四方山見物52

 

 

琉球王国とは、今から約570年前(1429)に成立し、約120年前(1879)までの間、約450年間にわたり、日本の南西諸島に存在した王制の国のことです。北は奄美諸島から南は八重山列島までの琉球諸島には、約3万2千年前から人類が住んでいたことがわかっています。琉球諸島には、先史時代を経て、日本の鎌倉時代に当たる12世紀頃から一定の政治的勢力が現れはじめました。各地に「按司(あじ)」とよばれる豪族が現れ、彼らが互いに抗争と和解を繰り返しながら次第に整理・淘汰されました。やがて、1429年尚巴志(しょうはし)が主要な按司を統括し、はじめて統一権力を確立しました。これが尚家(しょうけ)を頂点とする琉球王国の始まりです。



 

その後、琉球では独自の国家的な一体化が進み、中国をはじめ日本、朝鮮、東南アジア諸国との外交・貿易を通して海洋王国へと発展してきました。首里城はその海洋王国の政治・経済・文化の中心でした。琉球王国の歴史の中では、一度だけ大きな政権交代がありました。統一王朝が成立してから約40年後の1469年、伊是名島(いぜなじま)の農夫出身の金丸がクーデターにより政権を奪取し新王朝を開いたのです。金丸は前例に従い、また中国皇帝との関係にも配慮して尚王家を継承し、尚円王と名乗りました。このため、琉球王国の歴史では、この政権交代以前の王朝を「第一尚氏王統」、それ以後を「第二尚氏王統」と呼んでいます。

 

この第二尚氏王統は、初代国王尚円から数えて19代目の国王の尚泰時代まで(約400年)続きました。その間、1609年に日本の薩摩藩が3000名の軍勢をもって琉球に侵攻し首里城を占拠しました。それ以後270年間にわたり琉球王国の表向きは中国の支配下にありながら、内実は薩摩と徳川幕府の従属国であるという微妙な国際関係の中で存続していました。しかし、やがて日本の明治維新により成立した日本政府は、1879年(明治12)軍隊を派遣し首里城から国王尚泰を追放し沖縄県の設置を宣言しました。ここにおいて、琉球王国は滅亡しました。

 

琉球村は、沖縄各地にあった築100~200年を越える沖縄独特の貴重な赤瓦民家を移築し、昔ながらの沖縄の佇まいを再現した民俗村です。古き良き昔ながらの沖縄を感じさせてくれる琉球村園内には、のどかな風景が広がり、かつての沖縄の生活ぶりを見ることができます。水牛に砂糖車を引かせながらサトウキビを搾らせ黒砂糖をつくる製糖方法は、全国でも琉球村だけでしか見られない貴重な風景。歴史ある各民家で三線・紅型・琉球舞踊・織物・陶芸など色々な体験教室もあり、思いっきり沖縄文化を満喫しよう!ファミリー、カップルで沖縄旅行を計画中ならイチ押しの観光地です。

 

園内順路に進むにつれて懐かしい景色が広がり、時間がゆったりと流れている昔の沖縄を感じることができます。民家はどれも実際に住んでいたものを琉球村に移築したものばかりで、見るだけではなく屋敷内へはいってゆったりとくつろぐ事もできます。旧仲宗根家では、屋敷内に上がり冷たいお茶を飲むことができ、ゆったりと屋敷内から見える沖縄の風景を眺めていると、琉球衣装を着た住人たちによる昔ながらの沖縄の一日を再現するショーやエイサーを見ることができます。

 

旧花城家では、カラフルな色使いの紅型や琉球藍染めや沖縄の三線(三味線)の体験でき、琉球王府の重臣・与那原親方の大きな邸宅であった旧大城家には圧倒されます。そして、順路の最後には水牛に砂糖車をひかせてサトウキビを搾り、その汁を炊いて黒砂糖を作るという、昔ながらのサトウキビ製糖風景も間近で見ることもできます。昔ながらの沖縄の文化を体験するだけでなく、昔ながらの沖縄と一緒に思い出の記念写真がオススメ!琉球村園内コースに沿って歩いていくと、旧大城家の赤瓦民家近くにあり、赤瓦をバックに撮影するのがポイント。貸衣装は500円から借りることができ、自分のカメラで自由に撮影することができます。

