原一帯と、その東の源太森・茶臼岳、南の畚岳・藤七温泉、西の蒸ノ湯・焼山一帯を含む総称として用いられます。アスピーテ型地形を成しており、ダケカンバやアオモリトドマツの樹海の中には八幡沼などの数々の火口沼、ニッコウキスゲやミズバショウなどの高山植物が、なだらかな散策道のまわりに広がります。また、雄大な岩手山の姿を望みながら大自然を満喫できる絶好のドライブコース「八幡平アスピーテライン」「八幡平樹海ライン」があり、県境には駐車場、レストハウスも完備されています。

 



 

雫石銀河ロープウェーは、街の夜景を見ながら、夜の空中散歩を楽しむツアー!晴れた夜には、闇夜に広がる満天の星の絶景スポットに☆山頂730mからは普段決して見ることのできない感動的な光景が広がります。曇りの夜も「300インチのスクリーン」へ雫石で撮影された星空を映写し、星空案内人の解説で星の世界へご案内しています。

 

 

小岩井農場は、岩手県岩手郡雫石町と滝沢市にまたがって所在する日本最大の民間総合農場です。東京都に本社を置く小岩井農牧株式会社が経営しています。宮沢賢治ゆかりのスポットとしても人気のある、日本最大級の民間総合農場。農場中心部にある観光エリア「まきば園」では、様々なアトラクションやグルメが楽しめるほか、一般非公開の生産現場などを巡るガイド付きツアーもあります。2017年2月には農場内の建造物21棟が国指定重要文化財に指定されました。

 

 

 







宮守川橋梁は、岩手県遠野市宮守町下宮守にある鉄道橋です。東日本旅客鉄道釜石線の鉄道用アーチ橋であり、国道283号と宮守川を跨いでいる。別称として、愛称の「めがね橋」があります。JR釜石線の通称「めがね橋」は、半円が五つ連なるアーチ橋で、正式名称を「宮守川橋りょう」と言います。JR釜石線の前身である岩手軽便鉄道は、宮沢賢治の童話「銀河鉄道の夜」のモチーフになったとされ、春、夏、冬の観光シーズンに緑色や橙色でライトアップされためがね橋は、道行く人を幻想の世界へと誘います。平成21年4月、恋人の聖地として認定されました。



 

鳥居をくぐり、山の小道を15分ほど登ると、杉林の小高いところに鳥居状の巨石の創造物に出会います。2つ並んだ石の上の、左側の方のみに幅7メートル、奥行き5メートル、厚さ2メートルほどの巨石が笹石として乗っています。「遠野物語」の第91話に出てくる奇石で、古代人の墓とも、武蔵坊弁慶が持ち上げて作ったともいわれています。柳田國男の『遠野物語拾遺』第11話に、この続石に関する伝説が集約されています。この不思議な石の造型は自然のものではなく、弁慶がこさえたものであるという。初め弁慶は近くにある別の石の上に、笠となる石を乗せた。ところが、乗せられた石は「自分は位の高い石なのに、その上に石を乗せられたままとなるのは残念である」と言って一晩中泣き続けた。ならばと弁慶は別の石を台石として、その笠石を乗せ直したという。そして泣き続けた石もこの続石のそばにあり、泣石と呼ばれている。またこれらの巨石がある場所に少しだけ開けた平地があるが、ここは“弁慶の昼寝場”と伝えられている。

 

遠野物語では弁慶が泣石という石に笠石をのせたら、泣石は自分は位の高い石なのに笠石の下になるとは残念と一晩中嘆いたので、弁慶はそれなら他の岩を台にしようと現在の台石の上に置きかえたと伝えられています(遠野物語拾遺)。またある鷹匠が続石で遊ぶ山男と山女のカップルを見かけ邪魔をします。するとその鷹匠は谷底に転落し3日後に山の神達の祟りで死んでしまうという話しも記されています(遠野物語九一)。

 



 

遠野ふるさと村は岩手県遠野市にある野外博物館です。1996年にオープンしたグリーンツーリズム実践施設です。森林や田園の広がる8.8ヘクタールの敷地に遠野郷に残された古い南部曲り家を移築して遠野の山里を再現しています。市内の「南部曲り家」を移築・保存し、懐かしい遠野の農村を再現した場所です。のどかな風景の中で「もちつき」「そばうち」「縄ない」など様々な農村体験が可能です。また、ふるさと村内には遠野の文化と伝統を守る「まぶりっと」がいて、農村体験のインストラクターもつとめ、やさしくサポートしてくれます。

