高知県は四国にある県です。その大半が農村地帯で、山々、河川、太平洋沿岸のビーチで知られています。県庁所在地の高知市には、1600年代建立の高知城があり、これは江戸時代の城の中でも特に状態のよいもののひとつです。何世紀も続いている日曜市では、食品や日用雑貨を売る何百もの店が軒を並べています。夏に開催されるよさこい祭りの間は、色鮮やかな法被を着た踊り手たちで通りが埋まります。
高知空港は、高知県南国市にある国管理空港です。坂本龍馬ゆかりの地ということで、「高知龍馬空港」という愛称で親しまれています。日本で初めて、そして唯一人名がつけられた空港として知られ、2003年11月15日から今の愛称が使われています。太平洋と物部川の河口近くに位置し、写真愛好家にも人気のスポットです。屋上からは飛行機の離着陸を間近で眺めることができます。グルメ施設やお土産屋も充実しており、旅行以外でも立ち寄る楽しさがいっぱいです。
土佐が生んだ幕末の英雄,坂本龍馬は天保6(1835)年11月15日,郷士の二男として高知城下の本丁筋(現在の高知市上町)で生まれました。幼少の頃は,泣き虫とからかわれましたが,剣術修行に励み次第に成長していきます。文久元(1861)年,土佐の親友・武市瑞山(半平太)が結成した「土佐勤王党」に加盟しましたが,急進的な攘夷論に同意できずに土佐を脱藩しました。
その後,近代国家誕生を目指して奔走し,「亀山社中」の設立や「薩長同盟」の斡旋,「大政奉還」の推進,「船中八策」の提唱など,歴史的偉業を成し遂げました。しかし,慶応3(1867)年11月15日,京都近江屋で土佐の盟友・中岡慎太郎とともに襲撃され,明治維新を見届けることなく闘死しました。33歳の若さでした。幕末の動乱の中,大胆な発想力と行動力で時代を切り開いた龍馬の生き様は,現在でも多くの人の心をとらえています。
四国最南端の岬で、岬の西の臼碆は、黒潮本流が直接ぶつかる全国でも唯一の場所です。展望台があり、視界は270度 (東は足摺岬から西は叶崎までの海岸美が一望できます)。彼方にのぞむ水平線がアーチ状に見え、地球が丸いことが実感できます。足摺岬の断崖にたつ白亜の灯台は、高さ18m、光度200万カンデラ、達距離38kmです。わが国でも最大級の灯台のひとつで、大正3年(1914)に点灯されて以来、ずうっと沖をいきかう船の安全を見守りつづけています。太平洋の大パノラマや詩情あふれる風景が楽しめ、ロマンチックムード満点です。また、弘法大師が開いたとされる四国八十八箇所第三八番札所の「金剛福寺」もあります。
足摺岬では自然が織りなすダイナミックな景観があり、地球の雄大さを感じずにはいられません。中でも遊歩道の周辺には、弘法大師ゆかりの不思議な場所がたくさんあり、七不思議ツアーも実施されています。また、付近の竜串海岸、見残し海岸では、サンゴや熱帯魚をガラス越しに覗くグラスボートも楽しめます。足摺岬は海蝕による洞窟、洞門に恵まれており、白山洞門はその中でも最も大きく、高さ16m、幅17mの大きさがあり、花崗岩洞門では日本一の規模で、 高知県の天然記念物に指定されています。足摺岬先端部には、別名“椿の岬”と言われるように、足摺半島全体で約15万本、岬先端部では約6万本のヤブツバキが自生しており、毎年2月ごろに見ごろを迎えます。土佐清水市では、ヤブツバキの見ごろに合わせ、毎年足摺椿まつりを開催しています。
足摺岬展望台は、270度の大パノラマで太平洋を眺めることができる足摺岬の展望台です。その雄大な景色から、地球の丸さが実感できます。また、ここから見る白亜の足摺灯台や金剛福寺を取り囲むようにして植わる原生林の風衝樹形も格別です。朝日を見るならここがおすすめです。鵜ノ岬展望台は、足摺岬から車で10分。県道の2車線から1本道に変わってすぐのカーブ途中にあり、目印が小さな看板しかなく、通り過ぎそうになりますので注意が必要です。この展望台からは目の前には青く広がる太平洋、両横には荒々しく広がる絶壁の海岸など、足摺岬とはまた違ったおもむきの景色を見ることができます。ベンチに座って静かに海が眺められます。