 

琉球村出口にある「うちなー食堂」では、沖縄の駅・ちゃんぷるーというドーム型施設内にあり、何と言っても人気メニューは「沖縄そば定食」です。沖縄そば・沖縄風炊き込みごはん・沖縄県産もずくなど、沖縄らしい料理が味わいながら11~15時の間に4回行われる無料の芸能ショーを見ながら食べることもできます。他には「てびちそば定食」。コラーゲンたっぷり含まれる“てびち”は美容に良いといわれ女性に大人気のメニューです!



 

琉球村は沖縄の文化や芸能を体験できるテーマパークです。古民家が立ち並び、そこここで伝統音楽や踊りなどが披露されており、琉球王国時代から受け継がれている沖縄の文化を体験することができます。シーサーへの絵付けや三線の弾き方を習うなど、参加型のアトラクションもあり、じっくり楽しく沖縄文化を学ぶことができるでしょう。

 

エイサーとは太鼓、踊り手で地謡(ジカタ)という三線弾きに合わせて囃子(ハヤシ)をたてて踊る、沖縄の伝統芸能のひとつです。琉球村のエイサーは大太鼓を中心に構成されていて、迫力満点。観客との距離が近いので「ドン!」と鳴り響く鼓動までも体感することができます。演舞の最後には「カチャーシー」といったお客様も参加できるフリースタイルの踊りもあるので、ぜひ一緒に楽しんでみてください。

 

沖縄のユニークな伝統文化を体験できるプランが盛りだくさんあります。沖縄の伝統衣装を着て写真を撮ったり、シーサーの色付けや手ごねシーサー作り、さらには貝殻をつかったおしゃれなフォトフレーム作りなどなど、アイデアとセンスで自分らしさあふれる沖縄のお土産を作りましょう。簡単に作れるものが多いので、小さなお子様から楽しめます。園内全体を使った宝探しゲームや謎解き脱出ゲームといった定番アクティビティのほか、冬至やお正月など沖縄での慣習を取り入れたイベントが季節ごとに開催されるので、何度足を運んでも新しい発見があるでしょう。また、アーティストを招いたライブもあり、いつ出かけようか迷うほどです。

 

沖縄の歴史や文化に触れることができる琉球村は本島北部の恩納村にあり、沖縄の昔ながらの古民家や伝統芸能を楽しむことができる観光施設です。沖縄旅行で初めての方や、沖縄の魅力をもっと知りたい方におすすめです。かつて沖縄は、「琉球王国」という400年以上続いた国でした。その王国で育まれた文化を伝承すべく、1982年に誕生した大型観光施設が「琉球村」です。

 

那覇から車で北上すること約1時間の恩納村に9万5千平方メートルもの広大な敷地を有する琉球村には、国の登録有形文化財に指定された琉球古民家や泡盛の酒造所、水牛が働く製糖工場などが集まり、琉球王朝時代から続く文化を私たちに伝えてくれます。「琉球村」を「100年先まで残したい」場所に選んだのは、恩納村を代表するリゾートホテル「ホテルモントレ沖縄 スパ&リゾート」の田中司支配人です。「多くの観光客が訪れる恩納村においても、ひと際賑わっているのが琉球村です。いつでも沖縄の歴史や自然、芸能を体感できる貴重な場所です」と、魅力を語ります。

 

沖縄にはたくさんの観光スポットがあるなか、長年高い人気を維持している琉球村です。なぜそれほど多くの人を魅了し続けているのか、その理由を探しに行きました。新型コロナウイルス感染症の影響があり、2022年1月の時点で体験メニューはストップされていますが、ちょっとしたアトラクションは実施中。例えば「旧玉那覇家」は大きな土間を備えており、スタッフさんがお茶を振舞ってくれていました。「琉装」と呼ばれる琉球の伝統衣装に身を包んだスタッフが、「ひじるーちゃーぐぁ、うさがみそーれー(冷たいお茶を召し上がれ)」と、うちなー言葉で話しかけてくれました。

