四方山見物45

 



愛媛県は、四国の北西部一帯と、瀬戸内海に浮かぶ小さな島々からなります。県庁所在地の松山市内には、1600 年代に建立された松山城があります。緑豊かな高台にあるこの城は、ロープウェイかリフトで登ります。道後温泉は日本最古の温泉のひとつで、その中心には 19 世紀に建てられた道後温泉本館があります。「愛媛」の名称は、国生み神話に登場する女神「愛比売」の名に由来するもので、県名としては全国で唯一、神の名前が付けられています。イザナギとイザナミによる国生み神話において四国は2男神・2女神の島として誕生し、伊予国(現在の愛媛県)に宿ったのが女神の一人「愛比売」とされました。

 

愛媛県は、瀬戸内海、宇和海には大小200余りの島々があり、海、山両方の豊かな自然に恵まれています。 気候は穏やかで、人口は約143万人(全国26位)、面積は5,678km2(全国25位)。 柑橘をはじめ海産物など特産品は豊富で、特にいよかんは生産量全国1位を誇っています。愛媛県は,1873(明治6)年2月20日,石鉄県と 神山県が統合されて誕生しました。 伊予国は藩政時代に八つの藩に分かれていましたから,県名を付ける際,ある特定の藩名や都市名を県名として採用するというわけにはいきませんでした。

 

愛媛県は、日本一細長い佐田岬半島を境に瀬戸内海と宇和海の二つの海に面しています。瀬戸内海側は、海に面して道後平野(松山市など)や道前平野(新居浜市、西条市など)が広がり、宇和海側は、出入りの多いリアス式海岸になっています。瀬戸内海・宇和海には200余りの島々があり、海岸線の長さは全国5位(約1,700km)、宇和海南部ではサンゴも見られます。南側に接する高知県との境付近には、西日本最高峰の石鎚山(1,982m)をはじめとする四国山地がそびえており、海・山両方の自然に恵まれています。気候はおだやかで、災害も少なく、住みやすい地域と言えます。



四国中央市新宮町にある新宮茶をテーマにした施設「霧の森」は、山間に霧が立ち込める新宮は日本有数のお茶処で、その茶は香り高く滋味漂う野性的な渋みが特徴です。大自然に囲まれた施設内には、古民家のようなくつろぎの空間のカフェや山の幸を活かした料理でもてなすレストランがあり、工夫を凝らしたオリジナル料理やスイーツを味わえます。また、天然温泉や山小屋風の木の香薫るコテージもあるので、泊まりがけでゆっくり過ごす事もできます。あふれる緑と清流・馬立川にぐるりと囲まれた異次元の癒やし空間で、新宮町ならではの空気を感じる事ができます。

 

道の駅霧の森は、名産の新宮茶や霧の森大福を販売する菓子工房を始め、新宮茶を使ったお菓子や料理を味わえる茶フェや、新宮茶の飲み比べ体験ができる新宮茶体験コーナー、レストランなどが揃っている道の駅です。温泉やコテージも併設されており、のんびりと日ごろの疲れを癒すことができます。道の駅の周りを流れる清流馬立川のほとりには緑が広がり、新宮のゆったりした空気を感じられる安らぎの空間となっています。都会の喧騒から離れ、美しい水と空気と緑に囲まれた別世界でリラックスできます。

 

新宮街道観音像は、新宮村の歴史に因んで観音文化の象徴として設置されました。設置後に政教分離に反するとして住民訴訟が起き、村長が敗訴しました。当時は、全国放送の報道特集でも取り上げられました。観音像の上にあるのは高知道です。現在は、新宮 IC の近くにある宝乗寺のものになっています。観音像は、道の駅霧の森 旧新宮村(現・四国中央市新宮町)などが出資した第三セクターの運営する観光施設「霧の森」に建立されました。しかし、日本国憲法の政教分離の規定に反するとして裁判になり、2001年4月、憲法違反であるとの判決が出ました。松山地裁は、法橋信一村長らに建設費1545万円の返還を命じました。



