四方山見物4


 

 

津軽半島の最北端、龍飛崎を通る国道339号線は、日本で唯一の「階段国道」です。国道でありながら車もバイクも通れず、歩行者しか通れないという風変わりな国道です。そんな国道でも中央分離帯はあります。階段の前に青い三角標識が立っている様子はなんともシュールです。なぜここが国道になっているのかは諸説ありますが、階段があったところを含めて道路整備をする予定で国道に指定したものの、70mという高低差・民家が密集という条件に阻まれて階段部分は改良がなされぬまま時が過ぎ現在に至るとか。岬下の龍飛漁港から龍飛埼灯台までが362段の階段になっていて、総延長388.2メートル、標高差約70メートル。登りはなかなかハードですが、途中にはベンチが置かれており、休憩を入れながら歩けます。津軽海峡からの風を受け斜面を登るこの階段は、景色がよく旅情をそそる小路。健脚の方は歩いてみるのも一興です。

 

 

鰺ヶ沢町は町土のおよそ8割が山林で占められ、なかでも赤石川、中村川源流部には約20000ヘクタールの国有林を配し、豊かな自然を象徴しています。鰺ヶ沢の歴史は古く、南北朝時代にはすでに集落が形成されていたことが石碑などから推定されています。1491年には津軽藩始祖大浦光信公が種里に入部し、以来たびたび文献にその名をとどめることになりました。藩政時代には津軽藩の御用港として栄え、海上交通の門戸として重要な位置を占めていました。

 

その昔、殿様が千畳の畳を敷き酒宴を催したといわれる岩棚が広大に続く「千畳敷海岸」。恵比寿岩、かぶと岩などと名づけられた奇岩が海岸線に続く様は圧巻です。他の星に降り立ったかのような不思議な気持ちにさせられる光景です。夕暮れ時には夕陽をバックにした独特な形の岩がシルエットに。夕陽の名所としても名高く、「日本の夕陽百選」にも選ばれています。「日本の水浴場55選」にも選ばれており、夏場は海水浴とキャンプで大人気のスポット。近くに焼きイカを売っているお店もあり、たくさんのイカがカーテンのように干されたユニークな風景が見られます。千畳敷海岸は五能線の快速「リゾートしらかみ」の千畳敷駅から道路を渡ってすぐのところにあります。



 

弘前城は、現在の弘前市における弘前公園がそれにあたり、津軽統一を成し遂げた津軽為信(ためのぶ)によって慶長8年(1603年)に計画され、二代目信枚(のぶひら)が慶長15年(1610年)、築城に着手し、翌16年に完成しました。以後、弘前城は津軽氏の居城として、廃藩に到るまでの260年間、津軽藩政の中心地として使用されました。弘前城は、東西約600m、南北約1000m、面積約50haの中に、三重の濠(ほり)と土塁(どるい)に囲まれた6つの郭(くるわ)から構成されています。 城内には、天守閣、櫓(やぐら)3棟、城門5棟が残され、いずれも重要文化財に指定されています。また、城跡は築城当初の形態が良くのこされており、昭和27年に国の史跡として指定を受けました。

 



 

青森県の名峰、八甲田山。 その山中にある美しい湿原沼、睡蓮沼です。八甲田山は、その中央を貫いている国道103号線を境界として、 その北側を北八甲田、南側を南八甲田と呼んで区別しています。 睡蓮沼は、その国道103号線沿い、北八甲田と南八甲田の境界の部分に位置しています。名前の由来は、池に睡蓮(未草)が生育しているため。そのままのネーミングですが、 この池の魅力はそれ以外にも、八甲田の山々を背後に背負う眺めが素晴らしい、ということがあげられます。睡蓮沼の畔には、沼の南側に展望用のデッキが整備されており、ここから沼越しに北八甲田の山々を望むことができます。 沼越しの北八甲田の山並みは非常に印象的で、多くの人が訪れるのも納得の素晴らしさです。



「十和田八幡平国立公園」内にある城ヶ倉大橋です。全長360メートル、アーチ支間長255メートルの日本一の上路式アーチ橋となっており、その橋の上からの眺めは圧巻の一言です。橋からは八甲田連峰や青森市街、岩木山を望むことができる他、豊かな自然が残る城ヶ倉渓流を眼下に見下ろすことができます。橋の両端には駐車スペースとちょっとした休憩所があり、車を降りて景色を楽しむことができます。夏の新緑、冬の雪景色と四季を通じて八甲田山の美しい景色を楽しむことができますが、特に紅葉の見頃には、赤や黄色に色づいた山々の大パノラマを楽しむことができ、撮影スポットとして多くの人が訪れます。