ジョン万次郎は、中浜万次郎ともいわれ、土佐清水市中浜の漁師の子でした。天保12年(1841)、ジョン万次郎は14歳の時、足摺岬でのアジ、サバ漁中に漂流(10日間)九死に一生を得て、南海の孤島(鳥島)に漂着、わずかな留水と海草、海鳥を食して143日間も生きながらえました。そして漂流しているところを、米国の捕鯨船ジョン・ハウランド号に奇跡的に救出されました。献身的に仕事をこなし英語にも興味を覚えた万次郎を気に入ったホイットフィールド船長は「ジョン=ハウランド号」の名前をとって、ジョン=マンというニックネームをつけました。そしてジョン万次郎は日本人として初めて米国大陸(フェアーヘブン)に上陸しました。そこでホイットフィールド船長の保護を受け学校教育を受け、英語、数学、測量、航海、造船等の教育を受けました。
日本人留学生の第一号になりました。その後、ジョン=ハウランド号の仲間から声をかけられ、3年4ヶ月にわたって世界一周する捕鯨船「フランクリン号」の副船長として活躍しました。帰国後は土佐藩の士分に取り立てられ、高知城下の藩校「教授館」の教授となりました。この頃は土佐藩より「他国往来は勿論、海上業等被差留之」と申し渡され、故郷から外へ出ることを禁じられてしまいましたが、ジョン万次郎が藩校の教授となってアメリカの文化、世界の海での冒険を語り、坂本龍馬らに大きな影響を与えました。その後、老中首席阿部伊勢守からの召喚状が土佐藩の万次郎に届き、江川太郎左衛門の手附(秘書位)を拝命に、ご普請役格としての「幕府直参」となりました。
この時、生れ故郷の地名を苗字として「中浜万次郎」を名のりました。その後、外国通信の翻訳や軍艦操練所の教授として活躍しました。また遣米使節の通訳として再び米国に渡りました。帰国後は1866年に薩摩藩の開成所教授となり、航海、造船、測量、英語を教授しました。1869年には明治政府の命を受け、開成学校(現東京大学)の徴士(二等教授)となり明治3年には、中博士(教授)となって、最高学府の教壇に立ちました。1870年には普仏戦争視察の一員として、ヨーロッパ出張し、ロンドンから帰って間もなく、軽い脳溢血を起して倒れ、この後は静かな晩年を送りました。1898年に東京京橋弓町長男中浜東一郎医博(岡山医学校教授)宅で71才の生涯を終えました。
足摺岬展望台へと続く広場には、坂本龍馬をはじめ、多くの幕末の志士に影響を与えた郷土の偉人・ジョン万次郎の銅像があります。ジョン万次郎銅像がある広場には、「足摺岬観光案内所」もあり、土佐清水市観光ボランティア会のガイドさんが案内をしてくれます。中浜万次郎、別名ジョン万次郎は、日本人として初めてアメリカ大陸に上陸した人物として有名です。漁の最中に遭難、アメリカの捕鯨船に助けられ、アメリカに渡ったというエピソードは広く知られています。
四万十市は一年を通して、また、一日の中でも寒暖の差がある地域です。 そのため、四季折々に変化する花や鳥、風景は暮らす人、訪れる人を楽しませてくれます。 数ある四万十川の支流もまた美しく、中でも最も透明度の高い黒尊川と紅葉が織り成す光景は毎年多くの人を魅了しています。高知県四万十市は、高知県南西部に位置する市で、最高気温41.0度を記録しています。 内陸部では夏の暑さが厳しく、北西からの風が吹くとフェーン現象と、太平洋からの海風も入りにくいので、高温になりやすくなっています。
四万十市と四万十町の違いは、四万十町が発足する前の2005年に四万十川の下流域に別自治体の四万十市が発足していました。しかし名称決定は四万十町の方がわずかに早く、また両者とも四万十の名前を譲ることができなかったことから四万十町と四万十市の両方が存在することになりました。四万十町は、平成18年3月20日に高知県の窪川町、大正町、十和村の2町1村が合併して誕生した新町です。
