戦国期の越後は言うまでもなく上杉謙信の領国であり春日山城がその居城であったことは周知の通りです。謙信亡き後、御館の乱を制して春日山城主となった上杉景勝は慶長三年(1598)に会津転封(若松城)となって越後を去りました。替わったのは豊臣大名の堀秀治でした。越前北ノ庄城主十八万石からの転封でした。越後春日山四十五万石への栄転であったが与力大名も付属されたため、実質的には十万石余であったといわれています。
堀秀治は関ヶ原合戦時(1600)、会津に移った直江兼続の扇動で起こった上杉旧臣らによる一揆鎮定の功によって徳川家康から所領を安堵され、幕藩体制下に組み込まれることになりました。このためか秀治は山城の春日山城ではなく新たな府城として福島城(上越市港町)の築城を開始しました。慶長七年(1602)のことです。しかしながら慶長十一年(1606)に秀治は三十一歳の若さで没してしまいました。
福島城は秀治の死の翌年に完成して後嗣の嫡男忠俊が入城して二代藩主となりました。とはいえ、わずか十二歳でしたから重臣堀直政が補佐しました。しかし、堀家を束ねて家康信頼厚い堀直政が翌慶長十三年(1608)に六十二歳で没すると越後福島騒動と呼ばれる御家騒動によって福島藩は慶長十五年(1610)に改易となりました。この御家騒動は豊臣大名であった堀家排除の口実となってしまったようです。
新たに藩主となったのは家康六男松平忠輝です。越後六十三万石とそれまでの信濃川中島十二万石(松代城)を加えて七十五万石という大封でした。高田城はこの忠輝によって築かれたものです。福島城廃城の理由は水害を受けやすい立地であったためとも言われています。築城開始は慶長十九年(1614)三月で、伊達政宗、上杉景勝、前田利常、蒲生氏郷、最上家親ら13の大名が幕命による国役普請として工事に携わりました。
工事は急ピッチで進められ、約四ヶ月後の七月上旬には完成しました。十月には、家康は諸侯に大坂への出陣を命じて自らも駿府城を出発しています。大坂との開戦に間に合わせようと築城を急がせたことは明らかです。そのため、石垣を造らず、天守閣も建築されませんだした。本丸西南隅の二層櫓が天守閣に替わる高田城のシンボルとなったと云います。
初代城主となった松平忠輝は大阪夏の陣に参加しました。この翌年(元和二年/1616)、家康が没した直後に将軍秀忠から改易を命じられました。夏の陣の不行跡と舅の伊達政宗と共謀して家康に反意を持ったことなどが理由とされています。その後、酒井家次、忠勝(十万石)、松平忠昌(二十五万九千石)、松平光長(二十六万石)そして延宝九年(1681)に天領となりました。高田城の二重櫓が地震で倒壊した後、三重の櫓として再建されたのは寛文五年(1665)藩主松平光長の時でした。
貞享二年(1685)、稲葉正住が十万三千石で入城して再び高田藩を立藩しました。元禄十四年(1701)、戸田忠真が六万七千石で封じられました。宝永七年(1710)、久松松平定重が十一万三千石で新たな藩主として封じられて五代続きました。寛保元年(1741)には榊原政永が十五万石で高田藩主となり、六代続いて明治に至りました。明治三年(1870)に焼失しました三重櫓は平成五年(1993)に鉄骨ではあるが木材を使用した木質構造という形で再建されました。
高田城址公園は、徳川家康の六男、松平忠輝公の居城として築城された高田城の跡に造られた公園で、全体が新潟県の史跡に指定されています。現在の公園の地形は、旧陸軍第十三師団が入城する際、明治40年(1907年)に土塁の大半を崩して堀を埋める工事が行われたことによって出来たものとされています。公園の面積は約50ヘクタールあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。
園内には、復元された高田城三重櫓や高田図書館、小川未明文学館(高田図書館内)などの文化施設、陸上競技場、野球場等のスポーツ施設、ブロンズ像を配置した遊歩道、岩野勇三ブロンズコーナー、外堀をめぐる遊歩道があり、市民の散策や憩いの場となっています。また、平成29年9月には市民交流施設高田公園オーレンプラザが開館、平成30年7月には、市立総合博物館が歴史博物館としてリニューアルしています。このほか、本丸と二の丸を結ぶ極楽橋も復元されています。高田城址公園は、令和2年4月1日に高田公園から名称を変更しました。
