四方山見物27



 

阿賀野川は、福島県に源流を持ち、新潟県を流れ日本海に注ぐ日本の河川です。国が指定した一級水系阿賀野川水系の本流であり一級河川に指定されています。 阿賀野川水系としての本流指定部分は一級河川阿賀野川と一級河川阿賀川であり、その全長は 210キロメートル、流域面積 7,710平方キロメートルに及びます。。



 

阿賀野川は新潟・福島両県にまたがり、流域面積7,710k㎡(日本で8番目)、川の長さ210km(同10番目)に及ぶ日本有数の大河です。福島県側では阿賀川と呼ばれています。源流は福島・栃木県境の荒海山に発していますが、猪苗代湖や尾瀬沼も水源としており、1年間に流れる水の量は129億トン(同2番目)にのぼり、その豊富な水量を生かし、福島県境付近では水力発電が盛んです。また、農業用水、工業用水、水道用水に活用され、河川公園には多くの人々が集うなど、その雄大な流れは人々に親しまれています。



 

昔の嫁入りは夕方から夜にかけて行われ、あたりは暗く、提灯を提げて行列していました。狐火もこの提灯の明かりのように見えることから「狐の嫁入り」と呼ばれたと考えられています。(阿賀町ものしりガイドブックより引用)



江戸時代の嫁入りを再現した「つがわ狐の嫁入り行列」は白無垢姿の狐メイクを施した花嫁が夕方から夜にかけて街道を練り歩き、お供を連れて行列します。町では灯りを消し松明や提灯で幻想的な雰囲気を演出します。

 

「狐の嫁入り行列」は幻想の世界です。しかし、親から子へ、子から孫へと言い伝えられ、狐火の多く見える年(狐の嫁入り行列の見えた年)は豊作で縁起が良いとされていました。

 

「つがわ狐の嫁入り行列」は新潟県阿賀町に伝わる幻想的な物語を現代に表現した唯一無二の体験イベントです。公募によって選ばれたカップルが花嫁・花婿役を務めます。白無垢姿の狐メイクを施した花嫁が、夕方から夜にかけて街道を練り歩き、お供を連れて行列します。町では灯りを消し松明や提灯で幻想的な雰囲気を演出します。

 



岩谷山平等寺は新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷に境内を構えている曹洞宗の寺院です。平等寺の創建は平安時代末期の長徳元年(995)に当時の陸奥鎮守府将軍平維茂が開基したと伝えられています。平維茂は誕生年、没年共に不詳で父親も平繁盛説や平兼忠説などがあり、こちらも不詳、正式な史書というより物語系、軍記物系に度々名前が挙がり実在した人物をモデルにしたとも考えられています。

 

一般的に知られている官職としては鎮守府将軍・信濃守・従五位上・余五将軍・将軍出羽介などで「紅葉狩」では悪鬼を悉く切り倒し猛将としての印象が強い武将です。その維茂がこの地へ訪れた時、阿賀野川の中から神々しい光が発している見つけ、不思議と思い拾い上げると黄金色に光る薬師如来像だったそうです。維茂は神意と悟り付近の高台に堂宇を建立し薬師如来像を祀り平党寺としたのが始まりとされます。



平維茂は平安時代中期の武将で、陸奥守平繁盛の子供とも孫とも云われ、伯父である平貞盛の15番目の養子になった事から余五君や余五将軍とも呼ばれました。維茂は「今昔物語集」や「後拾遺往生伝」、「吾妻鏡」、「元亨釈書」などに登場するものの、はっきりとした事は判っていません。後年は源信僧都に帰依し、死の間際に成仏し極楽浄土に行く為に極楽迎接曼荼羅を授かったとの逸話が残っています。官位としては従五位上、信濃守、鎮守府将軍に就任した事から、信濃国(長野県)に伝説や伝承が残されていますが、一方、一見何の関係も無い越前国(新潟県)の平等寺で何故か維茂の伝説が伝えられています。

 

その理由の一つが「吾妻鏡」によると平維茂の後裔が城四郎長茂であると記されている事が手掛かりになります。平維茂の長男繁貞が越後国に配され一定の勢力を得て、三男の繁茂は秋田城介(出羽国司)を経て越後に土着し城氏の祖になったされます。城氏は乙宝寺(新潟県胎内市)や法音寺(新潟県新発田市)、華報寺(新潟県阿賀野市)を庇護するなど、平安時代後期から鎌倉時代初期にかけて越後の文化に大きく貢献しています。その後裔と思われる城四郎長茂は治承5年(1181)に木曽義仲追討を命じられ信濃に侵攻するも横田河原の戦いで敗退、しかし、平宗盛から越後守に任ぜられています。

 