 

琉球村で働く人は、格好を真似するだけでなく沖縄の歴史もしっかり勉強しなければいけないとのこと。今ではあまり聞かなくなった「うちなー言葉」も難なく話せる方が多いそうです。園内の施設もスタッフも徹底して「昔の沖縄」を演出していることに、感動すら覚えます。家の中に目を向けると、いたるところにかごや時計などの古道具が飾られ、往時の暮らしがしのばれます。暑い沖縄の夏でも涼しく過ごせる知恵なのでしょう、仕切りのない広々とした造りの畳間に、風がスーッと吹き抜けます。

 

こちらは広々とした土間。薪をくべて火をつけるかまどは全国的にほとんど同じだと思いますが、右の隅に並んでいる小さな白い器は、「ヒヌカン(火の神)と呼ばれるかまどの火の神様を祀っている道具です。こちらでは、毎月一日と十五日に拝む習わしをしっかり守っているそうです。琉球村の古民家には、昔の沖縄を学びに沖縄の小学生などが社会科見学に訪れることもあるとのこと。それだけ沖縄でも貴重な場所なのです。次に立ち寄った場所が、1902年創業の「咲元酒造」という老舗泡盛メーカーの酒造所です。那覇からこちらに2020年に移転しました。

 

かねてより沖縄の文化の一つである泡盛を、自社で製造したいと模索していた琉球村です。そんなとき、咲元酒造が出荷量減少や工場の老朽化から廃業を考えているという話が耳に届きます。そこで「ぜひ一緒に」と、咲元酒造へ提携と移転を打診しました。晴れて2020年に新しい工場が完成し、オリジナルの泡盛製造に力を注ぐことになりました。泡盛工場見学の後は、園内の一番端、ジャングルのような林の中を進んだ先にある施設「きじむなぁ劇場」へと向かいました。こちらでは毎日2回、エイサー演舞が開催されています。

 

エイサーは旧盆に行われる沖縄の伝統行事で、琉球村ではオリジナルのエイサーとともに、琉球舞踊も披露されています。「ドンドン!」と、胸に響く太鼓の音と、「イーヤーサッサ!」という勇壮な囃し言葉、そして大きな太鼓をものともしない軽やかな動き。後ろでは三線が演奏され、否応なしにテンションが上がります。演舞が終わったら、テンポの早い沖縄民謡に合わせて手を振りかざして踊る手踊り「カチャーシー」が始まります。宴席のクライマックスとして踊られることが多いカチャーシーは、大団円への合図。一緒に踊りだす見物客も多く、賑やかな幕引きとなりました。

 

園内をぐるっと見学し、エイサーを見終わるまでの時間はおよそ1時間半です。その後は園外に出て、お土産ショッピングタイムです。このエリアは園内へ入場しなくても自由に無料で利用できます。沖縄伝統の焼き物「やちむん」工房などのお店だけでなく、陶芸やシーサーの色付けなどの体験施設、レストランがずらりあります。屋根付きなので、雨の日でも安心して買い物や食事を楽しめます。琉球村おすすめのお土産は、泡盛コンテスト2019年金賞受賞した3年古酒と5年古酒。先ほど立ち寄った咲元酒造製の古酒で、ここでしか販売していない限定品とのこと。甘く濃厚な飲み口が特徴です。もう一つのおすすめは、こちらも琉球村オリジナルの絵付けシーサーセットです。シーサー、アクリル絵具、筆、パレットなどが一式揃っていて、すぐに自宅で絵付けを楽しめます。お子様の自由研究にぴったりとあって、夏休みは特に大人気です。

 

沖縄は旧盆、エイサーの季節です。今年もまた沖縄にエイサーの季節が訪れました。エイサーとは、本土の盆踊りにあたる沖縄の伝統芸能のひとつ。主に各地域の青年会がそれぞれの型を持ち、旧盆の夜に地域内を踊りながら練り歩く、道ジュネーを行う。元々エイサーは、祖霊をお送りするウークイの日の夜に踊られていました。年々エイサー熱は高まり、祖先崇拝などの信仰の意味合いのみならず、娯楽的な要素を持った沖縄の伝統芸能として各地で競い合って踊られるほか、アクロバティックな振り付けを施した創作エイサーなども生まれています。琉球村で毎日上演されるエイサーは、青年会の伝統エイサーを踏襲したスタイルです。

