四方山見物40

 



 

中部縦貫自動車道は長野県松本市を起点とし、岐阜県高山市を経由して福井県福井市に至る総延長約160kmの高速道路です。本自動車道は、中央自動車道、東海北陸自動車道、北陸自動車道を相互に連絡して広域交通の円滑化を図るとともに、沿線の文化、観光資源を生かした地域振興や産業経済の発展に必要不可欠な路線です。

 

信州から安房峠トンネルを越えると岐阜、飛騨に入り、すぐにあるのが奥飛騨温泉郷の平湯温泉です。戦国時代武田信玄が飛騨に攻め込んだとき、安房峠越えで兵士が疲れ切っていた時、老猿が湯だまりで傷を癒していた。これが平湯温泉発見の由来と云われております。乗鞍岳の山麓にある平湯温泉はその乗鞍岳の恩恵を受けて、今なお豊富な湯が湧き続けております。乗鞍高原や畳平、上高地観光そして飛騨高山観光の拠点として多くの人達に利用されております。奥飛騨温泉郷は平湯・福地・新平湯・栃尾・新穂高の5つの温泉地からなり北アルプスの懐に抱かれた温泉郷です。

 

平湯神社は、この平湯温泉の中心地に鎮座する神社で、創建時期は定かではありませんが、もともとは天照大御神を御祭神として祀る神社で「神明神社」と呼ばれ、里人の崇敬を集めていました。しかし1980(昭和55)年には平湯温泉開闢の「白猿伝説」にあやかり、温泉発見に大きな役割を果たした白猿を合祀して「平湯神社」と改称されました。最も大きなお祭りは毎年10月1日に行われる例祭ですが、その他にもいくつかお祭りが行われています。

 

例年5月15日に行われる「湯花まつり」は、参拝客が持ち寄った平湯温泉の泉源を大釜に集めて護摩木で炊き上げ、そのお湯をかけてもらう事で1年間の無病息災を祈願するというお祭りで、絵馬市や茅の輪くぐり、温泉発祥を再現する武者行列も行われます。また、8月上旬には「白猿伝説」にちなんで「平湯猿満夏まつり」が行われています。日暮れ頃から行われる小さなお祭りですが、絵馬市や獅子舞のほか、地元の皆さんが趣向を凝らした様々なイベントが行われています。

 

岐阜県は、69もの温泉地と487ヶ所という多数の源泉を持つ一大温泉地としての顔を持っています。県内に数多く点在する温泉地のうちの一つ、昔の飛騨国にあたる県北部にある「奥飛騨温泉郷」は、日本百名山にも選ばれた標高2455mの活火山・焼岳を熱源としているといわれ、全国でも有数の湯量を誇る温泉地として知られています。ここには平湯温泉・福地温泉・新平湯温泉・栃尾温泉・新穂高温泉という5つの温泉地があり、夏は避暑地として、また冬は雪景色を眺めながらの湯治場や冬山登山を行うアルピニストの登山口として、多くの方々が足を運ぶ観光スポットとして栄えています。

 

このうち、最も南に位置する平湯温泉において、温泉の守護神として厚い崇敬を集めているのが、平湯神社です。平湯温泉の始まりは、戦国時代の永禄年間(1558~1570年)に遡るといわれています。当時は「甲斐の虎」武田信玄公と「越後の龍」上杉謙信公が激戦を繰り広げていた時代で、飛騨国もその両雄の対決にまつわる史話がいろいろと残されています。



 

本国である甲斐国を起点に信濃国へと進攻した武田信玄公は、北方の強国・越後国の上杉謙信公との間で川中島の戦いをはじめ、様々な武力衝突を繰り広げました。その中で武田信玄公は、北陸地域に上杉謙信公の影響力が広がっていくのを牽制するために、信濃国と飛騨国の国境にある安房峠を抜けて越中国へ侵攻しようと企てます。しかし、この「安房峠越え」は標高1790mという難所でもあったため、激しい疲労に加えて活火山である焼岳からの硫黄ガスの臭気のために倒れる者が相次ぐ非常に厳しい行軍となりました。そんな時、苦しむ武田軍の前に1匹の白猿が現れます。その白猿によって滾々と湯が湧き出る温泉地へ導かれた武田勢は、湯に浸かって無事元気を取り戻し、九死に一生を得て喜び合ったという伝説が残されています。この白猿が導いた湯こそが平湯温泉の源泉だったのです。