しかし、平家没落と共に越後守は罷免され、奥州合戦で功を挙げて御家人として復権を果たすものの、その後は鎌倉幕府内の権力闘争に巻き込まれ建仁の乱で討死しています。又、一族である城小太郎資盛とその叔母坂額御前も越後国で幕府打倒の挙兵を行い、有力御家人の佐々木盛綱に鎮圧されています。これらの事から平維茂本人にとっては越後国(新潟県)とは全く関係がありませんが、その後裔が深く関わっていた事が判り、平等寺は維茂本人というよりは、後裔の一族が維茂の追善供養の為に創建したと考える方が自然と思われます。

 

現在の平等寺薬師堂は室町時代後期の永正14年(1517)に永源和尚の発願により再建された建物で、木造平屋建て、寄棟、茅葺、妻入り、間口3間、奥行き4間、外壁は真壁造り素木板張り、意匠や組物など当時の禅宗様の特色が見られます。平等寺薬師堂は室町時代に建てられた御堂建築の遺構として大変貴重なことから大正12年(1923)に国指定重要文化財に指定されています(建築年が明確な建物としては新潟県2番目の古さ)。又、平等寺の境内の前には会津地方から越後地方を結ぶ街道沿いにあった為、戦国時代には軍道として利用され、内部には元亀、天正から元和年間に兵士が平等寺を宿所や参拝した際に様々な落書きを残しています。特に天正6年(1578)に上杉家の後継者争いによって勃発した「御館の乱」で、武力介入し敗れた芦名家の家臣のものあり歴史的にも価値があるそうです。山号:岩谷山。宗派:曹洞宗。本尊:薬師如来像(旧本尊は戦後盗難)。

 

平等寺の隣地には維茂を埋葬後に目印として植えられたと伝えられる将軍杉や維茂の夫人が住んでいた御前ヶ遊窟、身を投げた御前ヶ鼻があります(維茂の墓は長野県上田市別所温泉にある将軍塚とも云われています)。平等寺はその後荒廃しますが永世年間(1504~1521年)に住職だった永源が復興に尽力し永正14年(1517)に現在の薬師堂を建立するなど再興します。平等寺は江戸時代に入ると会津藩から庇護され寛文8年(1668)には会津藩初代藩主保科正之(3代将軍徳川家光の異母兄弟)が将軍杉に維茂の墓碑を建立、万治3年(1670)には骨岩道徹和尚が改宗開山し天台宗から曹洞宗の寺院に再興されています。



将軍杉は新潟県東蒲原郡阿賀町岩谷に位置しています。将軍杉将軍杉は平等寺境内に立つ巨木で、伝説によると余五将軍平維茂(養父である平貞盛は数多くの有能の人材を養子に迎え、維茂は15番目の養子だった事から余五将軍と呼ばれた。)が亡くなり遺骸を葬った後目印として植えたと伝えられています(維茂は猛将として知られ、信濃守の際には戸隠山に巣くう鬼女紅葉を征伐し、その傷が原因となり死去しました。遺骸は維茂と縁のある北向観音(長野県上田市別所温泉)近くの将軍塚に葬られたと伝えられています。

 

当地では阿賀野川で下ってきた維茂が金色に光る観音像を発見したことから神意と悟り、平等寺薬師堂を建立し永住したと伝えられています)。又、他の伝説では、後年、阿賀野川舟運で栄えた住民達が新たな帆掛け舟を平等寺の将軍杉で造船しようと計画した翌日、不思議な事に杉は枝下まで沈み切り出す事が出来なくなってしまいました。住民達は維茂の祟りと恐れ戦き、伐採計画を中止し、将軍杉を信仰の対象として長く保護したと伝えられています。



将軍杉平等寺の将軍杉の推定樹齢は1400年を数え、その名声から寛文8年(1668)に初代会津藩主保科正之が余五将軍平維茂の墓碑(「鎮守府将軍平維茂碑並銘」※碑文は江戸時代前期の儒者で林羅山の三男である林鵞峯)を建立しています。根本から6本の大枝が分かれていて中央部分は昭和36年(1961)の室戸台風により失われましたが幹周り19.31メートル、樹高約40メートルは日本最大級の杉とされています。将軍杉は大変貴重なことから昭和2年(1927)に国指定天然記念物に指定されています。

 

平等寺の東隣、岩谷集落を見下ろすところにどっしりと根を張り、四方に太い枝を伸ばした将軍杉は、樹齢が推定で1,400年、幹周19.31メートル、樹高38メートルを測ります。平成12〜13年度に環境省が行った「全国巨樹・巨木林フォローアップ調査」での杉の部において、それまで日本一であった鹿児島県屋久島の縄文杉(16.1メートル)を抜いて日本一の巨木となったものです。

 