 

男女に好まれたアシビ歌(恋歌)の「海やから」がエイサーの定番曲に今回は、琉球村でも踊られるエイサーの定番曲「海やから」について解説します。「海やから」は、糸満市真栄里に残る「ドンドンガマ」という名の洞窟を舞台とする恋歌。「むかし、魚捕りの巧みな他シマ(よそ者)の青年「海やから」に、部落の美童(美しい娘)が惚れこみ、ドンドンガマ(洞窟)で夜な夜なあいびきを重ねていた」というストーリーです。

 

海やからーに惚りてぃ 夜ぬ明きし知らん 如何し親加那志 御返事さびが(訳:海やからに惚れてしまって、夜が明けるのも知りませんでした。親にはどのように言い訳しましょうか)糸満市真栄里では、旧暦8月16日に行われる綱引きのときに、この歌詞で踊られます。明るく華やかな曲調から、多くの人々に親しまれ、現在も歌詞を変えて各地のエイサーなどで歌われています。沖縄文化や芸能の体験施設。昔ながらの琉球古民家が立ち並ぶ園内は古くからの沖縄の雰囲気を再現しており、映画などのロケに使われることも多いです。伝統工芸製作などの各種体験プランや、エイサー演舞などのアトラクションの他、併設のドーム型施設「沖縄の駅ちゃんぷるー」では食事やショッピングも。雨天時でも楽しめるものが多いのも特徴です。

 

琉球村には約200年前の赤瓦屋根の古民家が移築されており、中に入って見学することができます。古民家では沖縄の伝統工芸品や民具なども展示されており、昔の生活様式を見ることができます。また、工芸体験ではオリジナルのシーサー色付けやアクセサリーなども作ることができます。琉球村では毎日伝統舞踊のエイサーが披露されます。エイサーは沖縄の盆踊りで、太鼓や三線を使って踊ります。エイサーは観客も一緒に参加できるので、沖縄の音楽やリズムに合わせて踊ってみてはいかがでしょうか。琉球村は沖縄の昔ながらの風景や文化を感じることができる場所です。沖縄旅行で本島北部に行く機会があれば、立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

 

「那覇市」は、沖縄県の県都として、人口32万人余を有する政治・経済・文化の中心地です。また首里台地(標高165m)から東シナ海に面して、ゆるやかに傾斜した平野部を背景に、古くから港が整備されるなど、海外との交流拠点として、「琉球王国」文化が華ひらいた街です。気候的には、暖かい黒潮の影響もあって、冬でも暖かく、夏は、四方の海から吹く風が吹き抜ける、年間の平均気温差が少ない、すごしやすい土地です。先のアジア太平洋戦争末期の沖縄戦では、街は焦土と化しましたが、1972年の日本復帰を経て、多くの県民市民の努力と協力によって、現在の那覇市へと発展してきました。

 

21世紀をむかえ、那覇市は、沖縄都市モノレール・中心市街地及び新都心地区を核としたまちづくりを展開しています。また市民との協働のまちづくりや次代を担う子どもたちの育成を中心とした諸施策を展開し、風格ある県都としての新たな那覇市の実現をめざします。昔の那覇は、那覇川(現国場川)、安里川の注ぐ湾に浮かぶ島”浮島”でした。1451年尚金福が長虹堤を築いて那覇と崇元寺の前を結ぶに至って首里との交通の便が開け、泊や那覇港の繁栄につれて若狭町、泉崎を含めるようになり、那覇四町(西、東、若狭町、泉崎)と呼ばれる町を形成するようになりました。「唐、南蛮寄り合う那覇泊」と歌われた那覇は、海外貿易の窓口として発展し、商都としてにぎわいをみせました。19世紀に入ってからは西洋諸国の異国船が来航し、日本開国の前年の1853年にはペリー提督が那覇に上陸しました。1879年(明治12年)の廃藩置県により、那覇に県庁が置かれたことにより、首里に代わって沖縄県の政治・経済・文化の中心地となりました。