位置は、東から西に流れる四万十川の中流域にあり、東南部は土佐湾に面しています。
四万十川は周囲の山々を借景にゆったりと流れ、下流域では清らかな流れ(青)、自然豊かな川岸(緑)、目にしみる砂州(白)が調和した美しい景観がみられます。また、この自然景観に融け込んだ生活文化的遺産ともいえる「沈下橋」が、本流には大小合わせて22か所あり、四万十川の魅力を一層引き立てています。四万十川は、河岸にはコンクリートなど人工で造られた構造物もないため、圧倒的な自然の風景を目に焼き付けることができるのが四万十川の大きな魅力です。また四万十川は本流にダムが設置されていないことから「日本最後の清流」とも呼ばれています。もちろん前述の沈下橋も四万十川の魅力の一つです。
土佐町は、美しい自然と水と森の豊かな町です。 豊かな水は町の基幹産業である農畜林を支え、農業では棚田等地形を活かした県下で有数の良質米の産地です。 畜産においては高知県特有の和牛「土佐あかうし」の県下最大の産地で、森林面積87%を有する林業の町です。「土佐」の名前は、神話で「土佐国建依別」と呼ばれたことにはじまります。 奈良・平安時代は現在の南国市が土佐の政治と文化の中心でした。古くは『古事記』『日本書紀』では「土左」、『先代旧事本紀』では「都佐」と記されています。元々は「土左」で和銅6年(713年)の好字令で「土佐」に改められたといわれますが、和銅6年以後も「土左」と「土佐」が混用されています。
土佐町は四国のほぼ中央に位置し、人口は約3750人、面積は212.13kmでその内、森林が占める割合は87%と自然と水と森が豊かな町です。町は東西に流れる吉野川及び支流に沿って集落が形成され、昭和48年に建設された早明浦ダムは、四国四県に分水され多くの人々の暮らしや産業を支えています。明治22年の町村制で誕生した土佐郡森村・地蔵寺村と長岡郡田井村が昭和30年3月に合併して土佐村が誕生しました。昭和36年4月に当時の本山町の一部だった大渕、古味、井尻、上津川の5地区と合併。早明浦ダム建設をきっかけに中島地区を中心に市街地が開け、昭和45年4月1日から町制を施行しました。
土佐町は、四国の中央部に位置し、町を東西に吉野川が流れており、美しい自然に囲まれた町です。標高差のある地形を活かした農業が盛んで、県下有数の良質米の産地です。「土佐あかうし」という和牛や乳牛も多く飼育され、その家畜の糞尿や生ゴミ等の有効利用を図る『堆肥センター』を建設し、減農薬、減化学肥料といった環境保全型農業による米、園芸野菜、果樹の栽培に取り組んでいます。また、林業も盛んで、木材の搬出にとどまらず、木造住宅の販売推進による木材需要の拡大にも努めています。
5月5日のこどもの日が近くなると、日本各地で『こいのぼり』が見られます。ところが、鰹節で有名な鹿児島県枕崎市や宗田節で有名な高知県で空を泳いでいるのは、青い縞模様にピンと張った尾びれと背びれのついた魚…『かつおのぼり』の群れです。『かつおのぼり』は1981年に枕崎市の「明日の枕崎市を考える会」が地域活性化のために考案し、1983年に掲揚されました。これが高知県や台湾などに広がっていきました。かつおは回遊魚であり、この時期に日本列島を北に移動するため「のぼり鰹」と呼ばれます。温かい南の海から移動してきていますので、脂肪分が少なく、かつお節に最適だと言われています。『こいのぼり』は鯉が登って龍になる「登竜門」という伝説に由来し、子どもが立派に成長・出世するように願って飾られます。『かつおのぼり』も同じように、縁起物の「かつおぶし」を「勝男武士」と表記することもあることから、子どもに強くたくましく成長してほしいという想いが込められています。