 

 

岩手県陸前高田市にある高田松原津波復興祈念公園の一角に、ひときわ目を引く背の高い松が1本だけ立っています。高さは27.5メートル。東日本大震災の大津波を耐え抜いた「奇跡の一本松」です。この「名勝・高田松原」として多くの人に親しまれていた場所には、震災前、全長2キロメートルにわたる美しい松林が広がっていました。しかし、震災後に発生した津波は約7万本の松を一気になぎ倒し、陸前高田の市街地に甚大な被害を与えました。そこに一本だけ立ち姿のまま残っていたのが樹齢174年の黒松(赤松との交雑種)でした。震災後、瓦礫(がれき)の中に立つ一本松は「希望と復興のシンボル」としてメディアの注目を集め、世界的にも有名になった。しかし、2012年5月、その一本松は地盤沈下と海水によるダメージにより枯死していることが確認されました。

 



 

平泉町は岩手県南西部にある町です。西磐井郡に属しています。 平安時代末期に奥州藤原氏の本拠地があった町として有名です。当時は平安京に次ぐ大都市として栄えました。現在でも、中尊寺や毛越寺などの遺跡から、当時の繁栄を偲ぶことができます。

 

この中尊寺を造営された初代清衡公をはじめとして、毛越寺を造営した二代基衡公、源義経を奥州に招きいれた三代秀衡公、そして四代泰衡公の亡骸は金色の棺に納められ、孔雀のあしらわれた須弥壇のなかに今も安置されております。仏教美術の円熟期とも称される平安時代末期、東北地方の二度にわたる大きな戦いで家族をなくし、後にその東北地方を治めた清衡公が、戦いで亡くなってしまった全ての人々、そして故なくして死んでしまったすべての生き物の御魂を極楽浄土に導き、この地方に平和をもたらすべく建立した中尊寺の堂塔が古の栄華を今に伝えます。

 

金色堂は中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物で1124年(天治元年)、奥州藤原氏初代清衡公によって上棟されました。数ある中尊寺の堂塔の中でもとりわけ意匠が凝らされ、極楽浄土の有様を具体的に表現しようとした清衡公の切実な願いによって、往時の工芸技術が集約された御堂です。内外に金箔の押された「皆金色」と称される金色堂の内陣部分は、はるか南洋の海からシルクロードを渡ってもたらされた夜光貝を用いた螺鈿細工。そして象牙や宝石によって飾られています。須弥壇の中心の阿弥陀如来は両脇に観音勢至菩薩、六体の地蔵菩薩、持国天、増長天を従えておられ、他に例のない仏像構成となっております。

 

猊鼻渓は、岩手県の母なる河、北上川支流の砂鉄川沿いに、高さ50mを超える石灰岩の岸壁が、およそ2kmにわたって続く渓谷です。大正14年10月8日、国の史蹟名勝天然記念物に、名勝指定県内第一号に指定され、日本百景のひとつで、砂鉄川が石灰岩を侵食してできた約2kmの渓谷で、約100mの断崖が両岸にそびえています。流れは静かで、舟下りでは船頭が唄う「げいび追分」が響きわたります。



 



猊鼻渓~げいびけい~という名は、観光開拓の功労者である佐藤猊巌(さとうげいがん)をはじめ、地元有志によって、明治43年に命名されました。舟下りの折り返し点となる三好ヶ丘の奥、攬勝丘の対岸にそびえる大岸壁に突き出た「獅子(猊~しし~)ヶ鼻」が、その名の由来となりました。



 

 

岩手、秋田、宮城の3県にまたがる標高1626メートルの栗駒山。岩手県側では須川岳と呼ばれ、中腹に広がる須川高原では名湯が湯けむりを上げています。毎年5月に山開きが行われると、春から初夏にかけてはブナの新緑、夏は高山植物、秋は「神の絨毯と呼ばれるほどの美しい紅葉を求め、大勢の登山客が足を運びます。また、火山特有の景観や峡谷、湖沼、湿原と変化に富んだ風景が迎えてくれるのも、大きな魅力です。