平湯民俗館・平湯の湯は平湯温泉へお越しの際には是非立ち寄っていただきたいおすすめ穴場スポットです。40年以上前に富山県利賀村から移築した合掌造「旧高桑家」や蔵柱地区から移築した高山市文化財「旧豊坂家」は見学休憩など一切無料です。辺りは囲炉裏(常時火を入れています)の香りに包まれ日々の喧騒を忘れさせてくれます。飛騨社会教育の父と呼ばれた篠原無然記念館や平湯神社・薬師堂・棚田跡など大切な建物・史跡が集中しているのもこのエリアの特徴です。併設の「平湯の湯」は寸志でご利用いただける日帰り入浴施設。平湯温泉の外湯として人気で、茶褐色の湯が特徴のぬくとまり湯(温まる湯という意味)です。

 

「平湯民俗館」は平湯温泉の穴場スポットです。敷地内には40年以上前に富山県利賀村から移築された合掌造「旧高桑家」と、蔵柱地区から移築された高山市文化財「旧豊坂家」という2棟の古民家が建ち並び、昔の人々の暮らしを知ることができます。家屋内の見学や休憩は無料で、囲炉裏などのほか、かつて使われていた農機具や民具、円空仏などが展示されています。「平湯民俗館」には、これらの古民家の他にも立ち寄り施設が併設されています。食事処「禄次」はランチタイムから深夜12時まで営業しており、きのこそば・うどんやみたらし団子、飛騨牛串焼などメニューも豊富。G.Wや夏休みなどは午前6時から朝食営業をしています。ほかにも、大正時代に平湯に赴任し、“飛騨社会教育の父”と呼ばれた篠原無然(しのはらぶぜん)の記念館やそのお墓、平湯神社、薬師堂、棚田跡などもあり、平湯の歴史の一端を垣間見ることができます。

 

また、日帰り入浴可能な「平湯の湯」も併設寸志(300円程度)で利用でき、特徴的な茶褐色の湯は体の芯から温まると好評です。足湯を楽しめる所も設けられてあります。平湯バスターミナルで下車して徒歩約5分のところにある資料館は、入母屋風の民家を改造した建物で、1階には昔の暮らしを再現した囲炉裏の部屋や麻の衣服、2階には農具を展示し、飛騨の歴史を紹介しています。そしてもう一つ人気なのが、平湯民俗館に併設された「平湯の湯」です。源泉掛け流しの露天風呂は木立の中にあり、とても雰囲気が良い。新緑、紅葉、雪景色と四季によって変わる装いを眺めることができ、美しい自然と平湯の温泉を心ゆくまで楽しめます。

 

平湯の湯は、平湯神社の隣に位置し、合掌造りの平湯民俗館の敷地内に佇む、昭和50年(1975年)にオープンした露天風呂だけの日帰り温泉施設です。森に囲まれた一角に瓦屋根の男女別の木造り湯小屋があり、入浴料の寸志300円程度はその前の妖怪ポストのような料金箱へ。レトロな傘付き電球の照明が灯され、山奥の秘湯の雰囲気です。

 

下呂温泉は昭和以降に使われるようになりましたが、昔は下留と呼ばれていました。 それは飛騨が米の収量が少なかったために「下々の国」と呼ばれていたことに由来します。 下留は、次第に「げる」と呼ばれ、さらに「げろ」と通称化されるようになりました。下呂温泉は、無色透明でほんのりとした湯の香りがあり、実になめらかな肌ざわりの温泉です。入浴すると身体が大変温まるので血行が良くなり、疲労回復や健康増進に効果があるため「健康の湯」といわれています。 また、Ph値9以上というアルカリ性特有の石鹸効果によりツルツルした肌ざわりといわれ、「美人の湯」とも呼ばれています。