高知市は、大きく分けると、商業業務施設が集中している中心地域、山地のみどりに囲まれたり、田畑が広 がっている自然が豊かな地域、戸建て住宅が集まっているところで自然豊かな地域、さまざまな形態の住宅や 店舗などが混在している地域、浦戸湾など港湾に面し工場などが見られる地域といった景観域があります。高知市の南北方向は、北方には急峻な四国山地があり、その支峰である市域北部の北山 に源を発する鏡川の下流域を中心に都市が形成されています。 南方は浦戸湾を経て土佐湾 に面し、東西に広がる海岸線から黒潮が流れる雄大な太平洋を一望できる地理的条件にあ ります
「♪土佐の高知のはりまや橋で,坊さんかんざし買うを見た」とよさこい節のフレーズにもなり,純信とお馬の恋物語でも知られているはりまや橋は、江戸時代に,堀川を挟んで商売を行っていた「播磨屋」と「櫃屋」が,両者の往来のため私設の橋を架けたことが「はりまや橋」の由来といわれています。その後,何度か橋は架けかえられ,堀川も埋め立てられましたが,現在は,はりまや橋公園として整備され,川のせせらぎを再現。昔のはりまや橋も復元し,純信・お馬のモニュメントも設置されています。
また,はりまや橋付近から反対側の歩道側まで通じる移動に便利な「はりまや橋地下通路(地下広場)」もあります。はりまや橋の東西の公園(はりまや橋公園)を結ぶ地下通路内には高知の観光スポットを紹介するパネルや,昭和のはりまや橋,「高知下町浦戸湾風俗絵巻」等の展示があり,高知のことをより詳しく知ることができる隠れた観光スポットです。
桂浜は高知県を代表する景勝地の一つです。浦戸湾口、龍頭岬と龍王岬の間に弓状に広がる海岸で、背後に茂り合う松の緑と、海浜の五色の小砂利、紺碧の海が箱庭のように調和する見事な景勝地です。古来より月の名所として知られ、“月の名所は桂浜・・・”と「よさこい節」にも唄われています。桂浜は美しい太平洋の風景を楽しみながら散策するのに最適な場所です。広大な砂浜が広がり、透明度の高い海が広がっています。散策路が整備されており、海岸沿いを歩くことができます。波の音を聞きながら、心地よい海風を感じながら散策することができます。桂浜には桂浜灯台があり、そこからは壮大な太平洋の景色を一望することができます。特に夕方の桂浜の夕日は、絶景として知られています。
高知を代表する観光名所「桂浜は、幕末に活躍した志士「坂本龍馬」が郷里の土佐の中で最も愛した場所といわれています。月の名所としても名高い「桂浜」は、龍頭岬と龍王岬の間に弓状に広がる海岸です。裏山には浦戸城趾があり、戦国の昔、長宗我部元親の居城として四国統一の中心となった場所でもあります。桂浜周辺には、レストランやカフェもありますので、散策後に美味しい食事や休憩を楽しむこともできます。地元の海の幸や郷土料理を味わいながら、贅沢な時間を過ごすことができます。桂浜の散策は、自然の美しさと豊かな海の風景を楽しみながら、リラックスした時間を過ごすことができる魅力的な体験です。高知県高知市を訪れた際には、ぜひ桂浜の太平洋の風景を堪能しながらの散策をお楽しむべきです。
桂浜には坂本龍馬像があります。坂本龍馬は幕末の志士であり、日本の近代化を促進した偉大な人物です。坂本龍馬像は、その功績をたたえるために建立されました。坂本龍馬像は高さ約5.3mの立像で、青銅で造られています。坂本龍馬は勇敢でありながらも優れたリーダーシップを持ち、自由と平等を求める思想を持っていました。像はその姿勢や表情から、坂本龍馬の意志と決断力を感じさせます。桂浜の坂本龍馬像は、彼の功績と精神を称えるだけでなく、彼の生涯と時代の背景を理解するための貴重な教材となっています。
訪れる人々は、彼の足跡をたどりながら、坂本龍馬の人間性と革新的な思考に触れることができます。桂浜の坂本龍馬像は、高知県高知市の観光名所の一つであり、地元の人々や観光客によって訪れられています。彼の精神は今も多くの人々に勇気や希望を与え続けています。坂本龍馬像を訪れることで、彼の偉大さと日本の歴史を感じる事ができます。