「将軍杉」という名の由来は、晩年をこの地で送ったとされる陸奥鎮守府将軍平維茂にちなんでつけられたものです。将軍杉に関わる様々な伝説も残っています。昔、集落の人々は阿賀野川の水運で生計を立てていたが、ある時、新しい船に使う帆柱がないので将軍杉を伐採して作ることを決め、翌朝斧を持って杉のところに行ってみると、一晩にして枝下の部分まで地下へ沈んでしまいました。これ以来、村人たちは将軍杉を手厚く保護し、今に伝わるとのことです。

 

弥彦村は、新潟県の村です。西蒲原郡に属しています。燕市への通勤率は34.1%・新潟市への通勤率は14.6%。 越後国一の宮、彌彦神社の鳥居前町です。弥彦山や弥彦温泉、弥彦公園とあわせて観光客が多く訪れます。弥彦競輪場では、日本で唯一の村営開催による公営競技が行われています。

 

弥彦村は、新潟県のほぼ中央部の日本海側に位置し、西は霊峰弥彦山(634m)を隔てて新潟市・長岡市と接し、東南は燕市、北は新潟市とそれぞれ肥沃な穀倉地帯を隔てて隣接しています。古く神代の時代、天照大神の曾孫の天香山命が、日本海を渡り、弥彦山西側にあたる野積海岸(現長岡市)に上陸され、住民に海水から塩を作る方法や、網や釣針を使った漁法を教え、その後この弥彦の地に鎮座され、農耕技術など様々な産業の基礎を授けたと伝えられています。



命の去った後も、その子孫六代にわたって越後文化の基礎が作り上げられていったことから、天香山命をご祭神としている越後一の宮「彌彦神社」は、万葉の昔から「おやひこさま」の愛称で広く民衆から愛され、崇拝されてきました。

 

このため弥彦村は「越後文化発祥の地」と言われ、彌彦神社の門前町として、また北国街道の宿場町として人々が行きかい、賑わいのある町として栄えてきました。 明治維新後に出雲崎民政局の支配となり、明治12年郡区改正により西蒲原郡に属し、明治34年11月1日には弥彦村、桜井郷村、矢作村の三村を合併して新生「弥彦村」が誕生し、以後今日に至るまでほとんどその形を変えることなく、100余年が経過しています。近年は、交通網の発達により時間、距離も大幅に短縮され、立地条件に恵まれて県内はもとより首都圏・関西方面との結びつきもより強くなり、新潟県内屈指の観光地となっています。



 

山麓駅から山頂駅までを約5分で結ぶ弥彦山ロープウェイ。越後平野を一望しながら空中散歩を楽しめます。天気が良ければ、遠くに佐渡が望めます。麓には、「おやひこさま」と呼ばれる彌彦神社や温泉街もあり、春には桜が、秋には紅葉が楽しめ、多くの人でにぎわいます。

 

彌彦神社境内から続く「万葉の道」を歩き、弥彦山ロープーウェイ山麓駅まで行くことができます。森林浴をしながらの散策は良い気分転換に。また、神社からは山麓駅までの無料シャトルバスもあり、こちらも便利です。

 



彌彦神社御神廟へは弥彦山9合目にある山頂駅から歩いて約15分。標高634mの弥彦山山頂で神聖な空気を感じてください。山頂駅付近にある弥彦山頂公園には、展望レストランや高さ100mの回転昇降展望塔「パノラマタワー」があり、越後平野、日本海や佐渡を一望できます。

 



 

山頂駅まで約5分の空中散歩を楽しめます。高さ100メートルのパノラマタワーからの景色は絶景です。天気が良ければ遠くに佐渡ヶ島を見ることができます。20分間隔で運行しています。彌彦神社拝殿脇よりロープウェイ山麓駅までの送迎バスが出ています。徒歩で20分、バスで3分ほどの万葉の道を通ります。

 

 

弥彦山の標高は、東京スカイツリーと同じ634m。弥彦駅から徒歩で約15分、表参道登山口から山頂まで初心者でも1時間30分と登りやすく、多くの登山客が訪れています。弥彦山ロープウェーや、ドライブコースの弥彦山スカイラインもあり、気軽に頂上までアクセスできることも人気の理由です。山道はきれいに整備されており、比較的歩きやすいので、お子様の登山デビューにもおすすめ。行きは歩いて登り、帰りはロープウェーで下山ができるというも安心です。

 

新潟平野のほぼ中央部の日本海に面した弥彦山塊の主峰。北隣に続く多宝山と双耳峰の姿をしています。佐渡弥彦米山国定公園の一部で、山頂には彌彦神社の祭神(天香山命)と妃神(熟穂屋姫命)の御神廟があり、弥彦神山として新潟県人の「心のふる里」と仰がれています。弥彦山九合目にある弥彦山頂公園には、展望レストランや高さ100mの回転昇降展望塔「パノラマタワー」があり、越後平野、日本海や佐渡を一望できます。また、山頂には彌彦神社の奥宮、御神廟があります。古くから霊山として崇められてきた弥彦山の自然のパワー、神聖な空気を感じることもできます。