慶長19年(1614年)に築城された高田城のシンボル的存在であった三重の櫓を、上越市発足20周年記念事業として、平成5年(1993年)に建設しました。高田城跡が新潟県の指定史跡であることから、築造にあたっては、絵図や古文書の検討、発掘調査など詳細な調査・研究を行い、設計に活かしました。規模は、稲葉正通時代の「高田城図間尺」にある数値とほぼ同様で、外観は松平光長時代の「本丸御殿絵図」を参考としました。1・2階は展示室で、高田城などに関連する展示を行っており、3階は展望室になっています。
高田城址公園は、徳川家康の六男・松平忠輝公の居城として築城された高田城の跡に整備された公園で、全体が新潟県の史跡に指定されています。現在の公園の地形は、旧陸軍第十三師団が入城する際、明治40年(1907年)に土塁の大半を崩して堀を埋める工事が行われたことによって出来たものとされています。公園の面積は約50haあり、市街地の中心部に位置する公園としては、全国的にも有数の規模を誇っています。園内には、復元された高田城三重櫓や歴史博物館、小林古径記念美術館、高田図書館、小川未明文学館(高田図書館内)などの文化施設、陸上競技場、野球場等のスポーツ施設、岩野勇三ブロンズコーナーやブロンズプロムナード、芝生広場や外堀をめぐる遊歩道などがあり、市民の散策や憩いの場となっています。また、日本画の大家・小林古径の邸宅や、本丸と二の丸を結ぶ極楽橋も復元されています。
四季を通じてさまざまな表情を見せる高田城址公園。春には桜の名所としても有名です。公園やその周辺を含めて約4,000本の桜が咲き誇り、三重櫓とともにボンボリの灯りに照らし出される美しさは、「日本三大夜桜」のひとつに数えられています。桜の開花に合わせ、毎年「高田城址公園観桜会」が開催されます。(3月下旬~4月上旬)また、夏にはお堀一面を埋め尽くす蓮を見ることができます。その規模と美しさから、「東洋一」と称されており、こちらも毎年「高田城址公園観蓮会」が開催されます。(7月中旬~8月下旬)
高田城は徳川家康の六男、松平忠輝の居城として天下普請によって築かれた城です。城の縄張りは忠輝の舅である伊達政宗が担当しました。江戸時代の築城であるにもかかわらず、石垣はなくすべての曲輪に土塁が採用されていますが、これは「大坂冬の陣」の直前で工事を急いだことなどが原因だと考えられています。現在は高田公園として整備されており、堀や土塁の一部を見ることができるほか、天守の代用とされていた三重櫓や、二の丸から本丸に渡っていた極楽橋が再建されています。また春には日本三大夜桜にも選ばれているソメイヨシノを、夏には東洋一といわれる蓮を楽しむことができます。
日本三大夜桜の一つに数えられる高田城址公園の桜。高田城址公園は、徳川家康の六男・松平忠輝公の居城として築かれた高田城跡に整備された公園です。高田城址公園をめぐる広大な内堀と外堀をはじめ、その周辺には約4,000本の桜が咲き誇り、三重櫓とともにぼんぼりの灯りに照らし出される美しさは、日本でも有数のものとして知られています。
糸魚川の観光といえば、何を思い浮かべますでしょうか。ジオパークにヒスイ、カニなどの新鮮な海の恵みでしょうか。今回はそんな「いつもの糸魚川観光」とはちょっと違う視点で、新しい糸魚川の旅のかたちを見つけました。糸魚川にはさまざまな宿泊施設がありますが、今回宿泊するのは木浦地区にある「長者温泉ゆとり館」です。平成7年に竣工されてから、地域の方々の手によって運営されてきた宿です。茅葺屋根の施設が宿泊棟の「ふぁみりー館」です。
「北信五岳」と信州北部の人たちに親しまれている斑尾山、妙高山、黒姫山、戸隠山、飯縄山の5つの山々。ほかの4山が1917mから2450mもあるのに、この斑尾山だけは1400mたらずで、1つだけ低いです。しかし、志賀高原や野沢からの帰り、茜さす山々を西空に眺めるとき、大きさからいっても、高さからいっても、決してひけをとらずに、堂々として目に映ります。斑尾山は冬はスキー場としてにぎわう。飯山側からは斑尾高原スキー場が、北西側からはタングラムスキー場が広がっています。