 

飛騨川の流域に湧く下呂温泉は、兵庫県の有馬温泉、群馬県の草津温泉と並ぶ「日本三名泉のひとつ」と称された天下の名泉です。温泉街は飛騨川を中心に歓楽的な賑わいと山里の風情が調和して、下呂温泉の魅力を醸し出しています。お湯はなめらかでお肌がつるつるになる「美人の湯」としてリピーターが絶えません。飛騨川を中心とする温泉街には数多くの旅館が立ち並び、周辺には多くの観光スポットも点在、年間を通じて大勢の観光客が訪れる温泉です。その昔、薬師如来が傷ついたシラサギに姿を変えて飛騨川で傷を癒し、その湯のありかを村人に伝えたという歴史が残る下呂温泉です。高温で湯量も豊富なアルカリ性単純温泉の泉質は肌ざわりがツルツルとなめらかで湯上がりの保湿効果も抜群、清流、飛騨川の周辺には風情あふれるたたずまいの旅館やホテルが建ち並び、湯の香漂う温泉街をそぞろ歩けば情緒満点です。

 

大和町の歴史は古く、縄文時代をはじめ多くの遺跡や遺物が町内各地で発見されており、6世紀頃すでに大和朝廷とつながりを持つ豪族がいたと考えられます。中世にはいると、承久の乱(1221年)の戦功によって、下総の国より東氏が入部し、約340年間にわたり郡上を統治しました。古今伝授の里フィールドミュージアムは、鎌倉時代から室町時代にかけて約340年にわたり郡上を治めた領主一族・東氏の9代目東常縁が、『古今和歌集』の解釈等を師から弟子へ秘説相承の形で伝える"古今伝授"の祖と呼ばれたことから、和歌をテーマとした野外博物館として平成5年に開園しました。

 

「古今伝授」というのは、古今集の解釈を中心に、歌学や関連分野の諸学説を、口伝・切紙・抄物によって、師から弟子へ秘説相承の形で伝授することです。古今和歌集は、延喜5年(905)に紀貫之ら4人の撰者が醍醐天皇の勅命を受けて撰進した日本最初の勅撰和歌集で、平安朝文学の古典として代々の歌人に尊重され、作歌の手本となりました。古今伝授を宗祇に伝えたのは、平安時代後期に始まったとされますが、文明3年(1471年)篠脇城主・東常縁が宗祇に伝えたのがその確立とされています。古今伝授を確立した東常縁をはじめ、代々和歌の家柄でもあった東氏が、320年間にわたってこの地を拠点に郡上を治めていたからです。



日本有数の豪雪地帯で、少し前までは日本の秘境といわれた厳しい気候風土のこの地域で4ヶ月もの長い間、豪雪に耐えながら合掌造りの民家の暮らしが営まれています。数百年の時を刻む合掌造り家屋を中心に、村の暮らしを育む大自然と長い歴史と現代の生活が見事に調和している“生きている世界遺産”がここにあります。

 

白川郷でも指折りの巨大な合掌造り家屋「和田家住宅」は、鉄砲に使用する火薬の原料・焔硝の取引によって栄えた和田家。彼らの暮らす「和田家住宅」は白川郷でも有数の大規模な合掌造り家屋で、建物だけでなく庭や生垣などの保存状態も良好であることが評価され、1995年に国の重要文化財に指定されました。観光客が多く訪れる名所ですが、現在でも住居として使われており、公開されているのは建物の一部のみ。そのため、名称に「旧」の字が入っていないのです。煤で黒く変色した極太の梁をはじめ、和田家の随所には雪深い白川郷で生活していくための工夫が凝らされています。



間口14間、奥行き7間の建坪は、白川村に残された合掌造りの家屋としては最も規模が大きいです。しかも、庭や生垣、周囲の田畑や水路などの周辺環境の保存状態も良いことで知られ、代表的な合掌家屋として御母衣の旧遠山家と並び称される風格と美しさを誇っています。主屋に加え、土蔵や便所を含めて文化財に指定されており、現在、1階の一部と2階が公開され、和田家代々で使用された遺物や民具が展示されています。和田家は、古文書や鑑札などの遺物の記録から番所の役人を勤めながら、煙硝(火薬)や生糸の取り扱いを行っていたことがわかっています。

