ba3ji3の植物園7


  

 

日本で食べられるようになったのは、江戸時代末期の1830年代といわれています。いちごはオランダ船によって持ち込まれたので、当時はオランダイチゴと呼ばれていたのだとか。その後、明治時代に農業が近代化されるにつれ、欧米からさまざまな種苗が導入されるようになり、1900年ごろには外国品種を使った営利栽培が始まっています。園芸学では、木の実(木本性)は果物(果樹)、草の実(草本性)は野菜と分類します。草本性であるいちごは野菜です。また、農林水産省の作物の統計調査でも野菜に含まれています。ただし、実際は果物と同じように食べられていることから「果実的野菜」とも呼ばれています。いちごの表面にあるツブツブは種ではなく、ひとつひとつが果実です。それぞれのツブツブの中に種が入っています。一粒のいちごは、200個から300個の果実が集まった「集合果」なのです。私たちが果実だと思って食べている甘い部分は、実際は茎の先端の花床が膨らんだ偽果(ぎか)です。

 

さくらんぼは、バラ科サクラ属の落葉中高木で果実とともに桜桃(おうとう)とも呼ばれています。果実は、丸く赤いものが多いですが黄色や黒紫色の品種もあります。日本で栽培されている生食用のさくらんぼの殆どは、甘果おうとう(セイヨウミザクラ )に分類され、他に酸味の強い調理用の酸果おうとう(スミミザクラ)等があります。さくらんぼは、一部のものを除いて、異なる品種で授精しなければ果実がならない自家不和合性であり、相性のいい品種を混植する必要があります。収穫期は、山形県で6月上旬から7月上旬、主要品種の「佐藤錦」は6月下旬、「紅秀峰」は7月上旬です。近年は、加温ハウスや無加温ハウス栽培が普及し、4月上旬頃から継続して出荷されています。

 

さくらんぼは有史以前から人類に食されていました。さくらんぼの原産地は、甘果おうとうはイラン北部からコ-カサスを経てヨーロッパ西部、酸果おうとうは黒海からイスタンブール周辺といわれています。紀元前65年古代ローマの将軍が黒海南岸のケラソス(Kerasos 現在のトルコのギレスン(Giresun))付近でさくらんぼの木を見つけ、ローマに持ち帰り、その後ヨーロッパ諸国に広まったと云います。 さくらんぼの属するサクラ亜属の学名CerasusはKerasosのラテン語標記です。こういったさくらんぼが縁で「さくらんぼ発祥の地ギレスン」と「日本一さくらんぼの里さがえ」は昭和63年姉妹都市を締結しました。

 

メロンはウリ科のキュウリ属に分類されています。果物として食べられておりますが、農林水産省では「野菜的果実」に分類しており、様々な統計においても野菜として扱われています。青果市場での取り扱いや栄養学上では果実として取り扱われています。メロンの歴史は、北アフリカや中近東が原産とされており、紀元前2000年頃から栽培されております。その後西方に伝わったものをメロンと呼び、東方に伝わったものを瓜と呼ぶようになりました。日本では縄文時代初期の遺跡からマクワウリやシロウリの種子が発掘されております。日本では明治時代の中期に栽培家の福羽逸人がフランスから種を取り寄せて栽培を開始しましたが、香りは非常に良いものの味はいまいちでした。

 

その後、ガラス室で栽培されている温室メロンを導入しうまくいきました。このメロンは、華族や財閥の邸宅で栽培されるようになったので、高級果実というイメージが付きました。戦後庶民にもメロンが広がるきっかけになったのが、1962年に栽培面積が広がった「プリンスメロン」(ノーネット系)の登場です。その後品種改良がおこなわれ、「アンデスメロン」や「アムスメロン」(ネット系青肉)等のメロンが広がりました。現在温室メロンとして流通している「アールスフェボリット」は、1925年にイギリスから輸入された品種で、この最高級のものがクラウンメロンとして流通しています。メロンの品種には大きく分けて2種類あります。網目がある「ネット系」とマクワウリのように網目のない「ノーネット系」とに分類されます。現在では両方を掛け合わせた品種もできております。「ネット系」の中にも果肉が青い「ネット系青肉」と果肉が赤い「ネット系赤肉」とがあります。

 

