鳴子峡は大谷川の浸食により生まれた大峡谷。宮城県の名勝に指定され、栗駒国定公園に含まれます。100mほどの断崖が続き、豊富な奇岩が岩肌に生える木々とともに壮大な景観をつくりだしています。東北有数の紅葉の名所でもあり、深い大峡谷が紅葉で彩られる様は圧巻!色づく木々の合間から見える白い岩肌が良いアクセントに。年にもよりますが、紅葉の見ごろは10月下旬から11月上旬頃にかけてです。「鳴子峡レストハウス」見晴台や展望デッキから素晴らしい景色を望むことができます。美しいアーチが印象的な「大深沢橋」は鳴子峡を代表する景観。橋の上からも峡谷を眺めることができます。運が良ければトンネルから出てくる電車を見ることもできます。
1200年ほどの昔、箟岳山(宮城県涌谷町)に大武丸という蝦夷がいました。坂上田村麻呂が大武丸を打首にしたところ首が飛びました。その首が落ちた地を鬼切辺(おにきりべ)と呼び、やがて鬼首になりました。アイヌ語で「小さな川が集まって大きな川になる所」を意味する「オニカペツ」がやがて鬼首になりました。平安時代、陸奥国の酋長だった大竹丸は、征夷大将軍・坂上田村麻呂との戦いに敗れ、捕らえられて斬首されました。 その首は遠くへ飛びたって、岩に噛み付き無念の声をあげたといいます。 以来、その岩のある地域を鬼切部と呼ぶようになり、やがて鬼首となって今に至っています。
鬼首(おにこうべ)かんけつ泉には、約10分間隔で15m程噴出する間欠泉「弁天」と、10~20分間隔で2~3m噴出する間欠泉「雲竜」の2つの間欠泉があります。当園内の間欠泉噴騰メカニズムは、鉄鋼の研究で有名な故本多光太郎博士と故野邑雄吉博士により研究されました。 研究の結果、「地下にある空洞に地下水が溜まり、これに火山の熱源が過熱して噴騰する①、垂直の穴に地下水が流れ込み、その下の火山熱で噴騰する②のケースがある」と認められました。このうち①が弁天、②が雲竜と考えられます。
寒湯番所跡は旧築館町の西北約27.4km、温湯温泉の東100mの所にあります。仙台藩領から一迫川渓谷に沿ってすすみ、秋田県境の鞍部を通り、秋田藩雄勝郡に通ずる「花山越え」の要衝に置かれた仙台藩の関所です。このように他藩との境に設けられた関所を境目番所と称しました。当番所は奥羽山脈方面12カ所の番所の一つで、表門は街道をまたぐ茅葺で、何れも幕末の建築であすが、関所遺構として残存するのは、全国的にもめずらしい例であり、きわめて貴重なものとされています。
温湯温泉から湯の倉温泉へ向う道と約2kmほど進むと吊り橋があります。この吊り橋を渡りさらに1.2kmほど行ったところにある滝で高さは45mの岩盤を白糸が綾となり縫うようにして落ちています。その可憐とも表現される美しさから白糸ノ滝と呼ばれ、周囲をハイキングする人々の憩いの場所となっていあます。
花山地区では、夏そば、秋そばの双方を収穫しており、3℃の低温倉庫で保管され、必要分をその都度石臼で製粉しています。香りのよく甘味がする美味しい蕎麦を常に食することができます。花山地区には、「農業そば 坊の蔵」「ざらぼう」「花舞の里」と3件の蕎麦屋が連なりますが、3軒共に坊の蔵のそば粉を使用しているのでどの店でも美味しいそばを食することができます。
湯浜峠は、標高781mの峠で宮城県栗原市と大崎市の境界にあり、栗駒山の素晴らしい景色が見渡せる展望地です。ヘアピンカーブが多く、急坂が続いたり、両側は林に覆われて視界が悪いので注意が必要ですが、周辺には太古からのブナ原生林が生い茂り紅葉がとても綺麗で、湯浜温泉が近いので家族で自然を満喫できる場所です。大型車は通年通行止めとなり、冬季は閉鎖していますが、その翌年4月にテープカットなどを行う開通式を行い通行可能となります。
2011年3月11日発生の東日本大震災による大津波とその後の大規模な火災は、死者1,143人(震災関連死を含む。)、行方不明者212人に上る最大級の悲劇を気仙沼市にもたらしました。
黒い海は尊い命と街をことごとく奪い、被災した気仙沼市民はそれまでの暮らしを失いました。 津波は真っ黒で、すごい勢いで住宅をのみ込んでいきました。気仙沼湾は大きくうねり、漁船がゆらゆらと漂っていました。