高知県立坂本龍馬記念館は坂本龍馬に関する貴重な歴史資料をわかりやすく展示しており、龍馬の人柄や業績、考え方についても紹介しています。龍馬への入口とも言える記念館です。1991年の龍馬の誕生日である11月15日に開館し、2018年4月にはリニューアルしてグランドオープンしました。
桂浜公園内に位置しており、「空白のステージ」と呼ばれるエリアや屋上展望からは、太平洋の水平線を一望することができます。高知県立坂本龍馬記念館では、龍馬の生涯やその時代背景、幕末の日本の動乱期における彼の役割などが展示されています。龍馬の手紙や書簡、遺品、関連する文書などの貴重な資料が公開されており、彼の人物像や功績を深く理解することができます。また、記念館では映像やパネル展示、模型などを通じて、龍馬の思想や行動の背景、彼の遺志を受け継いだ人々の活動についても紹介されています。高知県立坂本龍馬記念館は、歴史と文化に興味のある方々や龍馬のファンにとって、必見の場所です。龍馬の足跡や功績に触れることで、彼の偉大さと日本の歴史の一部を帰間みる事が出来ます。
桂浜は夕日の美しさで知られています。夕方になると太陽がゆっくりと海に沈み、桂浜の空と海を美しいオレンジ色に染め上げます。夕日が沈む瞬間は、まるで絵画のような風景が広がります。桂浜の夕日は、広大な太平洋の水平線と砂浜が一体となり、壮大な光景を作り出します。夕日が水平線に沈む光景は、とてもロマンチックで感動的です。特に晴れた日の夕日は、その美しさが一層引き立ちます。桂浜の夕日を見るためには、砂浜や桂浜灯台周辺など、開けた場所がオススメです。桂浜の夕日は、自然の美しさと穏やかな時間を感じることができる特別な体験です。
室戸岬周辺は、かつて無名の青年だった弘法大師が荒磯修行に来た場所で、岬の洞窟にこもり虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)を修行したといいます。その時空に輝く明星が大師の口に飛び込み、大師はここが仏法の最適地であると感得、虚空蔵菩薩(こくうぞうぼさつ)の蔵を刻んだといいます。つまりこの岬は大師が最初に悟りを開いた場所と伝わります。
その岬の頂上にある最御崎寺は、「東寺」の愛称で知られ、寺域は45万9845平方メートルを誇る。大同2年(807)、唐から帰朝した弘法大師は、再びこの地を訪れ、嵯峨天皇の勅願を受けて伽藍を建立しました。寺は歴代天皇からの信仰も厚く、足利尊氏はここを土佐の安国寺として利生塔(りじょうとう)を置きました。近世初期には落雷火災に遭い堂宇を焼失したが、元和年間(1615~1624)には土佐藩主・山内忠義の援助で、僧・最勝が再興。堂宇を建立し、七堂伽藍が整備されました。明治初年の神仏分離令により堂宇は荒廃するが、大正時代に再興されます。境内には明星石やくずら芋など、大師にまつわる旧跡も点在しています。
最御崎寺への登山道の途中には、弘法大師ゆかりの場所があります。大師が一夜のうちに建立したと伝えられる「一夜建立の岩屋」から少し登ったところに、「捻り岩」という洞窟があります。ここには、大師の母君である玉依御前が、大師の身を案じて男装して訪れた際に、嵐が巻き起こったため大師が真言を唱えて風を静め、岩を念じ伏せた、という伝説が残っています。このことから女人禁制となったと言われています。
風格を漂わす山門をくぐると、南国情緒あふれる境内へ。正面には亜熱帯植物に囲まれた本堂、左手には大師堂、右手には多宝堂があります。本堂の奥には宝物館、聖天堂、護摩堂、遍路センターなどがあります。宝物館には数々の寺宝を保管しています。特に大師が唐から持ち帰ったといわれる大理石丸彫りの石造如意輪観音半跏像、薬師如来像、月光菩薩像の3体と足柄時代の銘入りがある三足の丸盆一対は国指定の重要文化財です。