びわの原産地は中国と日本南部。中国では古くから食用とされ、日本でも各地に小さなものが自生し、食べられてきたと考えられています。ただし、日本で自生していたものは小粒で商品価値が低く、当時は自家栽培のみでした。また、古くは日本には「びわを作ると早死にする」という迷信があり、それほど栽培が盛んにならなかったという背景があります。これは、当時びわが病人のいる家で薬代わりに栽培されることが多かったために逆に起こった迷信で、びわに含まれる成分がいかに薬効性の高いものであるかの裏返しでもあります。日本での栽培が盛んになったのは江戸時代からで、天保年間(1830年代)に中国から大きなびわが長崎に導入されたのがきっかけです。 現在、日本・中国・北部インドを中心に作られていますが、18世紀にヨーロッパに伝えられ、地中海沿岸でも栽培されています。「びわ」の名は、楽器の琵琶に形が似ていることからつけられたというのが一般的ですが、中国語の発音を真似た「ヒワ」からきたという説もあります。



毎年6月ごろに旬を迎える「もも」は、生食用として全国で100以上の品種が栽培され、約12万トンの収穫量があります(2017年)。歴史も古く、日本では弥生時代から身近な果物だったようです。ももの原産は中国といわれ、日本では、弥生時代の遺跡からももの種が見つかっている他、古事記や日本書紀にも記載があります。中国には、ももを食べた仙人が不老不死となった説話があることから「仙果」とも呼ばれ、花や葉、枝にも邪気をはらう効果があると考えられてきました。日本でも鬼を恐れさせるといわれ、これが昔話「ももたろう」につながったという説もあります。

 

古くは、主に観賞用として栽培されており、食用としての普及が始まったのは明治以降です。「日本のももの元祖」ともいわれる白桃(はくとう)を岡山県の大久保重五郎氏が発見したのが1899年。その後、白鳳やあかつき、川中島白桃といった日本を代表する品種が次々と登場していきます。20世紀半ばまで、主要な産地は岡山県など西日本の温暖な地域でしたが、その後、涼しい地域での栽培も盛んとなり、近年は山梨県と福島県でも栽培されています。現在、私たちが食べているももは、中国や欧米から入ってきた品種を日本の気候に合うように改良したもので、主に果肉が白い白桃系と、果肉が黄色の黄桃(おうとう)系に分けられます。また、変わった形や毛なしのものなどがあります。

 

スイカの原産地は南アフリカのカラハリ砂漠。今から4000年前、古代エジプトではすでに栽培されていたといわれていますが、世界各地で栽培されるようになったのは16世紀頃といわれています。中国ではシルクロードを通って西方より伝来したため漢字で「西瓜」と書きます。日本へは16世紀にポルトガル人によって伝来したといわれていますが、中国から伝わったとかいろいろな説があります。19世紀中ごろには全国的に栽培されるようになりましたが、産地というほどの集団栽培ではありませんでした。明治以降、優良品種の導入と改良が進み、各地に産地ができ始めました。鳥取県でも明治の終わり頃から本格的な栽培が始まり、県外にも販売されるようになりました。

 

「尾花沢すいか」は、全国的にみれば比較的新しい産地と見られていますが、山形県内では、すいかといえば「尾花沢すいか」を指すほど有名な産地です。本地域でのすいか栽培は、昭和28年頃に尾花沢市の開拓農家が仙台市場に向けて栽培したのが始まりといわれています。その後、尾花沢農業改良普及所・農協などの支援を受けながら、地域で適正品種の選定やマルチ栽培など技術開発に努めた結果、食味のよい「尾花沢すいか」が評判になり、近隣に広がりました。本地域のすいかは、昭和60年代頃までは、地域毎に「花笠西瓜」や「べにばな西瓜」などのブランドで販売されてきましたが、現在は「尾花沢すいか」の統一ブランドで販売されています。東京都中央卸売市場における山形県産すいかのシェアは、年間トータルでは3位ですが、真夏の8月期のすいかとしては一位となっており、量、価格とも日本を代表する産地となっています。

 

イチジクは西アジア~アラビア半島南部原産の落葉樹で、樹高は3m~6mになります。果樹として広く栽培されています。イチジクの仲間(フィクス属)は世界の熱帯を中心に700種~800種が知られています。観葉植物のベンジャミンやゴムノキ、ガジュマルなどもイチジクの仲間です。葉っぱは枝に交互に付く互生です。掌状に大きく3~5つに切れ込みますが、切れ方は浅かったり深かったりと、品種により形は異なります。長さは20cm~40cmと大きく、厚みがあります。聖書において、禁断の果実を食べたアダムとイブはイチジクの葉っぱで体を隠したとされています。枝、根、葉、果実には乳管細胞があり、切ったり傷つけたりすると、乳白色の液体を出します。イチジクの名前はペルシア語のアンジールを音訳した漢名『映日生(インジエクオ)』が訛ったもの、1日(あるいは1ヶ月)で熟すからなど諸説あります。