東日本大震災は、2011年3月11日14時46分頃に発生。三陸沖の宮城県牡鹿半島の東南東130km付近で、深さ約24kmを震源とする地震でした。マグニチュード(M)は、1952年のカムチャッカ地震と同じ9.0です。これは、日本国内観測史上最大規模、アメリカ地質調査所(USGS)の情報によれば1900年以降、世界でも4番目の規模の地震でした。本震による震度は、宮城県北部の栗原市で最大震度7が観測された他、宮城県、福島県、茨城県、栃木県などでは震度6強を観測。北海道から九州地方にかけて、震度6弱から震度1の揺れが観測されました。今回の大震災では、岩手、宮城、福島県を中心とした太平洋沿岸部を巨大な津波が襲いました。各地を襲った津波の高さは、福島県相馬では9.3m
以上、岩手県宮古で8.5m 以上、大船渡で8.0m以上、宮城県石巻市鮎川で7.6m以上などが観測(気象庁検潮所)されたほか、宮城県女川漁港で14.8mの津波痕跡も確認(港湾空港技術研究所)されています。また、遡上高(陸地の斜面を駆け上がった津波の高さ)では、全国津波合同調査グループによると、国内観測史上最大となる40.5mが観測されました。
国宝大崎八幡宮は、伊達家創始以来の伝統と信仰を基盤として、新たに町を開き時代を拓くに当り、城下の人々の平穏を導く「仙台総鎮守」としての役割を加えて創建されたものです。このような仙台勧請までの様子については、5代藩主伊達吉村公の命により制作された『大崎八幡来由記』に絵巻として残されています。仙台の地はもとは「千代」と呼称されていましたが、開府に当り「仙台」へと改称されています。慶長13年(1608)頃に政宗公が詠んだ「入そめて 国ゆたかなる みぎりとや 千代とかぎらじ せんだいの松」という和歌は、「千代」と「せんだい」の語が織り込まれ地名の改称を暗示するとともに、新たな町の末永い繁栄への祈念が表現されたと解されています。
「仙台」の語は中国唐代の詩人、韓翃の「同題仙遊観」作中の「仙台初見五城楼」、崔曙の「九日登仙台呈劉明府」、陳子昂の「登金華観」作中の「白玉仙台古」にみられ、各々、この世のものとは思えない理想の場の例え、仙人の住む高台、等と解されていることから、政宗公の壮大な理想が表現されていると推測されます。御創建以来、藩政時代を通じ仙台藩62万石の総鎮守として重んじられ、明治以降は大崎八幡神社と称するも、平成9年6月、藩祖公御創建以来の歴史的経緯を考慮し社名を「大崎八幡宮」に復し、現在に至っています。
例大祭は9月14、15日両日に行われ、14日は夕刻より長床西側の神楽殿にて能神楽が奉奏されます。15日は神幸祭神輿渡御があり、氏子区域内を3行路に分けて年毎に巡幸します。還御の後、馬場にて御創建以来の由緒を持つ流鏑馬神事が齋行されます。御鎮座以来、仙台総鎮守として藩祖伊達政宗公はじめ歴代藩侯はもとより、仙台城下の人々に至るまで広く厄除・除災招福や必勝・安産の神として篤く尊崇され、また仙台における卦体神という十二支の神を信仰する習俗においては乾(戌亥)の守り神とされ、戌歳・亥歳生れの人々からは格別の崇敬を受けています。こうした歴史的背景から、現代においても仙台市民をはじめとする数多くの崇敬者より心のよりどころとして仰がれています。
仙台秋保温泉の歴史は古く、古墳時代に遡ります。第29代欽明天皇が小瘡(皮膚病)を患った時、秋保から運ばせた湯で湯浴みしたところそれが完治したと云われています。その時の様子を天皇は、「覚束な雲の上まで見てしかな 鳥のみゆけは跡はかもなし」としたため(この中に「名取の御湯」を隠語としてかくした歌)、その効能を賞賛し「御湯」の称号をさずかったと云われています。秋保は以後、信濃御湯(別所温泉)、犬養御湯(野沢温泉)とともに「日本三御湯」と称され、日本中から湯治客を集めた。戦国時代になると、伊達政宗公も秋保の地を度々訪れ、その疲れを癒したという記録も残っており、雄大な自然と湯を兼ね備えた仙台秋保温泉は、古くから保養の地として人々に親しまれてきた歴史を持っています。
瑞巌寺は正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院です。9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっています。13世紀中頃、鎌倉幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と改めています。