 

瀬戸内しまなみ海道は、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ全長約60kmの自動車専用道路で西瀬戸自動車道、生口島道路、大島道路からなります。この道路は、尾道市の一般国道2号バイパス及び今治市の一般国道196号バイパスに接続し、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々を橋で結びます。新尾道大橋以外の各橋には、原動機付き自転車道及び自転車・歩行者専用の道路が整備されていて、眼下に多島美を眺めながらサイクリングも楽しめます。西瀬戸自動車道は本州四国連絡橋3ルートのうち一番西側に位置し、広島県尾道市と愛媛県今治市を結ぶ延長46.6kmの自動車専用道路で、一般国道317号の新設・改築事業として建設されました。

 

本ルートは尾道市の一般国道2号バイパス及び今治市の一般国道196号バイパスに接続し、瀬戸内海に浮かぶ芸予諸島の島々を橋で結びます。道路名は「西瀬戸自動車道」といいますが、「瀬戸内しまなみ海道」の愛称でも親しまれています。西瀬戸自動車道は当初1973年(昭和48年)に他のルートとともに着工される予定でしたが、同年の石油ショックによる政府の総需要抑制策の一環として着工が延期されました。その後1975年(昭和50年)に、このルートについて各橋梁の地域開発効果、工事の難易度などを勘案し着工方針が決められ、1999年(平成11年)5月1日、大三島橋の着工以来四半世紀の年月をかけて、ルートの全橋が完成供用されました。



また生口橋、大島島内の道路については一般国道317号生口島道路(6.5km)、一般国道317号大島道路(6.3km)として国土交通省により整備され、2006年(平成18年)4月に暫定開通し、全長59.4kmの瀬戸内しまなみ海道は着工から31年を経て全体が結ばれました。西瀬戸自動車道の沿線地域では、瀬戸内海特有の温暖で少雨の気候をいかした、みかんを代表とする柑橘類中心の農業、造船業などが営まれています。また、古代からの歴史ある島々や美しい多島景観を活かした観光産業も盛んです。西瀬戸自動車道は、瀬戸内沿岸西部の交通・輸送条件の改善、関連地域の産業の振興のほか、この道路が通る向島、因島、生口島、大三島、伯方島、大島、馬島等の総計約8万人の人口を有する島しょ部地域の生活改善などにも大きな役割を果たしています。

 

西瀬戸自動車道の建設地点は芸予諸島の多島海景観が広がる景勝地で、瀬戸内海国立公園第2種,第3種特別地域及び普通地域に指定されています。このため、道路や橋梁の設計・施工に当たっては、自然環境を保全し、周辺の自然景観との調和に十分配慮する必要がありました。各橋梁を計画する際には自然環境の保全に配慮し、地形改変を極力避けることが考えられました。西瀬戸自動車道の各橋には、そのほとんどに自転車歩行者道とバイク道(125cc以下)が併設されています。設置場所は橋により、補剛桁内部、車道の両側などさまざまで、橋の両端に設けられた連絡道路から出入りします。橋を渡りながら、眼下に瀬戸内海の多島美が織りなす絶景を望むことができます。

 

このほか、沿線の島々では広島・愛媛両県により自転車道の整備が進められてきました。西瀬戸自動車道の橋梁の自転車歩行者道とこれらの自転車道を合わせると、その延長は約80kmに及びます。車道の路側には推奨ルートを明示するブルーラインと距離標の路面標示整備がされています。また、宿泊施設を備えたサイクリングターミナル「サンライズ糸山」他、沿線各地にレンタサイクルターミナル施設が設置されており、乗捨てサービスなどを活用すると自由なコースでのサイクリングを楽しめます。島と島、本州と四国を結ぶ自転車歩行者道は、島しょ部住民の通勤、通学の生活道路としてはもちろん、島内観光用のサイクリングロードとして幅広い層に利用されています。