 

ブドウ科ブドウ属に属する落葉植物で,果樹としてオレンジ類に次ぐ世界第2位の生産量をあげています。ブドウ属Vitisは暖温帯から温帯にかけて約70種が知られ,その多くのものが果実を食用に利用されています。つる性で巻きひげを他物にまきつけてよじ登ります。葉は互生し単葉で,欠刻の有無や程度は多様です。巻きひげは節に葉と対生して生じますが,各節に連続してつくものと,2節おきに1節つかないものとがあります。花は小さくて多数が房になってつき,5~6月に開きます。両性花のほか雄花と雌花の区別のあるものや雌雄異株のものもあります。花弁は緑色で5個ありますが,上部が開かず,開花時には基部が離れて脱落します。両性花は子房上位のめしべと通常5本のおしべを持っています。果実は液果で内部に0~4個の種子を含み,8~10月に熟します。果実は大きさと形,果皮の色が変化に富んでおり,甘みと酸味を有し,食用にされています。

 

世界ではヨーロッパブドウ品種が1万以上あるといわれ圧倒的に多く栽培されていますが,日本ではアメリカブドウとの雑種が主体でデラウェア,キャンベル・アーリー,巨峰,マスカット・ベーリーAが代表的です。ヨーロッパブドウはその中でも比較的耐雨性の強い東洋系の甲州,ネオ・マスカットが露地で作られ,マスカット・オブ・アレキサンドリアがガラス室内で作られています。醸造用にはカベルネ・ソービニヨン,セミヨン,リースリングなどを筆頭に世界には数千品種ありますが,日本では栽培が少ないです。またトムソン・シードレスは種なしで干しブドウの原料として有名ですが,日本には適さず栽培されていません。世界では全体の約12%(1980)が生食用,約80%が醸造用,残りが干しブドウ,ジュース,ジャム,ゼリーなどの加工に用いられています。日本では約85%が生食用,約8%が醸造用,残りがジュース,瓶・缶詰,ジャムなどの加工用です。ギリシアやインドではブドウの若芽を野菜として利用することがあります。

 

酒田市刈屋地区で梨栽培が始まったのは110年ほど前の明治時代です。刈屋地区は日向川と荒瀬川の合流地点に位置しますが、昔は、この2本の川はよく氾濫していました。しかし、氾濫により鳥海山から運ばれてきたブナ林の養分を含む豊かな土壌が堆積し、梨栽培に適した刈屋の土壌が出来上がったのです。「刈屋梨」は、日本海と雄大な鳥海山の 自然がもたらす肥沃な土地によって生み出された、サクサク感と口の中に残るクセの無い甘みが魅力の気品あふれる梨として有名です。当地区では、昔は梨に限らず様々な果物を作っていたようです。しかし、土壌が肥沃すぎて果実が腐ってしまうほどであったことから、試行錯誤した結果、この土地に梨が 向いていることがわかり、栽培が普及していきました。また、刈屋地区には朝霧が無く、日照時間も安定しているという特徴があり、網を掛けずに栽培することができるため、梨の味に差が出るという恵まれた条件もあります。

 

刈屋地区の主力品種は「幸水」で全生産量の6から7割を占め、その次が「豊水」となっています。目標糖度は13度に設定されていて、この糖度などの数値は他産地の梨と 比べて特に高いというわけではありませんが、サクサク感と口の中に残るクセの無い甘味が刈屋梨の最大の特徴です。土作りから農薬の削減など、安全安心で高品質な梨づくりを目指しています。特に花粉交配(受粉)作業は、ねらい通りに授粉するため、綿棒を使い、手作業で行っています。 1つの枝に6から8つ咲いた花の中から、良い位置に咲いている花を受粉させないとその後の梨の大きさや格好も変わってくるため、なかなか手のかかる仕事です。刈屋梨は、地域の名産品のブランド化を推し進めるねらいから、平成19年に地域団体商標を取得しました。

 

朝日町は山形県の中央部に位置し、磐梯朝日国立公園の主峰・大朝日岳の東縁山麓地域にあります。最上川の両岸に沿った河岸段丘は、特産のりんごなどの果樹をはじめ農産物の栽培に適した肥沃な土地です。りんごを中心とする農業を基幹産業として位置づけ、りんごにこだわった町づくりを進めています。りんご栽培の歴史は古く明治20年にさかのぼりますが、朝日町りんごの銘柄が確立されたのは、昭和46年に全国に先駆けて「無袋ふじ」の栽培技術を確立し、中央市場で品質日本一の評価を得たことです。無袋ふじりんごは病害虫防除や着色管理の点から、袋をかけて栽培していましたが、袋をかけなくても着色や味の優れたりんごを栽培する技術です。ふじの品種でその技術を全国に先駆けて確立しました。