 

八甲田ロープウェー山頂駅公園のある田茂萢岳一帯は、10指に余る池や沼が散在し、高山植物の一大宝庫となっているところで、八甲田山で最もすばらしい一つに数えられているところです。この雄大な大自然を散策する道路が、ひょうたん型をしているところからゴードラインという名で呼ばれているもので、コースが整備されていますので、老若男女を問わずどなたでも気楽に散策できます。



 

八甲田雪中行軍遭難事件は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件です。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練において最も多くの死傷者を出した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故です



陸奥湾は、下北半島佐井村焼山崎と津軽半島今別町高野崎を結ぶ線から以南の水域が範囲です。海岸線の延長は約246kmで、面積約1,660k㎡、平均水深約38mです。沿岸はほとんどが砂浜であり、それ以外の海岸線は主に岩礁となっています。また、陸奥湾北部のむつ市大湊湾芦崎、陸奥湾南部の平内町浅所海岸などでは、わずかですが干潟が出現します。

 

奥入瀬渓流に程近い南八甲田にある蔦温泉は、約千年前から人々に親しまれ続ける秘湯。日本でも大変珍しい湯船の底からぷくぷくと源泉が湧き出してくる「源泉湧き流し」の温泉です。源泉の上に浴槽があり、ブナ材を使用した湯船の底板から源泉が湧き出し、空気に触れていない「生の源泉」を楽しめます。無色透明の湯玉が足元から上がってきて肌にあたるのは、蔦温泉ならではの体験です。

 

 

奥入瀬渓流とは、八甲田および十和田火山の活動と河川浸食によって生じた地形と、日本海側と太平洋側の特徴をそれぞれ兼ねた気象条件(積雪とヤマセ)が育んだ植生(蘚苔類およびシダ類の豊富な渓谷林およびブナ林)を有する、全長約14キロの渓谷環境です。 奥羽山脈の北端に位置する十和田湖(十和田カルデラ)を源流とし、標高は上流側で約400メートル、下流側で約200メートル。ただし、その200メートルの高度差をほとんど感じさせない、たいへん緩やかな勾配となっています。渓流に沿って、国道102号線と自然遊歩道が併走していますが、流域環境への人為的影響(河川改修工事・伐採・植林等)は少なく、ほぼ「原生に近い」状態で、いまに残されています。

 





奥入瀬渓流にある「飛金の流れ」は、激しい流れが飛び跳ねている様子を表現した名所です。流れが速いため、所々で水しぶきが発生し、森の木漏れ日によって照らされてまるで金のように見えることから名付けられました。

 

阿修羅の流れ以外にも、このエリアには美しい景観スポットが密集しているのでお見逃しなく。例えば「千筋(ちすじ)の滝」はその名の通り、糸のように繊細に流れている姿が美しい一方、「雲井の滝」は高さ約20mから流れるダイナミックさが人気。同じ空間にありながら、大自然の静と動が共存しているのもまた奥入瀬渓流の魅力です。



 

雲井の滝は、うっそうとした森林にかこまれた断崖から、三段になって落下するこの雲井の滝は、高さ20メートル、水量も豊かで渓流沿いにある滝のなかでも、見ごたえのある滝のひとつです。 支流から奥入瀬本流に落ち込む多くの滝は、長い年月のあいだに本流の川底が浸食され、本流と支流の河床のあいだに大きな落差が生じてできたものです。



 

十和田湖は、青森県十和田市と秋田県鹿角郡小坂町にまたがる湖です。最大水深は326.8 mで、日本の湖沼としては第3位です。なお、面積では日本の湖沼としては12番目です。東岸には奥入瀬川が存在し、北東に約14 kmにわたり奥入瀬渓流が延びています。約20 km北には八甲田山が位置します。

 



十和田湖国立公園指定15周年を記念して、昭和28年に建てられたこの「乙女の像」のブロンズ像は、彫刻家であり詩人でもある高村光太郎の最後の作品としても知られ、完成まで1年余りかかったと言われています。高さ2.1mの2人の裸婦が左手を合わせ向かい合っており、モデルは光太郎の愛妻で詩集「智恵子抄」で知られる智恵子夫人です。台座には婦人の故郷、福島産の黒御影石を利用しています。