瀬戸内海は、日本で最も大きな内海です。本州・四国および九州に囲まれ、紀伊水道と豊後水道で太平洋に、関門海峡で日本海に開いています。領域内には大小約 700 の島々が存在します。日本で一番大きな内海「瀬戸内」は、大阪府、和歌山県、兵庫県、岡山県、広島県、山口県、香川県、徳島県、愛媛県、福岡県、大分県に面しています。 日本初の国立公園に指定されたように素晴らしい景観から新鮮な魚介類の食に至るまで魅力がたくさんあります。瀬戸内海は、世界有数の閉鎖性海域で、本州・四国及び九州によって囲まれており、700を超える島々(外周が0.1km以上のものは727島)と6,760km(地球の半径とほぼ同等)にも及ぶ長い海岸線を有しています。大きさ等は以下に示すとおりです。また、東は紀伊水道、西は豊後水道及び関門海峡によって、太平洋、日本海と連なっています。



本州と四国の間で東西に広がる瀬戸内海は、昭和9年に我が国最初の国立公園の1つに指定されました。大小1,000あまりの島々が浮かび、とても美しい景色です。しかし、1万年くらい前の瀬戸内海の景色はまったく違っていました。瀬戸内海では、かつては底引き網を使って魚を捕っていました。このとき、2万年以上前に生きていたナウマンゾウやスイギュウ、シカといった動物の化石が網の中に入ることがありました。約8万年前から1万5,000年前まで、地球全体は最終氷期にあたり、とても寒い気候でした。海が凍りついていたので、海面の高さは今よりも130mほど低く、日本は大陸と地続きで瀬戸内海も陸地でした。ですから、大陸に棲んでいたナウマンゾウなどの動物たちは歩いて日本にやってきていたので、死んで骨になったあと化石化したものが瀬戸内海の海底に残されたのです。

 

海底の起伏をみてみると、水深約15~20mの広い平らな面があり、その真ん中辺りに幅約1km、水深50m前後の水路状のくぼみがあります。東西方向に長く延びていることから、これが大きな川の跡だと想像できます。この川を流れる水が、紀伊水道と豊後水道から太平洋へ流れ出していたのでしょう。今では瀬戸内海に浮かぶ島々も、当時は平原を見渡せる小高い丘の頂上だったのです。約1万5,000年前、最終氷期の終わり頃になると気候も次第に温暖になり、1万2,000年くらい前には温暖な後氷期になります。最近の炭素14年代測定の結果では、縄文時代草創期の青森県大平山元I遺跡出土の土器に付いた炭化物を測定したところ1万5,500年前頃の数値が出ています。残念ながら、岡山県では草創期の土器は出土していません。しかし、内陸部だけでなく沿岸部でも槍に使われた有茎尖頭器〈ゆうけいせんとうき〉が出土していることから、旧石器時代から続いて、草創期に平原で狩りなどをして人々が生活していたのは確かでしょう。

 

貝塚には、縄文人が食べた食べ物のかすや使った土器や石器といった道具などが捨てられています。特に「貝塚」の名前のとおり貝殻が多く捨てられています。瀬戸内市にある早期初め頃の黄島貝塚や黒島貝塚では、貝塚の深いところからは河口に棲むヤマトシジミが、浅いところからは遠浅の海に棲むサルボウやハイガイ、カキが出土しています。地表から深いところにあるものが、浅いところにあるものよりも古いはずですから、貝の種類がヤマトシジミからサルボウなどへ変化するということは、貝塚が作られ始めた時には近くに河口があったのに、次第に遠浅の海が広がり始めたことを示しています。黄島貝塚や黒島貝塚のヤマトシジミを炭素14年代測定したところ、約8,500年前の数値が出ています。このことから、それまで平原であった土地が約8,500年前から徐々に海水が入ってきて海が広がっていき、現在の風景に近い姿になっていったと考えられます。

 