斑尾高原は、斑尾山の山麓に位置する高原リゾート地です。標高約1,000mに位置します。長野県飯山市と新潟県妙高市にまたがっています。豪雪地帯ならではの豊富かつ上質な雪を利用したスキー場や、高原エリア内に張り巡らされているトレッキングルートを活かしたトレイルランが盛んで、避暑地となる高原の気候を特徴としています。
斑尾高原は、標高1000mの斑尾高原は、下界では見られない珍しい山野草の宝庫です。柔らかな陽光に照らされて凛と咲くミズバショウ。夏を惜しむように咲き競うミツガシワ、ヤナギランなどの大群生。斑尾高原は、ブナやミズナラをはじめとした広葉・落葉樹林に覆われ、高山植物や湿原の花々が植生している。総延長50kmにも及ぶ回遊性のあるトレッキングコースは、体力や時間、指向によって自由に組み合わせて歩くことができます。遊歩道を歩けば、人気の花たちに出会えます。カメラ片手のフォト・トレッキングもおすすめです。
斑尾高原は、長野県と新潟県にまたがるようにある斑尾山は標高約1,000mに位置し、なだらかな山麓に位置する高原リゾート地として有名です。 豪雪地帯ならではの豊富な雪を利用したスキー場や、避暑地となる高原の気候を特徴としており、夏にはスキー場を利用したアクテビティやJAZZフェスティバルが展開されています。
糸魚川市大平は、JR北陸線の梶屋敷近くから県道270号線で早川に沿って奥に入ると入口に比べ雰囲気が明るくなり、平地も意外と広く奥にはスキー場やら笹倉温泉があります。積雪時用の道路脇のポールは車高より高く雪深さが想像できますし、目の前の山にはまだ残雪が美しく残っています。
雪解けを迎える春、雪解けの前に桜が咲くと雪の上に桜が咲くという珍しい桜風景が広がります。残雪の白、桜のピンク、新緑の緑のコントラストが美しい雪国「新潟」ならではの絶景の1つです。ソメイヨシノやオオヤマザクラなど、約何本もの桜が雪上に咲き誇る様は目を奪われること間違いなしです。
山中にはまだたくさんの雪が残っていて、「雪桜」を見つけました。もう桜の花はないだろうと思って来たのでラッキーでした。雪の冷たさが、桜の開花を遅らせているということなのでしょうか。それにしても、この「雪桜」は、ちょっとびっくりです。桜というのは、こんなにもいろんな環境で生きていけるものなのですね。やっぱり強いです、桜は。ますます桜に興味が出てきました。
北アルプス(飛騨山脈)の北端近く、雪倉岳や朝日岳を望む白馬岳の山腹に、大自然のなかで入浴を楽しめる「蓮華温泉」があります。数多くの源泉が湧き出る蓮華温泉では、効能の異なる複数の湯に浸かることができるうえ、そこから見える景色は特筆すべき素晴らしさ。心と身体のリフレッシュにはうってつけです。入ればきっと一生の思い出になる、開放感あふれる秘湯です。詳細は温泉のページでご覧ください。
蓮華温泉は、中部山岳国立公園内の標高1,475m付近にある天然温泉です。新潟県側から北アルプス山行を目指す登山家たちの拠点でもあります。JR糸魚川駅からバスで約90分。麓の町とは10℃前後の気温差があり、真夏でも朝晩は肌寒さを感じるほどです。入浴を楽しめるのは、3月半ば~10月20日ごろまで。冬は大雪が降るため、蓮華温泉を管理しているロッジはクローズします。春先でも雪はまだ数メートル単位で残っているので、5月いっぱいは雪景色の入浴が楽しめるのだそう。※10月20日~6月下旬までは、山道の車両通行ができません。バスの運行は7月半ばから10月半ばまで。それ以外のシーズンは栂池スキー場から山スキーで訪れることができます。
妙高には地域住民が誇りや自慢にできるものがたくさんあります。日本を代表する自然風景地として指定された妙高戸隠連山国立公園。また妙高山、火打山、高妻山の日本百名山の3座が市域にあること。火打山に生息する日本最北、最小の個体群であるライチョウ。環境省により絶滅危惧Ⅱ類の指定を受け、春の女神と呼ばれるギフチョウが舞う環境が残された里山です。
自然の恵みである「七五三の湯」と呼ばれる多様で豊富な湯量の温泉。古の妙高の山岳信仰等に源を発する歴史・文化。自然と文化が一体となった「風土」という言葉がありますが、妙高の特色ある風土は妙高の自然の恵みとともにあり、地域固有の食文化、工芸等も育んできました。