 

白川八幡神社の創立は、和銅年間(708~714)とされていますが、「飛騨国中案内」によると、寛永2年(1625)に荻町中央の鎮座地から現在地に移転再興したと伝えられています。白川八幡神社の杉は、その草創当時に植樹されたものとされています。指定樹木や社殿等境内一帯は「白川八幡神社社叢」として価値が高く、氏子により守られています。白川八幡神社境内の釈迦堂は、江戸時代初期の寛永4(1627)年に当時の領主、山下氏勝が建立しました。氏勝が家康から名古屋城築城の命を受けた際に、諸国の彫刻家に彫らせた弥陀、釈迦、日輪、月輪の4体の像は、山下家のの氏神として崇敬庇護されたといわれています。

 

白川郷は岐阜県の庄川流域の呼称で、合掌造の集落として知られています。合掌造は、茅葺の角度の急な切妻屋根が大きな特徴となっていて、屋根の形が合掌した時の手の形に似ているところから、合掌造りと言われるようになったと伝わっています。写真は、岐阜県白川村荻町の明善寺鐘楼門で、木造2階建で、1階は寺への通路、2階には銅鐘が吊られていて、屋根は、白川郷らしい茅葺きです。1801年(享和元年)に建てられたとされていて、岐阜県文化財に指定されています。



長瀬家住宅は岐阜県大野郡白川村萩町地区に位置している古民家です。長瀬家は加賀藩(石川県金沢市・藩庁:金沢城)100万石の藩主前田家の御典医を勤めていた家柄で家宝には前田家縁の品々や当時使われていた医療器具などが伝わっています。現在の長瀬家住宅の建物は明治23年(1890)、5代目当主長瀬民之助によって建てられたもので、木造5階建、茅葺、合掌造り、1階は居住空間で2階は寝室、3階以上は養蚕や農作業スペース、建築総工費は当時で800円、米100表、酒十一石八斗、工期は約3年かかりました。

 

建材には樹齢150~200年の檜や樹齢300~350年の栃、欅、桂などの良材が随所に使われ、当時の長瀬家の格式が感じられます。白川郷の合掌造りの屋根の葺替えは一般的には30年から40年に1度(往時は囲炉裏からの煙に燻され防虫、防腐の効果から50年~60年毎、所謂、1世代で1度行われた。)程度で「結」と呼ばれる集落住民による労力提供により行われてきました。長瀬家住宅では平成13年(2001)に行われましたが、通常より非常に大型な合掌造りであった事や、用剤不足、過疎による人員不足などから準備だけで1年以上かかり、全国的にボランテァを募って現代版の「結」として吹替工事を行いました。



当家は5階建ての合掌造り家屋で、1階には500年前の作と云われている荘厳な仏壇の他、美術品・什器等を展示。3・4階には「ふるさと」への想いを馳せらす昔からの生活用具を展示。「ものを愛する心が宝もの」の長瀬家です。長瀬家は、荻町最大級の合掌造り家屋です。1890年に着工し、3年がかりで完成した5階建ての合掌造りの一本柱は約11メートルもあり、屋根の勾配の上から下までを貫いているのが特徴です。長瀬家は250年続いている古い家柄で、『ものを愛する心が宝もの』という家訓があり、初代から三代目までが医者という家系でした。そのため、江戸時代に使われた医療器具も展示されています。



 

和田家から分家して居を構えたのが神田家の始まりで、ここで酒造業を興しています。1850年ころの建築と推定されますが、間取りの発達や小屋組み(合掌木)の大工の手跡の多さから、合掌造り家屋のなかでも非常に高い完成度を誇っています。神田家は、江戸時代後期に建てられた合掌造り家屋の見学施設です。神田家は和田家の次男である和田佐治衛門が分家し、この地に居を構えたのが始まりです。白川村は土地が少ないため分家するのは容易ではなく、極めてまれな分家の例です。和田家の次男ではありますが、この地に産土八幡宮の「神田」があったことから分家と同時に神田と性を改めました。