同年、泊、久米、久茂地を編入し、近代那覇の行政区域の基盤ができ、1896年(明治29年)特別区制の施行により、那覇区となりました。1903年(明治36年)土地整理事業の完了にともなって真和志より牧志、小禄より垣花を編入し、さらに1914年(大正3年)には、壺屋を真和志村から、そして新たに、埋立てた旭町を加え、また町名を設定して24ケ町となりました。1921年(大正10年)5月20日、特別区制が廃され、他府県同様の一般市制が施行され、那覇は、市となりました。こうして沖縄県の県都として栄えた那覇市は、太平洋戦争末期の1944年(昭和19年)10月10日の大空襲で市域の90%を焼失、さらに引き続く沖縄戦によって完全な焦土となり、多年にわたって築いたまちは灰じんに帰しました。

 

戦後那覇は、米軍の全面占領下にあり、立入禁止区域となっていましたが、1945年(昭和20年)11月産業復興の名目で陶器製造産業先遣隊が壺屋一帯に入域し、1946年(昭和21年)1月3日付けで糸満地区管内壺屋区役所が設置され、那覇復興が始まりました。その後民政府などの中央機関が漸次那覇に移転し、1949年(昭和24年)12月9日、米軍政長官シーツ少将は、那覇を沖縄の首都とすると発表。その後、旧那覇市街が漸次開放されるようになり那覇は、再び繁栄をとりもどしました。1950年(昭和25年)8月1日みなと村を編入、さらに1954年(昭和29年)9月1日、首里市、小禄村を合併しました。

 

1956年(昭和31年)には、立法院で首都建設法が制定され那覇は沖縄の首都として整備されることになり、1957年(昭和32年)12月17日には懸案の真和志市との合併を実現していっそうの発展をとげました。1972年(昭和47年)5月15日、多年の要求であった祖国復帰が実現し、日本国憲法が適用される中で、那覇は沖縄の県都として都市基盤が一層整備され、今日人口32万、市域面積39.98平方キロメートルの近代都市となっています。現在、2018年(平成30年)に制定された第5次総合計画「なはで暮らし、働き、育てよう!笑顔広がる元気なまちNAHA~みんなでつなごう市民力~」に沿って、21世紀にふさわしい都市の実現に取り組んでいます。那覇市は、沖縄県の県都として人口30万人以上を有する中心地です。歴史的にも海外との交流拠点として発展した街でもあります。

 

都会的な町並みの中には、首里城跡などの文化遺産が数多く点在する観光都市です。那覇市には琉球王国に由来する文化や史跡が数多く残されており、平成12年に「琉球王国のグスク及び関連遺産群」として世界遺産登録された文化史跡9カ所のうちの4カ所や、それに関連する歴史的建造物や拝所・霊廟、民俗文化、風習などが存在します。一方、市内中心部の国際通りは第二次大戦後の復興のシンボルとして市民の生活文化の中心であり、現在は県内有数の観光地でもあります。市内で開催される行事は、那覇三大祭りである那覇ハーリー、那覇大綱挽、琉球王朝祭り首里などの伝統的な祭りの他、国際通りで開催されるエイサー大会や王朝行列、スポーツ大会など参加型のイベントも多くあり、古の沖縄を体感できる伝統的なもの、参加型のもの、市民が主役となる祭りなどが積極的に開催されています。

 