瀬戸内海に海水が広がってきたことによって、植物はなくなり、植物を食べていた動物も平原から姿を消していきます。これまで、狩りや植物採集で生活していた縄文人たちも、食生活や生業を変えていかざるを得なくなり、生活場所も移動しなくてはならなくなっていきます。しかし、瀬戸内海は新たな魚介類をはじめとして海藻や塩といった豊富な海産資源を提供してくれました。縄文人たちも海産資源を積極的に活用していき、これ以降岡山だけでなく瀬戸内に住む人たちの主たる生業を支えてくれています。

 

松山市は四国で一番人口の多い都市で現在の人口は51万人を超えています。 またコンパクトシティ構想により商業施設や道後温泉、松山城、松山総合公園などの文化施設が集中して立地しており、スポーツ施設の充実、整った交通環境などに加え、温かみのある人が多い魅力的な都市です。松山市は住みやすいまちです。 日本最古の温泉である道後温泉や松山城といった歴史的資源はもちろん、夏目漱石の坊ちゃん、俳人 正岡子規をはじめとすることば文化、おもむきのある路面電車など歴史や文化の薫りがただよっていま す。 また、島しょ部の美しい風景や、瀬戸内海でとれる海の幸や山でとれる山の幸も豊富です。

 

400年前、戦国武将・加藤嘉明は松山平野を見晴らす勝山に城を構え、「松山」と名付けます。 暴れ川だった湯山川(現・石手川)の流路を南に移して天然の外堀とし、城下町を形成し大きく発展しました。 松山城天守閣からは三津を望めます。 往時の建物は僅かですが、地割りはほぼ江戸時代のままです。愛媛県松山市と言えば、正岡子規、夏目漱石、司馬遼太郎など文学人が愛した趣のある街並みと、日本最古の温泉として名高い「道後温泉」が有名です。 また、松山市のシンボルとも言える「松山城」は歴史的価値も高く、城下町の街歩きも楽しめます。





松山市は、穏やかで美しい瀬戸内海に面しており、一年を通じて気候が温暖で雨の少ない過ごしやすい地域です。利便性に優れた街の西側は海、東側には山があり、都会の快適さと田舎ののどかさの両方を合わせもっています。四国松山へのアクセス方法はさまざま。広島や京都などの都市からも、実はあっという間に訪れることができます。また、東京からも飛行機で僅か1時間半。また、各玄関口から市内や主要観光地までのアクセスも良好なコンパクトシティなので、充実した旅の時間が楽しめること間違いありません。

 

日本最古の名湯といわれる道後温泉をはじめとする温泉や、近代俳句の礎を築いた正岡子規の存在などもあり、「いで湯と城と文学のまち」と言われているほど文化的魅力が豊富。市の中心には、全国でも貴重な江戸時代から残る天守を有する松山城があり、その麓に広がる町には、城下町の文化が息づいています。古くから四国遍路のおへんろさんを迎えてきた町らしく、旅人を温かく迎え入れる「おもてなし」も息づいています。



松山城は、愛媛県松山市に築かれた日本の城です。別名金亀城、勝山城。松山城と呼ばれる城は同じ現存12天守の一つである備中松山城など各地に存在します。本城も「伊予松山城」と呼び分けられることもありますが、松山市にあることもあり、単に「松山城」とした場合は一般的に本城を指します。松山市中心部の松山城は、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明が1602年から築き始め、約四半世紀かけて完成したお城です。国指定の史跡で、現存12天守の一つを有しており、天守からの眺めはミシュラン・グリーンガイド・ジャポンの1つ星に選定されています。

 

松山城は江戸時代以前に建造された天守を持つ城で、1602年から築城を開始し、約四半世紀かけて完成しました。市内中心部に位置し、天守の最上階からは松山平野や瀬戸内海などが見渡せます。二之丸から本丸にかけては 韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」があり、南側はほぼ完璧な状態で残っています。堀之内を含む城山公園全体が国の史跡になっているほか、21棟が重要文化財に指定されています。市街を一望できる夜景スポットや、桜の名所としても有名です。

 