 

朝日町りんごは、無袋ふじ栽培技術の確立により市場で日本一の評価をいただき、生産者や市場関係者の間では銘柄産地としてのブランドが構築されてきました。しかし、このブランドもなかなか消費者まで浸透するものではありませんでした。朝日町ではりんごの素晴らしさを直接消費者に伝えるため仙台市や山形市で長年にわたり「りんごキャンペーン」を行ってきました。また、町内にも直売施設ができ、お客様が産地で直接りんごを買い求めることができるようにもなりました。さらに朝日町りんごの輸出の話題は、毎年マスコミで大きく取り上げられ消費者の目に留まる機会が非常に増えたこともあり、秋になるとりんご購入のため朝日町を訪れる方が急激に増加し、最盛期には交通渋滞が発生するほど膨れ上がりました。流通関係者だけでなく消費者にも朝日町りんごのブランドは浸透したのです。

 

色や形がふぞろいで、決して見栄えが良いとは言えない「ラ・フランス」。ところが、食べてみると驚くほど上品でとろけるようなおいしさ!今や各地で盛んに作られる西洋なしですが、このブームの火付け役になったのが、山形県のラ・フランスです。ただ、脚光を浴びるまでには、長い歳月を要しました。そもそも西洋なしは16世紀頃からドイツ、イギリスで栽培されはじめ、18世紀のイギリスで代表的品種「バートレット」が発見されました。これが明治初期、日本に伝わりました。山形県では、古くからのなし産地である東置賜郡屋代村(現在の高畠町)で、1875年に栽培を始めたとされています。しかし当初は、実ったはずの果実を食べても、石のように硬くてまずいものでした。「食べられないので捨てておいたら、時間が経って黄ばんで香りがしてきました。拾って食べるとおいしく、収穫後に熟させることに初めて気づいた」という笑えない記録があります。

 

また、屋代村の古文書には、「明治42年、皇太子(後の大正天皇)行啓の折に和梨を献上したところ大いに喜ばれ、金一封とバートレットの苗を賜わりました。これが本県の西洋なしの歴史のはじまり」という内容もあります。あれこれ推察すると、明治初期に西洋なしは栽培されていましたが、皇太子行啓をきっかけに、山形での西洋なしづくりが一気に広まったと考えられます。その後バートレットは、缶詰加工用として盛んに作られましたが、このバートレット畑に細々と植えられていたのが、当時は受粉樹の身だったラ・フランスです。ふつう果樹は、単一品種だけでは受粉しづらいため、違う品種を受粉樹として畑に入れ、実を結ぶ確率を高めるという栽培手法をとっています。ラ・フランスは1864年、フランスのクロード・ブランシュ氏が発見。そのおいしさに「わが国を代表するにふさわしい果物!」と賛美し、ラ・フランスの名前がついたと云います。日本には1903年、山形県には大正初期に入ったものの、見た目の悪さや栽培の手間から、受粉樹に利用されるだけでした。

 

庄内柿は、甘みたっぷりで風味もよく、庄内の秋を彩る味覚の一つです。庄内柿は、庄内地域でとれる柿のブランド名で、代表的な品種は「平核無」という四角い種無し柿です。「平核無」は渋柿のため、炭酸ガスやアルコールなどでの渋抜き作業を経て食用になります。庄内柿の収穫は、10 月上旬から始まり10 月中旬~下旬が最盛期で、生産者は、専用のカラーチャートで色づきを確認しながらベストのタイミングで丁寧に収穫します樹全体にまんべんなく陽が当たるように管理された柿は、秋の気温の低下とともに色づき、甘味が増していきます。柿は東アジア特有の果樹と言われ、日本では「古事記」や「日本書紀」に柿が出てくることから8世紀ごろには栽培されていたと推測されます。「柿は、ビタミンCやカロテン、カリウムなど、栄養が豊富です。風邪や生活習慣病、がんの予防、美肌や二日酔いにも効果があるとされ、『柿が赤くなると医者が青くなる』ということわざがあるほどです。

 