また、水鳥などの野鳥が集まる貴重な環境としてラムサール条約に登録された漫湖湿地帯や、海水浴やダイビングが楽しめる波の上ビーチの他、泊埠頭から容易にアクセスが可能な慶良間諸島などの周辺離島もあり、都市部ながらも自然体験を主目的とした観光も可能です。これらの人文資源、自然資源のほかにも、那覇市には歴史や風土に培われた文化・伝統、沖縄の自然と共生しつつ発展してきた都市環境、那覇ならではの伝統工芸や生業、そこに生活する市民のマチグヮー文化などの「生活文化資源」が多く存在する那覇市へめんそ~れ!!沖縄県は、北緯24~28度、東経122~133度の海上に弧を描いて連なる島嶼県で、有人島39島を含む160の島嶼で構成されています。亜熱帯気候であるため温暖であると共に湿度が高く、台風の通過ルート上にあり年間の晴天率が低い特性を持ちます。那覇市は、沖縄県で最大の島である沖縄本島の南部西海岸に位置し、1,500kmの円周域に東京、香港、ソウル、北京、マニラなどの国内外の主要都市を含むため、古くより東南アジアの各都市を結ぶ交通通信の要衝地点であり、アジア諸国との交易拠点として発展しました。

 

現在は、沖縄県の政治・経済・文化の中心かつ人口最大の都市で、都市化に伴い周辺地域のベッドタウン化が進んでいますが、人口は約32万人程度で微増を続けています。市域面積は39.27km²で、人口密度は8,051人/km²(平成22年国勢調査確報値)と、県庁所在地では東京特別区、大阪市、横浜市に次いで4番目に高くなっています。平成25年4月1日をもって全国で42番目の中核市に移行しました。市の西側は東シナ海に面し、南北および東側は他の市町村と隣接しています。中心市街地がある中央部はほぼ平坦な地形で、これを取り囲むように小高い丘陵地帯が展開しています。交通アクセスの面では、空路では那覇空港、海路では那覇港、那覇新港、泊埠頭を有することから「沖縄の玄関口」であり、離島への中継地としても重要な位置づけにあります。近年は地勢を活かし、那覇空港に国際貨物基地(沖縄貨物ハブ)が構築されたことから、アジア周辺国との商業貿易拠点として国内外から注目を集めています。



東シナ海と太平洋の間に南北に延びる沖縄本島。その西側にある海岸沿いには東シナ海に沈む美しい夕日を眺められるおすすめスポットがいくつもあります。にぎやかなビーチ、静かなビーチ、自然のままの断崖絶壁、ビーチに面したレストランなど、場所は様々です。家族で、カップルで、友達同士での旅の途中で、キラキラと輝く海と夕日を眺めながらのんびり過ごしてはいかがでしょう。自然のままの海岸には足下の悪いところもあるので、特に日が暮れてからは注意して歩いてください。沖縄本島の中央部、恩納村にある万座毛は東シナ海を臨む琉球石灰岩の断崖。海に沈む夕日が美しい絶景スポットとして有名です。絶壁の崖の下には透き通った海が広がり、崖の先には象の鼻の形をした岩があるのが特徴。この向こうに日が沈む頃には海の色がエメラルドグリーンからオレンジ色へと変化し、沖縄はもちろん日本でも屈指と言われるほどの美しさです。2020 年には万座毛周辺活性化施設がオープンし、展望台等も整備されました。人気の場所なので、早めの時間に行くことをおすすめします。

 

本部半島の西側、人気のある沖縄美ら海水族館で知られる海洋博公園内にあるエメラルドビーチ。コーラルサンドの美しいビーチです。美ら海水族館から歩いて 7 分、海洋博記念公園の一番北側にあります。その名の通りエメラルドの海と白い砂浜が特徴で、目的別に「遊びの浜」、「憩いの浜」、「眺めの浜」の 3 つの砂浜に分かれており、夕日を見るには「眺めの浜」が絶好のポイント。沈む太陽の位置は季節によって変わりますが、夏場にはビーチ正面の伊江島に沈む夕日を見ることができます。

 

アラハビーチは、北谷町の安良波公園内にあるアメリカンな雰囲気漂う全長 600 m のロングビーチ。アメリカンビレッジから歩いて行ける距離にあります。海岸沿いにはヤシの木が風にそよぎ、オープンテラスのカフェやバーがたくさんあります。隣接する公園には船を模した大きな遊具もあり、昼間は様々なマリンスポーツを楽しむことができる整備されたビーチですが、西向きの海岸は夕日を見るのに絶好のポイント。目の前に島などの遮るものもないので、東シナ海に沈む美しい夕日をのんびりと満喫できます。