春限定ですが、田植えが終わる頃、越後平野の田んぼは水が張られ「水田の水鏡」となります。朝日が照らす黄金の水鏡は一見の価値あります。夜には山頂付近から全国夜景100選、日本夜景遺産に選定されている越後平野のきらめく夜景と満天の星空を楽しむことができます。「全国夜景100選」、「日本夜景遺産」に選定されている越後平野のきらめく夜景と満天の星空を楽しむことができます。

 

標高は、634m。表参道登山口から山頂まで初心者でも1時間30分と登りやすく、多くの参拝者、登山客が訪れています。弥彦山ロープウェイやドライブコースの弥彦山スカイラインもあり、気軽に頂上までアクセスできます。山道はきれいに整備されており、比較的歩きやすいので、お子様の登山デビューにもおすすめ。行きは歩いて登り、帰りはロープウェーで下山ができるというのも安心です。

 



広々とした越後平野の中央に聳えたつ弥彦山の麓に鎮まります彌彦神社は、古くから「おやひこさま」と呼ばれ、心のふるさと、魂のよりどころとして多くの人から広く親しまれてきました。境内はうっ蒼たる樹林に覆われ、亭々たる老杉、古欅は見るからに神々しく、日本最古の万葉集には、弥彦神社を詠んだものが二首歌われています。

 

 

「伊夜比古おのれ神さび 青雲のたなびく日すら 小雨そぼ降る」「伊夜比古 神の麓に今日らもか 鹿の伏すらむ皮衣きて 角つきながら」 御祭神は天香山命「アメノカゴヤマノミコト」で神武天皇の命を受け、住民に海水から塩をつくる技術、漁、稲作など農耕術などの基礎を教えられたとのこと。 神社の社殿は、明治の大火に炎上し、大正5年に再築されました。平成13年に平成大修営事業として、本殿の御屋根葺替え等85年ぶりの改築工事を行いました。

 

越後一宮として古くから信仰を集めてきた彌彦神社。「おやひこさま」として人々に親しまれ、初詣には毎年20万人以上の参拝者が訪れます。御祭神は天照大神の曾孫の天香山命(あめのかごやまのみこと)。創建から2400年以上の歴史を有するとされる神社で、日本最古の万葉集にも詠われています。祭神と妃神の仲が良いことから、縁結びにご利益があるといわれています。



アクセスも良く、JR弥彦駅から徒歩圏内にあり、車では三条燕ICより行くことができます。近くに無料駐車場もあります。彌彦神社には見事な鎮守の森があり、樹林に覆われた境内には神聖な空気が漂います。紅葉スポットとして特に有名ですが、年間を通して美しい自然と森林浴を楽しむことができます。火の玉石(重軽の石)は持った時の重さの感じ方により、願いが叶うかどうかを占うものです。ぜひ試してみては。新潟県内でも特に人気のスポットなので、厳かな雰囲気を堪能したい方は早朝の人の少ない時間帯での参拝がおすすめです。

 

弥彦山山頂には奥宮の彌彦神社御神廟があり、こちらも参拝することをおすすめします。神社から10分ほど歩いたところに、弥彦山ロープウェーの山麓駅があり、そこから山頂駅まで行くことができます。神社から駅までの無料シャトルバスも利用できます。お車をご利用の方は弥彦山スカイラインでもアクセス可。新潟県随一のパワースポット「彌彦神社」では、毎朝 大神様に米・酒・塩などのお供えをし、皇室の弥栄と国の繁栄、皆様の家内安全などを祈念しております。この毎朝のお祭りを 『御日供祭』 (おにっくさい)といいます。このお祭りは、これまで一般には案内がされてきませんでしたが、彌彦神社の了承を得、平成25年より参列のお許しをいただきました。なかなか体験することができない厳かな行事です。




古くから信仰を集めてきた彌彦神社。2400年以上の歴史を有するとされ、初詣には毎年20万人以上の参拝者が訪れる人気の神社です。JR弥彦駅から10分ほど歩くと、見事な鎮守の森が見えてきます。樹林に覆われた境内は神聖な空気が漂いますが、森林浴や紅葉も楽しめるとあって人気のスポットなので、厳かな雰囲気を堪能したい方は早朝の人の少ない時間帯での参拝がおすすめ。

 

境内には「重軽の石」という「願いを占う石」があります。願いごとを頭の中に思い浮かべ、石を持ち上げる時に、軽いと感じれば願い事は成就、重いと感じれば成就は難しいというもの。参拝の際は占ってみてはいかがでしょうか?本殿からさらに奥へ10分ほど歩くと弥彦山ロープウェーの山麓駅があり、そこから山頂駅まで行くことができます。弥彦山山頂には奥宮の彌彦神社御神廟があり、こちらも参拝することをおすすめします。