妙高の暮らしは、自然の恵みに支えられています。豊かな森は清らかな空気と水を生み出し、絡み合った森の根は、大地を安定に保ちます。里では脈々と続く営みにより田畑が作られ、滋味豊かで、安全な農作物を育んでいます。里山の木や竹は、暮らしに用いる道具や煮炊き等の燃料として利用され、落ち葉や枯草は大切な肥料として使用されてきました。多雪がもたらす豊富な水は、山々の支流からやがて一級河川関川に集約され、下流の上越地域に暮らす人々の生活や産業を支えています。そしてその厳しくも豊かな自然と、古の妙高山岳信仰などが相まった特色ある風土が形成され、固有の食文化や工芸等が育まれています。
妙高連峰の山々やその山麓一帯は、古くから優れた自然の風景地として親しまれてきましたが、平成27年3月、全国32番目の国立公園である「妙高戸隠連山国立公園」に指定されました。山麓に豊富な温泉地がある「霊峰」妙高山。夏から秋にかけて大勢の登山客で賑わい、深田久弥による日本百名山の1つに数えられ、日本の名山として名高いです。
火打山山頂周辺では日本の北限とされるライチョウが見られ、雪解けと共にハクサンコザクラが群生する景色は息をのむ美しさです。地域の資源である自然景観や貴重な動植物の保護や保全、また賢明な活用を進め、公園来訪者へのサービス向上や公園の管理水準を高めます。国立公園妙高の魅力の第一は、日本百名山の妙高山、火打山、高妻山の三座が存在し、山々の成り立ちの違いに起因する美しく変化に富む自然景観が見られること。火打山は国内最北限の極めて重要なライチョウの生息地であり、各所に点在する湿原では高山性や湿原性の植物が季節ごとに花々を咲かせるなど、生命地域を象徴する生物の多様性が見ることができます。
妙高山は、標高は2,454m。越後富士とも呼ばれ、古来より山岳信仰の山として崇められてきました。外輪山に囲まれた堂々たる姿に深田久弥は「越後のみならず日本の名山だと思ってる」と書き山容の気品を称えている。複式コニーデ型の休火山で、外輪山には前山・赤倉山・三田原山・大倉山・神奈山があります。
妙高山という山名が記録に現れるのは室町時代と言われていますが、それ以前から妙高山を中心にその周辺の山々は修行する道場になっていました。妙高の名の由来については、その当時の修験者たちが仏教世界の中心にそびえる聖なる山、「須弥山(シュメール)」に見立て、訳語である「妙高」をあてて、こう呼ぶようになったと考えられています。妙高の山々における山岳信仰は、奈良・平安の昔からの伝統を今日に伝えており、中でも関山神社の「仮山伏の棒遣い」は、若者が大人として認められる地域民の通過儀礼とし奉納するものであり、人々の暮らしと密接なものとなっています。また、関山神社の社殿や境内には、国の重要文化財銅造菩薩立像をはじめとした遺物・仏跡が伝えられています、このような妙高山麓に息づく私たちの歴史や生活文化などの宝は、現代に生きる人々が求める心の豊かさの原点とも言えます。
妙高山の麓、標高約1160mの場所に広がる燕温泉は、乳白色のお湯とほのかに香る硫黄臭があり、古くは湯治専門の温泉だったこともあり、良質なお湯が自慢です。イワツバメの群生地として知られ、大田切渓谷をはじめとする美しい自然に囲まれた秘湯です。
落差約80mの大瀑布「惣滝」など渓谷をめぐる散策コースや、妙高山のトレッキングコースなども充実しています。
燕温泉は、弘法大師が発見したと伝えられ、7つの温泉からなる妙高高原温泉郷の中で最も古い歴史を持つ古湯です。自慢の乳白色のお湯は、無料の露天風呂「河原の湯」「黄金の湯」で源泉を楽しめます。岩崖から湯が流れ落ちる音と小川のせせらぎが心地よいです。“白い湯の花”が、秘湯の雰囲気を盛り上げる。車で約5分の場所にある“赤い湯の花”の関温泉と、紅白のお湯を入り比べてみるのもよいです。ただし雪のため冬季は休業、「河原の湯」は混浴なのでご注意を。
標高約1,100mと妙高高原温泉郷の中で最も高所に位置する燕温泉。かつて、岩ツバメが群れを成して飛び交っていたことから燕温泉と名付けられたという。本格的な開発は、明治8年ですが、弘法大師発見の湯といわれ古くから惣滝の岩窟の下に湯が沸いていました。美肌効果のある成分を3つ含む、美肌の湯(トリプル美人湯)。上杉謙信の隠れ湯ともいわれています。「白い湯花」が特徴です。