柿の種類は、大きくは甘柿と渋柿の2 種類に分類できます。「渋」の原因となっているのは、柿に含まれるタンニンです。渋柿に含まれるタンニンは水溶性で、口の中で溶けるため渋みを感じますが、甘柿は成長する過程でタンニンが水溶性から不溶性へと変化するため渋みを感じません。渋柿は炭酸ガスやアルコールなどの脱渋処理を経て、おいしく食べることができます。庄内柿のはじまりは諸説ありますが、明治18 年、鶴岡市の鈴木重光が新潟の行商人から苗木を購入して育てたところ、その中に1本だけ種の無い不思議な柿を発見したことがきっかけだといわれています。この苗を、果物の栽培研究をしていた庄内藩家老の子息、酒井調良(ちょうりょう)が譲り受け、渋抜き方法や販路など様々な問題を解決しました。酒井調良は庄内柿の普及に尽力したことから「庄内柿の父」と呼ばれています。

 

『みかん』とは皮をむきやすい小型のかんきつ類の総称ですが、一般的には圧倒的に収穫量の多い温州みかんを指す言葉として用いられます」と語るのは、農研機構(国立研究開発法人農業・食品産業技術総合研究機構)果樹茶業研究部門カンキツ育種ユニット長の吉岡照高さんです。「温州」とはかんきつ類の産地として名をはせた中国浙江省の地名ですが、原産地は鹿児島県の長島とされ、中国から伝わったかんきつ類から偶発実生として生まれたと考えられています。江戸時代にみかんといえば紀州みかんが主流で、家名の存続が重視されていたことから種の無い温州みかんは避けられていましたが、明治時代を迎えると、その食べやすさと玉の大きさが人気となり、生産が盛んになっていきました。暖かい気候を好む温州みかんは現在、主に関東以西の沿岸地域で栽培され、和歌山、愛媛、静岡が代表的な産地ですが、熊本や長崎など九州地方も1960年代に生産量を大きく伸ばしています。



クリ(栗)は、日本全国で見られるブナ科クリ属の落葉広葉樹です。イガを持つ実を落とし、現代人は、秋の味覚として親しんでいます。また、クリ材は知る人ぞ知る優良材で、縄文時代から食料だけでなく、建築材としても積極的に利用されてきました。今でも、鉄道の枕木や世界遺産の合掌づくりの主要部材として使われています。クリの名の由来は、実が黒褐色になるので「黒い実」→「黒実(クロミ)」→「クロ」と呼ばれるようになり、これが転じて「クリ」となったという説が有力なようです。また、古い時代には、「石ころ」のことを「くるくる」と転がるため「クリ」呼んでおり、クリの実も「くるくる」と転がる事から「クリ」と呼ばれるようになったという説もあります。何れにしても「クリ」という音が古くから日本で親しまれてきたようです。他にも、クリの実は殼の中に組み合わさって実が並んでいる事から、「組み合わさる」を表す「く」と「状態」を表す「リ」を合わせて「クリ(組み合わさっている状態)」となったという説もあるようです。

 

クリの学名「Castanea crenata (カスタネア・クレナータ)」の「Castanea (カスタネア)」は、フランス語の「châtaigne (シャテーニュ)」に相当し、英語では「Chest (チェスト)」です。そのため、英語では、実を意味する「nuts (ナッツ)」と組み合わせて、クリのことを「chestnut (チェストナッツ)」といいます。なお、楽器の「カスタネット」は、クリの木から作られ、学名のCastanea (カスタネア)」が語源となっています。クリのことを「マロン」と呼ぶこ&もありますが、これはフランス語の「マロニエ(トチの木)」がルーツです。「マロン」はトチの実のように一つの果皮(イガ)に一つの実が入っているものを意味し、クリのように複数の実が入るものを「châtaigne (シャテーニュ)」と呼んで区別しています。マロングラッセ(栗の実のシロップ漬け)は、もとはトチの実でつくっていたといわれています。しかし、トチの実はアク抜き等手間がかかるため、クリを品種改良し、トチの実のように一つの果皮の中に大きな一粒の実がなるクリが生まれ、それを「マロン」と呼ぶようになったようです。フランス語の「marron (マロン)」には「トチの実」とともに「(食用の)大きなクリの実」の意味もあります。中でもクリは縄文時代から、食材や木材として使われており、特に「縄文はクリの時代」といわれるほどよく使われてきた事がわかっています。集落の周りではクリの栽培が行われていたようで、クリ林が見つかっています。縄文の人々は、ナラやブナを伐採し、食料とするため、大きな実をつけるクリの木を選んで集落の周りに植えられていたようです。

 