松山城は、江戸時代までに建てられた、現存12天守の一つを有しています。平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定されました。また、日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法である「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡で、「日本さくら名所100選(平成2年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けています。緑に包まれた松山の頂にそっと天守と石垣をのぞかせる松山城は、それでもそれはこの城のほんの一部です。山全体を活かした広大な縄張りには加藤嘉明が仕掛けた城郭ワールドが広がっています。



松山城は小高い山の頂に本丸を、麓に二之丸、三之丸を置く平山城です。賤ヶ岳しずがたけ七本槍の一人として知られる戦国武将・加藤嘉明によって築城が開始されました。城攻め経験豊富な嘉明は、ここに実践に備えた難攻不落の城を築き上げます。山頂に本丸、南西麓に二之丸、三之丸を配し、水堀や土塁で囲んだのです。山全体を抱え込む広大な縄張りには幾重にも石垣を連ね、屈曲した進入路に城門や櫓を構え、本丸と二之丸をつなぐ登城道の南北には2本一対の「登り石垣」を築き、守りを固めています。山頂の本丸が細くくびれているのは、もとは2峰に分かれていた谷の部分を埋め立てて造成した事によります。本丸の北、一段高い本壇には連立式の天守がそびえ、近世城郭の特徴を備えた重厚な城構えとなっています。

 

道後温泉は、四国・愛媛県松山市に湧出する温泉です。日本三古湯の一つといわれています。その存在は古代から知られ、万葉集巻一にも見られます。なおかつてはこの周辺が温泉郡と呼ばれていましたが、これはこの温泉にちなむ地名です。夏目漱石の小説「坊つちやん」で有名になりました。

 

3000年ともいわれる歴史を誇る道後温泉は、兵庫の有馬温泉、和歌山の白浜温泉と並ぶ日本三古湯の一つです。道後温泉は、「日本書紀」、「源氏物語」など様々な文献にも登場し、大国主命が少彦名命の病を治した話や聖徳太子の来浴など、「日本最古」にふさわしい言い伝えも多く残っています。古くは「伊予の温泉ゆ」・「熟田津にきたつの温泉ゆ」と呼ばれ、大化の改新により国府がおかれた後に「道後」の名称が生まれました。



現在の道後温泉本館・神の湯棟が完成した翌年の明治28年(1895年)、夏目漱石は愛媛県尋常中学校(松山中学)の英語教師として赴任し、約1年間松山に滞在しました。当時の松山の様子などを元に創作された小説「坊っちゃん」は大ベストセラーとなり、道後温泉の評判が広く全国に知れ渡るきっかけとなったのです。また、道後温泉街名物である「坊っちゃん団子」は、小説の中で、主人公の坊っちゃんが温泉帰りに食べた団子のモデルとなった「湯ざらし団子」が、その後3色にアレンジされたものと言われています。

 

道後温泉本館は、明治27年(1894年)に約20ヶ月の工期と、総工費13万5千円をかけて建造されました。同時期にドイツからはるばる輸入された「坊っちゃん列車」が9,700円であったことを考えると、破格の予算でありました。小説「坊っちゃん」に登場し「ほかの所は何を見ても東京の足元にも及ばないが、温泉だけは立派なものだ。」と褒められた「住田の温泉」とは道後温泉本館のことです。木造三層楼の建物はその後増改築を繰り返しながら明治・大正・昭和・平成の4代に渡りたくさんの方に利用され、築100年を迎えた平成6年には国の重要文化財の指定を受けました。

 

朝6時、正午、夕方6時の一日3回、本館屋上の赤いギヤマン張りの「振鷺閣しんろかく」から毎日響く「刻太鼓ときだいこ」は、「残したい日本の音風景百選」に選定されており、ドーンドーンと湯の町に響き渡る力強い音色は、道後温泉ならではの情緒を醸し出しています。また、フランス・ミシュラン社が発行した「ミシュラングリーンガイドジャポン」では最高位の三ツ星の評価をいただき、国内だけでなく海外からも高く評価されています。