室戸岬は、高知県室戸市に属し、太平洋(フィリピン海)に突き出る室戸半島の先端の岬です。国の名勝、室戸阿南海岸国定公園に指定、日本新八景、四国八十八景22番に選定されています。北緯33度14分34秒 東経134度10分35秒座標: 北緯33度14分34秒 東経134度10分35秒。波乗り(サーフィン)の名所でもあります。安芸山地が太平洋に落ち込む南端で、太平洋に大きく突き出し、紀伊水道と土佐湾を分けています。泥岩・砂岩・斑れい岩により、海岸段丘や岩礁、奇岩が形成され、冬でも温暖で、亜熱帯植物が繁茂します。当岬から西側は海岸段丘が発達しています。
地球上では、間氷期に海水面が高く、高い位置の土地が削られて海食崖になり、氷期になると海水面が下がり、低い位置の土地が削られて海食崖になる、ということを繰り返しています。当岬周辺ではこれに加え、第四紀後半以降千年あたり2mという速さで土地が隆起していて、ふたたび間氷期になったときには、かつての海食崖は元の位置より高い位置にあり、水没せずに陸地上の地形として残り、これを繰り返し、階段状の地形が形成されました。当岬付近の隆起は、大地震に伴う陸地の急激な隆起に起因していると推定されていて、この大地震については、南海トラフのメガスラストの活動によるという説と、室戸半島の東縁に分布する南北走向・西傾斜のメガスラストから分岐した断層の活動による説があります。
なお、西の羽根川と東の尾崎川を基部として室戸岬を先端とした区域で、大角山(標高709m)を最高峰とする半島が室戸半島です。 黒潮の流れる沖合いは台風銀座でもあり、当岬は強風で知られています。1934年(昭和9年)の室戸台風や1961年(昭和36年)の第2室戸台風では台風が付近に上陸し、その名を残すこととなりました。後者では測候所の風速計が壊れてしまい、最大瞬間風速は「84.5m/s以上」と記録されるにとどまっています。
室戸岬は、四国の東南端に位置する岬で、昭和2年(1927年)に日本八景に選ばれ、アコウなどの亜熱帯性植物が、国の天然記念物に指定されている。岬のシンボルとなるのが、青い空と海のはざ間に立つ白亜の灯台「室戸岬灯台」。中岡慎太郎の銅像や弘法大師の像、遊歩道、アコウ林などの見どころが点在しています。古代からの豊かな自然がダイナミックに残るこの地には、数々のパワースポットをはじめ、黒潮と山の幸に恵まれ捕鯨のまちとして栄えてきた歴史と文化の香りが漂います。散策からマリンレジャーまで魅力あふれる見どころはもちろん、山海のグルメもいっぱいあります。
室戸岬といえば、乱礁遊歩道が有名です。亜熱帯植物や古代に造られた岩など、変った造りの岩が多数点在します。荒々しい波と岩、そんな激しいイメージがある室戸岬ですが、周辺には屋内でゆったり観光が楽しめるスポットもたくさんあります。世界ジオパークに認定されている室戸岬はデートスポットとして有名で、カップルで観光に訪れる人も多く、展望台にはハート型モニュメント、美しいチョークの灯台、亜熱帯の緑豊かな植物などのフォトスポットが多数あります。また、太平洋に突き出た地形からは、朝日と夕日の両方をしっかりと臨むことが可能な日本でも有数の場所です。
中岡慎太郎は、海援隊長の坂本龍馬とともに活躍した明治維新の勤王の志士です。慶応3年11月15日(1867年)京都河原町の近江屋で刺客に襲われ、龍馬とともに落命しました。この時慎太郎は30才でした。この像は昭和10年安芸郡青年団が主体となって建てられました。室戸岬の先端近くに太平洋を見据えるように建っています。
高知市より国道55号線でほぼ85km、黒潮うねる室戸岬の最先端に銅像はあります。そのまなざしは、はるか海の彼方に向けられています。この像の建立運動は、坂本龍馬の銅像完成と時を同じくして、安芸郡下の青年の手で、そして場所は龍馬の桂浜に対して室戸岬にと行動を開始したのにはじまります。しかし経済界の不況や、後免・安芸線の建設、更には室戸台風の被害なども重なって募金活動は決して順調ではなかったと云います。