関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも戦国時代を経て衰退していた円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行い、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求め、畿内から名工130名を招き寄せる等、政宗公の意気込みが感じられます。
慶長13年(1608)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文を見ることができます。これが「瑞巌寺」という呼称の初出で、以後、正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」としました。翌慶長14年(1609)、5年の歳月を経て工事が完了し、以後江戸時代を通じて伊達家の菩提寺として領内随一の規模と格式を誇りました。
桃山美術を現在に伝える貴重な建築物であることから、昭和28年(1953)に本堂(附属御成玄関)が、昭和34年(1959)に庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定されています。平成30年(2018)には10年に及んだ「平成の大修理」が完了し、政宗公が心血を注いで完成させた創建当初の姿が現在に甦りました。
松島のシンボル・五大堂は、大同年中(807~809)坂上田村麻呂が東征のとき、毘沙門堂を建立し、後に慈覚大師円仁が五大明王像を安置したことから、五大堂と呼ばれるようになりました。現在の建物は、 伊達政宗が慶長9年(1604)に再建したもので、東北地方現存最古の桃山建築です。堂四面の蟇股には方位に従って十二支の彫刻が施されています。秘仏とされる五大明王像は、五代藩主吉村が500年ぶりにご開帳した1700年代以降、33年に一度ずづご開帳されるようになりました。伝説では、 慈覚大師円仁が、五大明王像を安置したところ坂上田村麻呂が祀った毘沙門天は、ある夜、光を発して沖合いの小島に飛び去り、 その島は毘沙門島といわれるようになったそうです。
松島海岸東側に浮かぶ面積6㏊ある県立自然公園「福浦島」に架かる252mの朱塗りの橋は、通称出会い橋と呼ばれており、渡ると良縁に恵まれると言われています。島内では、四季折々の草花や松島湾を眺めながら散策が楽しめます。また東日本大震災の際に橋脚の一部を損壊しましたが、台湾『日月潭(にちげつたん)』の遊覧船業者の皆さんが集めていただいた義援金を橋梁の修復工事に使わせていただき、2012年6月に橋の修復が完成しました。それ以来、台湾との『絆の架け橋』と呼ばれています。
宮城県宮城郡松島町、松島湾の島巡り観光船が発着するのが松島観光船乗船場・中央観光桟橋。目印となるのは松島海岸レストハウスでこの窓口で受付し、海側に伸びる中央観光桟橋で乗船します。丸文松島汽船、松島島巡り観光船企業組合、ニュー松島観光船の3社が運航するのでご注意を
日本三景とは、京都の「天橋立」、広島の「宮島}、そして宮城の「松島」のことです。江戸時代の儒教学者・林春斎(はやしがほう)が記した、『日本国事跡考』に登場したのがはじまりと伝えられています。松島とは、松島湾内外に浮かぶ260余りある島々の総称です。はるか昔は丘陵でしたが、地殻変動によって沈下し、山や丘の頂上部分が海面に残り島となりました。仁王島、千貫島、小藻根島、鐘島、双子島、かえる島、鎧島など、大小全ての島に名前がついています。
宮城県の沿岸地域中部に位置する「仁王島(におうじま)」。松島湾に浮かぶ小さな島の一つです。ゴツゴツとした形状が特徴で、神話に登場する「金剛力士(こんごうりきし)」、通称「仁王」の姿に似ていることからこの名前がつけられました。長い歳月をかけて海波の浸蝕によって形成された特異な形状は、まさに自然が生み出した芸術作品です。およそ260もの島が存在する松島の中でも、松島を象徴する「看板島」として知られるスポットです。
風光明媚な松島ですが、古から月の名所として知られていました。仙台藩初代藩主・伊達政宗をはじめ、俳人・松島芭蕉や、アルベルト・アインシュタインなども、月見目当てに松島を訪れたそうです。松島は首都圏・仙台方面からのアクセスも良く、年間でおよそ300万人以上の観光客が訪れます。世代や国を問わず人々を魅了する景色を、ぜひその目に焼き付けてください。