神田家の合掌造りは、江戸後期に石川県の宮大工によって十年の歳月をかけて建てられました。太さが60センチメートルもの松の木の梁が見事です。大家族に対応するために中2階が作られているところが特徴的です。使用人や独身兄弟などが中2階で寝起きをしたと考えられていますが、火災にならないように1階の囲炉裏の火を監視する小窓も作られています。こうした工夫が施されたことで、1階の囲炉裏はいまだ現役で火が絶やされることがありません。囲炉裏で沸かしたお湯で入れた「野草茶」をいただくこともできます。

 

白川郷の北側、荻町橋よりほど近くにあるのが「いろり」です。合掌造りの民家をそのままお食事処として解放し、郷土料理を中心に、多彩なメニューをご提供しています。お店の隣りは土産処となっており、こちらでも、だんごや五平餅、飛騨牛串焼きなどがお買い求められます。食事処としてはもとより、白川郷散策で疲れた体を休める休憩場所としても、多くの観光客の皆様にご来店頂いています。



 

「明善寺」は浄土真宗大谷派の寺院です。「明善寺庫裡郷土館 」として開かれている庫裏は村内最大の合掌造りの建物で、民具が展示されています。一階の囲炉裏には夏場でも火が入り、薪の燃える音や匂いも含めて、古民家の空気感が味わえます。境内の鐘楼門は上層に梵鐘を吊るした二層式で、下層に板庇があるのが特徴です。また、本堂には京都の東寺や醍醐寺に作品を納めた浜田泰介画伯の障壁画があります。「本堂、庫裡、鐘楼門が合掌造り」と一括りに紹介されがちですが、本堂と鐘楼門は合掌造りの基本形である切妻造ではなく、入母屋造です。こういった差異に注目すると、合掌造りをより楽しむことができるはず。鐘楼門は積雪の形状がユニークなので、冬の来訪もおすすめです。



合掌造り民家園は約25棟もの合掌造りを保存・公開している野外博物館です。これらは昭和40年代に移築されたもので、1750年代に建てられた旧山下陽朗家住宅を筆頭に資料価値が高く、主屋4棟と付属建物5棟は県指定重要文化財です。また、岐阜と富山の境にあった加須良集落・桂集落の写真展示、当時の民具の展示などもあり、集団離村に至った集落の姿を偲ぶことができる貴重な資料です。博物館を見て回ってお腹が空いたら、合掌造りの「手打ちそば処 そば道場」へどうぞ。また、売店には「どぶろく」「きび」「よもぎ」「そば」など珍しいアイスが並んでおり、つい味見したくなるでしょう。事前予約が必要ですが、「わら細工」「ひで細工」「そば打ち」体験も可能です。

 

白川郷は1995年に「人類の歴史上重要な時代を例証するある形式の建造物、建築物群技術の集積、または、景観の顕著な例」として世界文化遺産に登録されました。その中心となる合掌造り集落群は村の中央やや北側に位置する萩町地区にあり、その周囲の伝統文化の体験施設や歴史資料館等では、自然と共に生きる昔ながらの生活の知恵を垣間見ることができます。昭和43年、加須良地区の住民が集団離村した際、歴史民俗資産の散逸を惜しんで白川村が3戸の合掌造りを譲り受け、現在の小呂に移築。合掌造り民家園形成の第一歩となりました。以後、数年かけて村内各地の合掌家屋を当地に移転し、『白川郷合掌村』としてオープンしました。その後も整備を継続し、名称も変更しつつ、合掌造り家屋25棟に「ふるさと体験館」を加えた『合掌造り民家園』として現在に至っています。