 

 

青森ねぶた祭は、七夕祭りの灯籠流しの変形であろうといわれていますが、その起源は定かではありません。奈良時代(710年~794年)に中国から渡来した「七夕祭」と、古来から津軽にあった習俗と精霊送り、人形、虫送り等の行事が一体化して、紙と竹、ローソクが普及されると灯籠となり、それが変化して人形、扇ねぶたになったと考えられています。初期のねぶたの形態は「七夕祭」であったのでしょう。そこに登場する練り物の中心が「ねぶた」と呼ばれる「灯籠」であり、七夕祭は7月7日の夜に穢れ(けがれ)を川や海に流す、禊(みぞぎ)の行事として灯籠を流して無病息災を祈りました。これが「ねぶた流し」と呼ばれ、現在の青森ねぶたの海上運行に表れています。「ねぶた(ねぷた・ねふた)」という名称は、東北地方を始め、信越地方「ネンブリ流し」、関東地方「ネブチ流し・ネボケ流し・ネムッタ流し」等の民俗語彙分布と方言学から「ねむりながし」の眠りが「ねぶた」に転訛したものと考えられています。

 

 

星野リゾート青森屋の広大な敷地内の一角にある渋沢栄一の邸宅です。1887年に建てられた渋沢栄一の邸宅だった建物で、1991年に現在地に移築されたものです。青森屋の前身古牧温泉の創業者が渋沢家に仕えていた関係で、国から払い下げを受けて東京からこの地へ移築されたそうです。渋沢栄一と言えば日本の実業家ということぐらいしか分かりませんが、朝ドラの”あさが来た”でも番組後半に登場していました。周囲には、渋沢大門という大きな門や渋沢栄一の巨像などもあり、渋沢スポットとなっていました。敷地内には、渋沢神社もあり、渋沢栄一が祀られていました。

 

 

貞観4年(西暦862年)、今から一千百余年の昔、円仁慈覚大師が恐山を開山した後、薬研係留を訪ねることになりました。大使が釜の沢を越え、大畑川をさかのぼって薬研に行く途中で夕暮れになってしまいました。大師は道に迷い、崖から足を踏みはずし、大怪我をしてしまいました。大師は渾身の力をふりしぼって断崖からはい上がり、川原で体を休め困っていたところ、どこからともなく大きなフキの葉っぱをかぶった一匹の河童が現れました。河童は怪我で苦しんでいる大師を背負っていずこともなく運び去ってしまいました。翌朝、大師が目を覚ましたところ、体ごと大きなフキの葉っぱに包まれ、露天風呂の中に入れられていました。そして、不思議なことに、昨日の痛みはすっかり消え失せ、渓谷を渡る夜明けの風もさわやかに、もとの元気な姿に返っていました。大師はこの奇怪な行為をことのほか喜び、河童の義心に感激して、その温泉を「かっぱの湯」と名づけたといいます。それ以来、満々とたたえられたこの露天風呂の湯に満月が映ると、大きなフキの葉っぱをかぶった年老いた河童が、あし笛をならしながら踊る姿が見られたといいます。

 

比叡山・高野山とともに日本三大霊山といわれる恐山は、地元では古くから「人は死ねば恐山に行く」と言い伝えられてきました。外輪山に囲まれた霊場は、外部からは見ることのできない途絶された場所。三途の川にかけられた太鼓橋を渡って霊域に入ると、死後の世界のような風景が広がります。極楽浄土を思わせる美しさの極楽浜、硫黄臭が立ち込める地獄谷、荒涼とした無間地獄、血の池地獄…。賽の河原には亡くなった幼い子供を弔うために両親が積んだ石や、くるくるとまわる風車があり、もの悲しさが漂います。



 

大間町は、青森県下北郡の町で、下北半島の先端に位置し、本州最北端の自治体です。津軽海峡に面し、天気の良い日には対岸北海道を見渡す事ができます。大間まぐろはグルメのブランドとして人気が高く、黒いダイヤと呼ばれるクロマグロ「通称:本マグロ」は、マグロの中でも最も大型のマグロです。その中でも最高級なマグロが、ここ大間で水揚げされる「大間マグロ」です。