飛鳥乃湯泉は、平成29年にオープンしました。建物のコンセプトは、聖徳太子の来浴や斉明天皇さいめいてんのうの行幸などの物語や伝説が残る日本最古といわれる温泉にふさわしい飛鳥時代の建築様式を取り入れた湯屋です。道後温泉本館と同じく、全国でも珍しい加温も加水もしていない源泉かけ流しの「美人の湯」を満喫することができます。開放的な大浴場と、道後温泉本館には無い露天風呂、また道後温泉本館の皇室専用浴室の又新殿ゆうしんでんを再現した特別浴室を設え、昔の浴衣よくい「湯帳ゆちょう」を着ての入浴体験もできます。

 

道後温泉 椿の湯は、椿をシンボルとした松山市民の「親しみの湯」で、多くの皆さまに愛され、今でも生活には欠かすことのできない公衆浴場です。その昔、聖徳太子が行啓されたとき、椿が枝をさしかわすように生い茂っている当時の温泉郷の見事な光景を、まるで天寿国にいるようであるとたたえていて、椿の湯は、この聖徳太子のことばに起源をもち、その名が付けられたもので、昭和28年「第8回国体」が松山で開かれたときに新設しました。昭和59年に改築、平成29年にリニューアルされ、浴槽の深さを60cmと浅くし、外気に触れられる休憩室を浴槽近くに設置しました。飛鳥乃湯泉と椿の湯は、回廊でつながっており、その回廊には多目的トイレやベンチが設けられています。

 

大化改新(645年)によって各国に国府が置かれ、この国府を中心として、道前・道中・道後の名称が生まれました。道中は、国府のある地域を称し、京に向かって国府の前部にあたるところを道前、後部にあたるところを道後と呼んだわけです。従って、中世の道後は、現在の今治市より南を総称したわけですが、近世に入ってからは、温泉の湧く今の道後に限定するようになりました。玉の石は、「伊予国風土記」には、この二神の伝承として大国主命が、重病の少彦名命を助けようとして、大分の速見の温泉を引き湯あみさせたところ、不思議によみがえり、立ち上がった少彦名命が踏んだ石に足跡が残ったという伝承があります。

 

白鷺の伝説は、足に傷を負い苦しんでいた一羽の白鷺が岩間から噴出する温泉を見つけ、毎日飛んできてその中に足を浸していたところ、傷は完全に癒えてしまい、元気に飛び去ったというものです。これを見た人たちは大変不思議に思い、入浴してみると、爽快で疲労を回復することもでき、また、病人もいつのまにか全快したことから、盛んに利用されるようになりました。この鷺谷という場所は、今の道後温泉にほど近い地であったといわれ、後世の人たちがこの伝説を記念するために、鷺石という石をここに置きましたが、現在は道後温泉駅前の放生園に移され、保存されています。

 

明治23年(1890)道後初代町長、伊佐庭如矢は当時老朽化していた道後温泉本館改築に取り組みました。当時、内外の多くの反対、批判、命の危険に晒されながらも、自ら給与を無給とし、初志貫徹、100年たっても真似の出来ない物を造ってこそ意味がある、人が集まれば町が潤い、百姓や職人の暮らしもよくなると誠心誠意をもって町民を説得してこの偉業を成し遂げたというものです。棟梁には、城大工の坂本又八郎を起用し、当時でも珍しいとされる木造三層楼の作りになっています。また、道後への鉄道引き込みを企図し、道後鉄道株式会社を設立、一番町〜道後、道後〜三津口間に軽便鉄道を走らせたり関西からの航路が開かれるなど、道後温泉が発展していった時節といえるでしょう。伊佐庭如矢のお墓は、道後温泉街を見下ろす鷺谷の墓地に葬られています。



本館三階の屋上に設置されている振鷺閣は、約一坪の周囲に赤いギヤマンの障子で、夜になると中央天井から釣ランプを灯していました。当時はネオンもなく湯の町の夜空に異彩をはなったと言われています。さらに、中央に吊るされた太鼓は、昔から時刻を告げる「刻太鼓」として1時間毎に打ち鳴らされていましたが、現在は、朝・昼・夕の3回だけ鳴らされています。この刻太鼓は環境庁の残したい日本の音風景100選に選定されています。