園内は、白川村の歴史や文化を学べると同時に、訪れた人がゆったりと寛いで楽しめるように、「常設展示場」の他「かたりべの館」「わら細工の館」「マタダテ小屋」「お休み処」「芸能の館」「山野草苑」「そば道場」「売店」「じば工房」等、多彩な施設によって構成されています。じば工房では、昔から白川郷に伝わる生活道具や遊具・置き物など、古来からの技術を伝承した、白川郷オリジナルの物産品・民芸品を展示販売しています。「じば」とは「地場」であると同時に「爺・婆」の意味があります。白川郷のお年寄りのもっている伝統的技術や製作意欲が発揮されることを期待して、「じば工房」の名を付けました。きびしい自然と風土のなかで培われた生活の知恵が、一品一品に静かに息づいています。

 

主屋だけでなく、神社やお寺本堂、水車小屋等があり、主屋は屋根裏まで見学できます。なかでも山下家は、白川村に現存する数少ない18世紀の合掌造りです。また、4~10月の間は、そば打ちやわら細工、竹とんぼ、草木染めなどの体験(有料)も受け付けています。(要事前予約)手打ちそば処 そば道場では、合掌造りの1階部分をそのまま使用した開放感あふれる空間で、手打ちそばをお楽しめます。

 

飛騨白川郷の伝統的合掌造り家屋を移築した民家園です。造園のきっかけは、この地域の過疎化に伴い加須良村が1968(昭和43)年に地図から消えてしまったこと。長い歴史を刻んだ合掌造り家屋を保存するために、1969年から住人を失った家屋が庄川左岸に移築され始めました。現在では全22棟の民家を保存し公開しています。建物の中には1688年頃の建造と伝わる「旧中野長治郎家住宅」があります。

 

昭和43年(1968)《昭和42年と書いてあるパンフレットもある》に離村し廃墟化した加須良集落の合掌造り家屋3棟(県重要文化財)などを移築したもの。 ほかの家屋も含めて大小25棟、うち県重要文化財9棟が広大な敷地内で一つの村を形成しています。手入れの行き届いた園内には花が咲き誇り、清流が流れタイムスリップをしたように静かでゆっくりとした時間がながれているのは、現実の生活がない村だからでしょう。みやげ物店や民宿が建ち並び、観光客があふれ、車が猛スピードで走り抜けていく荻町の合掌集落からここへはいると別世界のようです。



なにより園内に電柱の見当たらないのがいいです。地中に埋め込んでいるのだろうか。美しい町並みに電柱は似合わないです。昔、景観を守る為に海外のように電線を地中に 埋め込もうという意見が各地でありました。海外からの観光客が多数来訪する世界遺産に登録されているようなところは日本の顔といってもいいです。電線を地中に埋め込むくらいの 事はしてもいいと思います。

 

独特の藁ぶき民家が並ぶ白川郷の風景は、一度は見ておきたいものですよね。世界文化遺産にも登録された現在は海外からの人々を乗せた観光バスも沢山来ています。そこでお薦めしたいのが、ゆったり見学しながら散策できる「野外博物館 合掌造り民家園」です。四季折々の山野草も見られる敷地には、県の重要文化財だけでも9棟もあり、住居はもちろん馬小屋や倉も。ここには時が止まったような里の雰囲気が今もたっぷりです。



岐阜県の北西部。豪雪地帯のため雪が積もりにくいように、掌を合わせたような合掌造りという独特の屋根の家が造られてきた白川郷。以前から郷愁を誘うその景色は人気が高かったのですが、世界文化遺産になってからますます訪れる人が増えています。ここだけに限りませんが、昔ながらの屋並みが残る場所は道が狭いもの。白川郷では環境保護もありマイカーは乗り入れを規制されています。でも心配いりません。白川郷の観光の中心となっている荻町では、庄川そばのせせらぎ公園に大きな駐車場を完備しています。ここに駐車すれば、庄川をこえて荻町集落へとつながる「であい橋」もすぐです。

 

時間がたっぷりあるなら、北側にある荻町城跡展望台から南側まで荻町の散策を楽しむのが最高です。でも、もっと静かな雰囲気の中で、昔ながらの雰囲気に浸りたいという方は、「野外博物館 合掌造り民家園」です。ここは約25棟の合掌造り民家を保存し、公開している博物館です。そして、その展示されている民家の中には岐阜県の重要文化財がなんと9棟もあります。しかも外側からの見学だけではありません。中に入って見学できる合掌造り民家がいくつもあるのです。