縄文時代の遺跡のクリの殼のDNAを分析したところ、当時の人が特性のよいクリの実を撒いて、選抜を行っていたことが推定されました。桃「栗」3年…といわれるように、クリは成長が早く、実が安定して収穫でき、炭水化物を豊富に含んでいるため、稲作が普及する前の縄文時代の人々にとって、クリはクルミとともに重要な食糧でした木材としてクリ材は、水湿に強く、腐りにくく、しかも割りやすく、加工が比較的容易にできる事などが、古<から使われてきている理由といわれています。三内丸山遺跡では、クリの大木で組まれた建築物の跡が発見されシンボル的な存在になっています。また、遺跡の調査によると、丸太材を半割にして、円形に並べたウッドサークルや住居跡、低地に打ち込まれた杭群、水場遺構、漆器木地や各種木器、薪などのほとんどでクリ材が使用されていることがわかりました。また、ゴミ捨て場から出る炭化材の80%はクリであったという調査結果餘)もあります。三内丸山遺跡(縄文時代前期)の調査さらに、住居の炉跡に残る燃え残りの炭などもほとんどがクリで、燃料としても使われていた事もわかっています。縄文の人々は、栗の実をとって食糧とするとともに、クリの木を伐って木材として利用し、利用したあとは、燃料として利用していたと考えられています。縄文時代の人々はすでに、木材を資源としてカスケード利用していたようです。



もちろん、燃料として、燃やしても、カーボン・ニュートラルの考え方から、大気中の二酸化炭素を増やすことはなく、それが原因で温暖化が起こる事もありません。縄文の人々は、自然の恵みであるクリの特性について、経験により学び、木材のリサイクル性を活かし、すべて無駄な<利用するエコロジーな生活を営んでいたようです。一般にモノを燃やすと、温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)が発生します。しかし、自然界にあるバイオマスと呼ばれるもの(木や草、穀物など)を燃やしたときに発生するCO2は、もとは大気中のCO2を植物が光合成により取り入れたものです。つまり、バイオマスを燃やしたときに発生するCO2は大気に戻っただけで、長期的にみれば、大気中のCO2の増減はなく、循環しているだけという考え方を「カーボン・ニュートラル」と言います。ここでは、三内丸山遺跡(青森県)の例を紹介していますが、全国各地の縄文時代の遺跡からも、クリの大量の出土が見られます。

 

ほとんどの人にとっては、栗といえば、食材としての栗のイメージが強いと思います。しかし、クリ材は知る人ぞ知る優良材です。水湿にすこぶる強く、防虫・防腐処理をしなくても長期間使えるほどの耐久性があります。今でも民家の土台や鉄道の枕木など、強度と耐久性が必要な箇所に使われています。世界遺産となっている岐阜県白川郷や富山県五箇山の合掌づくりの主要部材の殆どがクリ材隗)です。土台や柱をはじめ、台所や紙漉きの仕事が行われる水気の多い土間などにもクリ材が使われています。古い時代のものほどクリが多く、最近はクリ材の入手が難しくなってきたため、時代が下るにつれて徐々に代替材に変わってきています。また、クリ材の強度は鉄道の枕木に使用されるほど強い材です。鉄道の枕木は何年も風雪に耐え、しかも、1本につき約1.5トン(刈もある重いレールの土台となり、車両が安全に通過できるように支えているのです。上記のように、クリ材は非常に丈夫であることは昔から知られており、家を建てるときにも土台にはクリ材が用いられてきました。

 

最近では、クリ材の強さや杢目の美しさを活かした製品も多く登場しています。フローリング材やデザイン家具をはじめ、古民家を解体したときに出る古材を使って味わいのある渋い魅力の木製品を制作している工房などもみられます。「食欲の秋」に関するWEBアンケート「秋になると食べたくなるもの」回答のランキングの中で、木に関する食材の第1位は「栗」で49.9%。単純に計算すると、日本人の約半数は秋になると「栗」を食べたくなるようです。また、遺跡の調査によると、栗は数千年前の縄文の時代から食材(食糧)や木材として使われていたようです。なお、ランキング中、木の実、果実など(木に関係する食材)が半数以上を材として使うクリの木は、実を採るための栗畑と違い、人が植えたものではなく、山に生えているものが殆どと云われています。今では、山に生えているクリの木は、少なくなったようですが、全国各地には、多くのクリの巨木が見られ、保護されている木も多<あります。