 

宇和島市は、愛媛県の南部に位置する都市です。南予地方の中心都市で、宇和島城を中心に発展した闘牛で有名な旧城下町でもあります。宇和島市は、愛媛県西南部に位置しており、北は西予市に、東は鬼北町・松野町、南は愛南町・高知県宿毛市・同県四万十市に接しています。西は宇和海に面し、入り江と半島が複雑に交錯した典型的なリアス式海岸が続き、4つの有人島と多くの無人島があります。東側の鬼ヶ城連峰は、海まで迫る急峻さを備え、起伏の多い複雑な地形をしています。海岸部の平野や内陸部の盆地に市街地や集落が点在し、河川の多くは宇和海へ注いでいますが、三間川は清流四万十川に合流して高知県へ流れています。有人島を含めた東西が38.15km、南北が34.94kmあり、面積は468.19平方kmで、そのうち森林が約70%を占めています。気候は、瀬戸内地区と太平洋沿岸地区の中間に位置して、年平均気温は16~17℃で四季を通じて温暖であり、降水量は夏期に多く、梅雨前線の影響や台風の通過が多い年では年間2,500mmを超えることもあります。



また、西側が豊後水道に面し、東側に1,000m級の高峰が連なることから、冬期は北西の季節風が吹き、海岸部と山間部では気温や降水量の差がみられ、山間部では積雪や結氷もみられるさまざまな気候をあわせもっています。市名の由来は、文禄4年(1595)、藤堂高虎が宇和郡7万石の領主となり、板島丸串城を築き、板島と称しました。 その後、伊達家が入部し、宇和島の呼び名が現れました。明治22年に宇和島町となり、大正10年に宇和島市となりました。愛媛県の南部に位置する「宇和島市」は、リアス式海岸が続く宇和海に面しており、水産業が盛んな地域です。マダイやハマチの養殖が行われ、「じゃこ天」は宇和島市の郷土料理です。観光で訪れた際には、食材の宝庫である宇和島グルメを思う存分堪能するのがおすすめです。

 



香川県と云えば「うどん」です。讃岐うどんの歴史は、讃岐が生んだ弘法大師空海が、遠く中国から持ち帰ったのが始まりと伝えられています。空海は延暦804年31歳の時入唐しました。1年あまり長安に滞在して806年帰国しました。そのとき、持ち帰ったのが「うどん製法」「小麦」「唐菓子」のいずれかであったと言われています。以来、讃岐ではうどん作りが盛んになり約300年前からの江戸の元禄時代の頃、狩野休円清信が「金毘羅祭礼図」(屏風一双)に3軒のうどん屋が描かれており、早くも金毘羅さんで「うどん屋」が現れたことを証明されます。

 

また、1712年ごろ「和漢三才図絵」という当時の百科事典があり、ここに「諸国皆有之 而讃州丸亀之産為之上 為饅頭色白」(諸国に皆これがあるが、讃岐丸亀の産を上とする 饅頭として色白し)とあり、上質の麦の産地であったことが分かります。「さぬきうどん」の発祥地は諸説あり、この絵から琴平町からと言う説もあり、また綾川中流の滝宮説など諸説がありますが確たる証拠はありません。讃岐の地で盛んに「うどん」が作られたのは、上記のように昔から上質の小麦が生産されたこと、品質のよい「いりこ」が多く取れたこと、古代から塩の産地であり製塩が盛んであったこと、また小豆島は江戸時代から有数の醤油生産地であったことなど「うどん」作りに適した地であり、農家で代々受け継がれ磨かれてきたうどん打ちの技術があったためと思われます。

 