 

園内入り口から近い場所にある中野義盛家の内部では、食事の煮炊きだけでなく、明かり取りや暖房として生活の中心だった囲炉裏。座る場所も厳格に決められていたといいます。そんな往時の雰囲気を壊さないように、照明もおさえながら当時の暮らしがわかるようになっています。しかも、1階だけの公開ではありません。なんとこの屋敷では、蚕を飼っていた最上階まで上がって見学することができるのです。途中の階にも昔の様子を伝える写真や養蚕に使われていた道具などがあるので、暮らしぶりを感じることができるでしょう。

 

ここに集められているのは民家だけではありません。寺、そして稲をかけていた小屋や水車小屋、火の見やぐらなども敷地の中に点在し、その間を小川が流れて、のどかな里山の風景を作り出しているのです。養蚕の様子を表した展示を案内しましたが、他にも畑仕事の様子を伝える道具、木材の仕事を伝える道具など、この土地で伝えられてきた暮らしを表す合掌造り民家が公開されています。中には藁を使った生活用品を作る様子を、実際に見学できる家屋もあります。年齢を重ねた方と一緒に見て周れば、よみがえった遠い記憶をお話ししてくれるかもしれません。庄川を渡った先にある「明善寺」は、NHKの「ゆく年くる年」でも中継が行われるお寺です。後でこの寺の立派な茅葺きの鐘楼などもお勧めです。



大きな仏壇が残っている民家と合わせて、地元の人々の厚い信仰も伝わってきます。また家屋によっては囲炉裏が二つ並んでいるところもあり、それぞれの家屋の違いも楽しめます。そして、壁に空いた穴は飼い猫のための出入り口!寒さが厳しいこの土地では囲炉裏からとる暖は大事ですが、飼い猫のためにこんな優しい仕様がされていたのです。園内では、餅入りのぜんざいや手打ちそばを食べることもできます。そして特製アイスクリームは、バニラ味だけでなく、きび、そば、どぶろく味もおすすめです。山間ながらも、自然とともに心豊かに暮らしてきた白川郷の人々。ぜひ「野外博物館 合掌造り民家園」で往時から伝わる文化を感じてください。



荻町城跡の台地西北部は断崖絶壁になっている典型的な中世の山城の展望台へは、切妻合掌造りの和田家東方から緩い傾斜の歩道を登るコースと、国道360号の人家の絶えたところの自動車道から入るコースのふたつがあります。両コースから辿り着いた地点から、棚田スロープ地帯を上った先に展望台が位置しています。「城山天守閣」とは一味違った風景が展望できます。荻町城跡は、断崖絶壁になっている中世の山城で、眼下に広がる白川郷合掌造り集落の眺めが格別な、最高の撮影ポイントです。 眼下に広がる世界遺産 展望台へは、荻町合掌集落からゆるい傾斜の歩道を登るコース(約20分)とシャトルバス(約10分)も運行しています。 天守閣展望台とは一味違った風景が展望できます。

 

荻町集落を一望できるお食事どころ城山天守閣の展望台は、 視界の中央にどっしりした切妻合掌造りの和田家を配した静かな荻町のたたずまいが、四季折々の自然に彩られ、まるでおとぎ話の世界にいるような感動を見る人にあたえます。 正面の高い山々は白山連峰に連なっています。「荻町城跡展望台」とは一味違った風景が展望できます。荻町城跡は、断崖絶壁になっている中世の山城で、眼下に広がる白川郷合掌造り集落の眺めが格別な、最高の撮影ポイントです。合掌造りの家は、雪風を避けるため、みんな同じ方向を向いて建てられているのがわかります。展望台へは、荻町合掌集落からゆるい傾斜の歩道を登るコース(約20分)とシャトルバス(約10分)も運行しています。天守閣展望台とは一味違った風景が展望できます。