一部の人々にとって、クルミはただのスナックまたはパンやケーキのトッピングに過ぎませんが、クルミはそれ以上の美味しさと栄養を提供しています。クルミは、古代から健康食品として知られ、そのグローバルな評価は絶えず高まっています。独特の形状と味わい深い風味が特徴のこのナッツには、抜群にヘルシーな利点が詰まっており、心と体両方にとってメリットある食品です。くるみはその豊富な栄養価とともに、健康志向の高まる現代社会で重宝される種子類(ナッツ)の一つとして存在感を放っています。この種子類は仮果と核果に囲まれた状態で木に生育していて、私たちが日常的に口にする部分はその種子です。くるみの大部分は、現代の日本ではアメリカ・カリフォルニア州産のものが消費されていて、中でも特にマイルドな風味と淡い色合いが特徴的なチャンドラー種が多く栽培され、愛用されています。収穫期は8月末から11月末にかけてで、年間通じて手に入れることが可能です。

 

和菓子やパン類等の製菓にも多用されるくるみは、糖分を抑えたダイエット食としても利用される、私たちの生活にしっかり根ざした食品であるといえます。さらに、日本国内においても、はるか縄文時代から食べられていたと推測されています。そして、古代の北欧神話に登場するなど、世界各地の様々な文化とも深く繋がってきた歴史を持つくるみは、食用種子以外にも、木部分が家具製造等に利用されるなど、その利用範囲は広いです。頑強さと加工の易しさを兼ね備えたくるみの木は、世界三大名木の一つに数えられるほどの人気を誇っています。日本で自然に生息するくるみといえば、「オニグルミ」が頭に浮かぶでしょう。その固く大きな外殻の中には美味しくて、栄養価が豊富な肉質の種子が詰まっています。しかしながら、栽培されているくるみはペルシャグルミの系統を主に採用しており、その中でも特に注目を浴びるのが「日本くるみ」や一般的に「胡桃」と称されるものです。これらは、明治時代以前に中国から導入されたものとされています。

 

また、明治時代にアメリカから導入されたペカンノーツも人気を博しており、皮が薄いことと、香ばしい味わいが特徴的な種類として知られています。 さらに、馴染み深い「菓子ぐるみ」やブランド化されている「シナノグルミ」は、これらの種類から改良されたものであり、その違いを覚えておくと便利でしょう。私たちが普段食べているくるみの中には、日本特有の「大和くるみ」や小型で可愛らしい「ミニくるみ」、そして栄養価が高いと言われる「黒くるみ」も存在します。黒くるみは、その名の通り黒い外皮が特長で、「うるし塗り」の原材料にもなるほどです。くるみが持つ栄養価は、美容や健康にも大きく寄与します。特にその豊富な不飽和脂肪酸は、血液サラサラ効果や脳の活性化に役立つとされています。これらの特性を活かして食事に取り入れてみるのも一つの方法でしょう。「ローストされたくるみと生のくるみ、二つの違いは何でしょうか?」この答えは、その名前が示す通り、くるみの加熱処理の有無による差異です。



生のくるみが好まれるのは、自然な状態で、新鮮さとその野性味を楽しむからです。新鮮な生のくるみは爽やかさがあり、お菓子作りや料理にも最適です。とりわけフレッシュなサラダやベーキングのデザートには、その鮮やかな味と食感が絶妙にマッチします。対照的に、ローストされたくるみは、生のくるみが熱を加えて焼かれたものです。加熱することで、くるみ独特の味わいが引き立ち、香ばしさがより一層強調されます。焼かれた後のくるみは食感がさっくりとし、味も一段と引き立つため、チーズと一緒に楽しんだり、パンやクッキーのトッピングとして使われることもあります。ただし、焼きすぎには注意し、うまみを引き立たせる程度に火を通すことが推奨されています。優れている方を選ぶのは、料理の目的や個々の好みによるところが大きいでしょう。

 

くるみの自然な風味を活かした料理をするのか、それとも香ばしさを追求するのかによります。栄養面では大きな違いはありませんので、両方の味と栄養をバランス良く取り入れて楽しむのがおすすめです。くるみは栄養価が高く、多様な調理方法で楽しめる食材です。最も直接的な食べかたは、生の状態でそのまま味わうことです。ただし食べ過ぎに注意が必要で、1日に7粒(約28g)が摂取の目安となります。生のくるみを手軽に食べるだけでなく、様々な調理法を試すことで新たな味わいの発見も期待できます。レンジで短時間加熱すれば、香ばしさが増しやわらかな食感になります。また、ケーキやクッキーにトッピングする際も、焼いてから使用すると、風味が引き立ちます。さらなるアレンジとしては、クラッシュナッツをサラダやスープにトッピングしたり、くるみバターを作り出したり、また「くるみミルク」を作るのもおすすめです。

 