もう一つ忘れてはならない事があると思います。讃岐地方は小作地が多く、それに加えて降雨量が少なく度々かんばつに悩まされ、水田で作られる米の安定的な生産が出来ない土地であった。そのため米は贅沢品であり代用食として麦で作った「うどん」は欠くべからざるものであった。そんな生活の中で必死に麦を作り、「うどん作りの技術」を伝え・磨いてきたのが「さぬきうどん」の源流であったともいえます。戦後オーストラリアから輸入されたASW(オーストラリア・スタンダード・ホワイト)は色・つや・食感に優れ、大阪万博以降の何度かの「さぬきうどん」のブームがあったことは周知のとおりです。

 

讃岐うどんの特徴として最もよく知られているのは、麺の「コシ」の強さです。コシとは、もちもちとした弾力と粘りのこと。香川県の讃岐うどんはしっかりとコシがあり、伸ばすとスーッと伸びて離すとギュッと縮むような、力強く噛み応えがありながらも決して硬くはない麺になっています。これは、讃岐うどんの製法の硬さを決める水の量(加水率)と、グルテンを引き締める塩分の濃度、そして、グルテンを活性化させて粘りのある生地を作る「足踏み(鍛え)」によるもの。さらに、ゆでる際にしっかりアルファ化(糊化)することでとろみと粘り気が生まれているのです。



香川県には、瀬戸内海だけでなく、中国・四国地方の県民が愛する「レオマリゾート」があります。ホテルや天然温泉、遊園地も完備しており、子どもから大人までが楽しめます夏季限定で登場する屋外プールは四国最大の大きさを誇ります。その周りを山で囲まれて、青空が広がるために、開放感があります。冬になると、見た人の心を癒すこと間違いなしの「カピバラ温泉」がオープンします。NEWレオマワールドにはカピバラ3匹家族がいて、癒し系の彼らは毎日春〜秋は専用プール、冬は温泉に入っています。その可愛らしい姿が人々の注目を集めています。

 

香川県にある「レオマリゾート」は、中国・四国地方最大の遊園地であり、かつ有名な観光スポットです。施設はホテルレオマの森、天然温泉森の湯、遊園地であるNEWレオマワールド、アジアの建築を再現したオリエンタルトリップ、レオマウォーターランド(夏限定屋外プール)に分けられ、人々に遊びと癒やしの両方を提供しています。施設内では温泉と宿泊サービスが提供されます。宿泊室は部屋は広く、明るい雰囲気で、落ち着いた時間を過ごせることでしょう。さらに特定の部屋からは、讃岐富士とも呼ばれる香川の名峰・飯野山を眺めることもできます。NEWレオマワールドの大観覧車はその大きさ約50m、1周約10分。なんと言っても、魅力ははるかに見渡す瀬戸内海です! キラキラと輝く水面や、夜間にはイルミネーションを見ることができる特等席です。

 

大観覧車のゴンドラの内、2つだけ「足ブラ観覧車」と呼ばれる壁のない座席が設置されています。自然の空気、太陽の光を直接感じることができ、ガラス越しではない瀬戸内海を眺めることができます。今話題の仮想現実(VR)を体験できるアトラクションもあります。宇宙船に乗って隕石から身を避けるスペースアドベンチャー、近未来都市を舞台にしたシューティングゲームなど、非日常の冒険を楽しめます。NEWレオマワールドでは、アトラクションの他に園内の建築や装飾にも注目してみてください。オリエンタルトリップエリアには東南アジアの「カンボジア アンコール王朝」の建物が精巧に作られていたり、「ブータン」の文化展示があったりと見どころ満載です。夜にはLegend Palaceでプロジェクションマッピングショーが行われ、360度3Dの神秘的な光の世界に魅了されます。また、同じくオリエンタルトップエリアからは、讃岐富士とも呼ばれる香川の名峰・飯野山(いいのやま)を眺めることもできます。3万坪の面積に約100種類の花々が植えられ、その総数は42万株にも上ります。コスモスや芝桜、紫陽花、チューリップなど、どの季節に行ってもいつも満開の花が人々の来園を待っています。