銅像は昭和10年4月1日午後3時、地域の人々の歓迎の渦巻くなか室戸港に上陸し、4日には制作者本山白雲の指揮によって据えつけを終りました。安芸郡下の青年達が活動をはじめて7年、龍馬像完成から7年ののちに彼等の熱意は実りました。2万5千657円の募金でした。台座の正面には「贈正四位中岡慎太郎」とあります。若き日、共に活動した田中光顕の書です。高さ17尺5寸、総重量2000貫、台座共に高さ44尺5寸、刀の重量20貫、地上高46尺余と当時の諸目が残されています。
「天保9年4月安芸郡北川村に生る、幕末の頃天下の志士と交友し、陸援隊を組織し、その長となり、海援隊長坂本龍馬と共に薩長連合をはかり明治維新の大業に尽力しましたが、慶応3年11月15日(1867年)夜 京都において刺客のために斃れた 満30才、昭和10年安芸郡連合青年団・室戸岬町連合青年団建之」と像前の花崗岩に記されています。その文字には、陸援隊長中岡慎太郎の新しい日本建設への熱い情熱と、銅像建立に燃えた安芸郡下の青年達の心意気が重なって輝いています。
東洋町は土佐最東端の町です。徳島県と接し、京阪神と高知を結ぶ土佐の東の玄関口となっています。 室戸阿南海岸国定公園のちょうど真中に位置し、輝く海に面した東西10km、清流野根川沿いの南北14km
の自然豊かな町です。白砂青松の美しい砂浜が広がる白浜海岸は四国屈指の遠浅のビーチで四季を通じ、訪れる人々の心を穏やかにしてくれます。夏は海の家(露店)も設けられ、海水浴が存分に楽しめます。全国屈指のサーフポイントとして年間9万人もの若者たちで
賑わう生見海岸はあまりにも有名です。
美しい海を育てる清流野根川では鮎をはじめとする生物が元気に泳ぎまわり、総延長35㎞の緑豊かな参勤交代の道、野根山街道は歴史ロマンを感じさせてくれます。まさに海あり、山あり、 川ありの自然の楽園で日本の四季を肌で感じられる東洋のまちです。温かな潮風が育むポンカンや小夏、豊かな黒潮の流れがもたらしてくれる豊富な魚介類など、恵みの幸も ふんだんです。
海の駅東洋町は、地獲れの新鮮な魚が驚くほどお手頃な値段で販売されており、その場で調理、お食事できるものもあります。地元野菜、加工品、お弁当・パンなどがたくさん並ぶ明るい店内では、お土産物コーナーも充実しており、土佐の様々な逸品が揃います。東洋町で水揚げされた鮮魚や干物、地元の農産物を中心に販売しています。レストランでは軽食を中心に、地元の野菜や海産物を使用した料理を提供。多言語で町の案内をするタッチパネルもあります。
東洋町に着いたら、まず目指したいのが「海の駅東洋町」です。地元の港や畑から直送される新鮮な魚や野菜が並びます。新鮮なお魚は160円でお刺身に、200円でタタキ(薬味あり)に調理してもらい、ご飯とお味噌汁(各110円)をつければ、なんとも贅沢なお刺身定食の完成です。白浜海岸を眺めながら食べるぽんかんソフトは格別です。
旅行に行ったらかならずすることといえば、楽しみのひとつ、道の駅めぐりです。こちらの道の駅「ならぬ海の駅東洋町」は、お土産を買ったり食べ歩きをしたりととっても魅力的な海の駅です。こちらの海の駅は、高知県の最東端の海の駅で、最東端の海の駅に行ってきたよとそれも土産話のひとつになります。併設のレストランもあって、海鮮丼など海の幸がいただけますし、地元製麺所のうどんもいただけます。地元ぽんかん果汁の入ったソフトクリームが美味しいです。
東洋町は高知最東端の町。室戸阿南海岸国定公園の真ん中に位置する美しい海に面した自然豊かな町です。白砂青松の美しい砂浜が広がる白浜海岸は四国屈指の遠浅のビーチで、四季を通じ訪れる人々の心を穏やかにしてくれます。全国屈指のサーフポイントとして、若者たちで賑わう生見海岸はあまりにも有名です。美しい海を育てる清流野根川では鮎をはじめとする生物が元気に泳ぎまわり、総延長35キロメートルの緑豊かな参勤交代の道、野根山街道は歴史ロマンを感じさせてくれます。温かな潮風が育むポンカンや小夏、豊かな黒潮の流れがもたらしてくれる豊富な魚介類など、恵みの幸もふんだん。自然や人、そしてたくさんの美味しい食べ物との出会いを、のんびりゆっくり楽しめます。