これらの方法で、くるみの独特な風味と栄養を最大限に活かすことができます。日々の食事にくるみを取り入れることで、健康的な生活を送る手助けにもなります。くるみの美味しさを知らずにいる方にとって、これらの活用法は新鮮な驚きをもたらすかもしれません。くるみの持つ様々な可能性に気づけるよう、ぜひこれらの方法を試してみてください。
一般的に、くるみの硬い殻を割るには、ナッツクラッカーを利用することが推奨されます。この厳しい紙製の守護者を手で突破するのは困難なだけでなく、不意に飛び散ることもあるため注意が必要です。くるみ割り器は、ペンチ形状で握りつぶすタイプや、レバーを使用して割るタイプなど、幾つかの異なる形状があります。ペンチ形状のナッツクラッカーでくるみの殻を割る際には、丸い「頭」部分を下に向けてクラッカーの内側にはさんでください。



梅は中国中部が原産と言われており、日本に入ってきたのが奈良時代と言われております。原産地については先にも書いた中国からの移植節と、日本古来の原産地節もありますが、真実はわかっていません。梅の名前の由来は中国の梅の漢音meiからきたものと言われています。日本では梅の実よりも、どの花よりも早く咲く「花」がまず注目を集めました。その為万葉集などをはじめとする歌にも梅が多く読まれております。梅の実が本格的に食されだしたのは鎌倉時代以降と言われております。また、戦国時代など、梅干は戦に携帯され大いに役立ちました。江戸時代、紀南地方を収める田辺藩主、安藤帯刀が、地元の米が育ちにくい田畑と重い年貢に苦しむ農民を見て、米のできない痩せた畑や山の斜面に生命力のある梅を植える様、奨励しました。

 

この頃の梅は「やぶ梅」と言い、果肉が薄く小粒なものでしたが、それでも庶民の生活にはかかせないものとなり、やがて江戸でも梅干しが人気となってきます。そこで、この梅の中から良質なものだけを選び「紀伊田辺産」という焼印を押した樽に詰め、江戸へ海上輸送しました。和歌山県、旧上南部村の村長の長男に高田貞楠(たかださだくす)という人物がいました。明治35年、高田が所有する桑畑に内中梅の苗、60本を植えた所、その内の1本に実が大きくて豊産、美しい紅がかかる優良種ができてきました。時は流れ、昭和25年、村内で優良品種の梅を5年に渡って調査する機会がありました。この調査の結果、高田梅は最優良品種に認定。この調査に尽力したのが南部高校の教諭、竹中勝太郎であった事から、高田の「高」と、南部高校の「南高」をかけて昭和40年に「南高」として種苗名称登録されました。そして現在に至るまで、「南高梅」は人々に愛され、「梅の王様」とまで言われる存在になりました。

 

梅はバラ科に属します。詳しく分類していくと、バラ科 → サクラ亜科 → サクラ属 → スモモ亜属 → ウメとなります。サクラ属には1.モモ亜属 2.スモモ亜属 3.サクラ亜属 4.アワミズザクラ亜属があり、梅の属する、スモモ亜属には梅の他に、スモモ、アンズがあります。現在、私たちが食べる食品の多くは、インスタント食品や、米、パン、肉や魚、卵など、酸性食品が多くなっております。逆にアルカリ性はというと、野菜や果物、海藻などになりますが、人間が健康でいる為には体液(血液や細胞液)を弱アルカリ性に保つ必要があります。これは大変!私の体は酸性になっているのでは?と思われる方も少なくないのではないでしょうか?たとえば、牛肉を100g(酸性食品)食べるとします。それを、きゅうり(アルカリ性食品)で中和しようと思った場合、なんと900gものきゅうりを食べる必要が出てくるのです。こんなに食べれないですよね・・・。でも大丈夫。梅干し(白干)ならたったの5g食べるだけで中和してしまうんです。まさに梅干しはアルカリ性食品の王様とも言えます。よく、お弁当やおにぎりに梅干しが使われますが、なぜでしょうか?これには梅干しに含まれるクエン酸が関係しています。梅干しに含まれる、クエン酸やベンズアルデヒドには微生物の繁殖を抑える効果があり、これがお腹の中で胆汁を活性化させ、腸炎ビブリオ菌を殺してしまうのです。また、梅干しがすっぱいのは、クエン酸のせいですが、クエン酸は疲労の原因となる乳酸の蓄積を防ぎ、カルシウムの吸収を良くしたりと、良い事づくしです。逆に最近流行のすっぱくない梅干(塩分3~5%など)はクエン酸も抜けてしまっておりますので、弊社では10%が主流。低くても8%以下の低塩梅干しは製造しておりません。やはり、昔ながらの梅干が一番です。